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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/10/25~10/31

2015-11-01 09:22:37 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/10/25~10/31

2015日々の聖句 10月25日(日)
お前たちのうちにいるであろうか。闇の中を歩くときも、光のないときも主の御名に信頼する者が。(イザヤ50:10)
イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マタイ14:27)
私の黙想:
イザヤ書50章の10節、肝心の中心部分「主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が」という部分が省略されている。面白い聖句の選び方である。最近のローズンゲンの特徴であるように思う。そして読者の黙想を(イザヤ書の文脈から切り離して)「闇の中を歩くときも、光のないときも」という普遍的な在り方へと導く。
長い人生には「闇の中を歩くときも」「光の中を歩むときも」ある。それは信仰という在り方の必然である。ある意味で、それは信仰者と神との関係を述べている。神が見えているときもあれば、神が全く姿を消して見えなくなっているときもある。問題は、その時、どうあるのか。むしろ、神が見えなくなっているときに、つまり人生における「苦しみの中で」、なお神を信じるのか。この場合の「主の御名」とは何か。思い切って言ってしまおう。建前としての信仰である。「信仰者としての意地」である。信仰は「意地っ張り」でなければ続くモノではない。

2015日々の聖句 10月26日(月)
神は、わたしの労苦と悩みを目に留められました。(創世記31:42)
マリアの言葉「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」(ルカ1:46~48)
私の黙想:
今日の聖句のポイントは「神は目を留められました」である。この言葉口語訳では「顧み」である。この言葉一見平凡に思うが、実は旧約聖書では「カギ」とも言うべき重要な言葉である。口語訳で数えると、102回も用いられている。ところが新共同訳では約半分の61回。特に重要な箇所は、例えば、創世記4章のアベルとカインの供え物について、神はアベルの供え物を顧みたが、カインの供え物は顧みられなかった。これを新共同訳では「目に留められ」という言葉に変えている。創世記におけるヨセフ物語の最後でヨセフの言葉として「神は必ずあなたがたを顧みられる」(50:25)と言う。出エジプト記2:25「神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」。これがあの出エジプトという大事件の始まりである。
フランシスコ会訳ではこの言葉を単に「見て」と訳しているが、新改訳ではちゃんと「顧み」と訳している。私はこの言葉がヘブル語原文でどうなっているのか分からないが、日本語聖書を通して同じ言葉が繰り返し用いられていることを大切にしなければならないと思う。勿論「目に留める」という言葉も悪くはないが。本日の新約聖書の言葉でも、文語訳では「顧み」という言葉が使われているが、口語訳では「心に掛ける」という訳語が用いられている。

2015日々の聖句 10月27日(火)
どうか、あなたの大きな慈しみのゆえに、(また、エジプトからここに至るまで、この民を赦してこられたように、)この民の罪を赦してください。(民数記14:19)
この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。(1ヨハネ2:2)
私の黙想:
今日の聖句、括弧内を省力することによって、出エジプトの時の特殊状況を離れ、神による普遍的救済の言葉となる。それで良いのだろうか。勿論、それだけでも充分過ぎる「福音」である。私たち(=人類)の救いは神の無限の「慈しみ(=恩寵)」による。キリスト教信仰はその福音の上に立っている。その意味では「私」のための福音でもある。
しかし、それがどうしたというのであろうか。福音は普遍性を強調すればするほど観念化され、無意味化する。全ての人に満遍なく降り注がれる恩寵は有り難さが減じる。有るのが難しいから有りがたいのである。
今日の聖句、カッコの中の「エジプトからここに至るまで、この民を赦してこられたように」という言葉によってそこで受けた一つ一つの「赦し」の経験が振り返られ、さらにもう一つその赦しを乞う切実さがある。神の恵みは具体的であり、特殊であり、一つ一つ数えることが出来る。決して観念的、普遍的なものではない。

2015日々の聖句 10月28日(水)
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。(エレミヤ31:31)
神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。(ロマ9:24)
私の黙想:
今日の聖句はエレミヤ書31:31、ここに出てくる「新しい契約」という言葉のゆえに、あまりにも有名なテキストである。しかし、今朝はここに「イスラエルの家」という言葉が出てくることに小さな驚きを感じている。預言者エレミヤの活動は、アッシリアによる北のイスラエルの滅亡(722)と、バビロニアによる南のユダとの滅亡(598)との間の時代である。おそらく彼の存命中に「イスラエルの家」は殆ど歴史上から姿を消し、「ユダの家」も風前の灯火という状況であった元と思われる。そこでのこの預言であった。このイスラエルの家の末裔がサマリア人であった。
自らこのエレミヤの預言の実現として自覚した初期のキリスト者たちは、当時のユダヤ人によるサマリア人差別にもかかわらず、この新しい契約の当事者としてサマリア人を受け入れていたのだと思う。教会はここから始まった。

2015日々の聖句 10月29日(木)
主の言葉:知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、目覚めてわたしを知ることを誇るがよい。(エレミヤ9:22~23)
わたしは福音を恥としない。福音は信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。(ロマ1:16)
私の黙想:
聖書は全体として、「誇ること」「自慢すること」について厳しい。基本的には人間には誇れるものなど何もないという姿勢である。ところが、今日の聖句では、もし、人間に何か誇ることがあるとしたら「目覚めてわたし(ヤハウェ)を知ること」だけである、という。ヤハウェを知るためには「目覚め」なければならないという。この「目覚め」、口語訳では「さとくあって」と訳されている。フランシスコ会訳は面白い「わたしを理解し」とあり、「わたしを知ること」と並べられている。何か二重のような気もする。新改訳では「悟りを得て」、文語訳では「明哲(さとく)して」と訳し「我を識ること」とつないでいる。いろいろ苦労している跡が見られる。日本語の文章としては新共同訳が上手く処理しているように思われる。名古屋の人が喜びそうな「明哲(めいてつ)」という言葉もあるのだというこtを知りました。広辞苑によると「聡明で事理に通じていること。またその人」と説明されている。と、そこで私は考えます。多くの賢い人は、明哲な人は、理解力のある人は、ここで止まってしまって、その次の「主を識る」に至らない。というよりも自分自身の明哲さを誇ってしまう。重要なこと、人間として誇れることは、そこに留まらないで次にステップ、「主を識る」に至ること、そこまで至れば誇ってもよろしい。やはり、哲学に留まってはいけない。神学にまで行かねば、などと自慢したりして、私はアホやな。

2015日々の聖句 10月30日(金)
わたしたちの神、主よ、(主は先祖と共にいてくださった。またわたしたちと共にいてくださるように。)わたしたちを見捨てることも、見放すこともなさらないように。(列王記上8:57)
実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。(使徒言行録17:27)
私の黙想:
今日の聖句は神殿が完成し、そこに神の筺を設置する式、いわば入魂式において、ソロモンは民を代表してヤハウェにこれまでの感謝とこれからの繁栄を願う祈りを捧げた(12~53)。それに続いて、ソロモン王は後民衆に向かって演説をした。今日の聖句はその中の言葉である。神殿の完成を記念する「王の談話」である。いわばソロモン王は「過去」と「将来」との間に立って演説をしている。その意味では、ローズンゲンが省略した括弧内が重要である。ヤハウェは「先祖と共にいてくださった」という事実(=経験)に基づいて、「わたしたちと共にいてくださるように」祈る。今日の聖句で取り上げられている、「見捨てることも、見放すこともなさらないように」という願望は、「共にいて下さい」という願望の内容(内訳)である。
主は確かに先祖と共にいて下さった。しかしその時の先祖の有り様は決して誉められるものではなかった。「にも拘わらず」主は共にいて下さった。この事実は事実である。今の私たちも決して誉められるものではない。しかし「敢えて願う」。現在の私たちを顧みるとき、「見捨てられて」、「見放されて」も当然である。「にも拘わらず」「敢えて願う」。当然の権利として願えるものではない。「にも拘わらず、敢えて願う」。これがイスラエルとヤハウェとの関係である。過去の歴史を無視したり、歪曲するとき、「現在の願望」も偽りとなる。ソロモンの演説には過去の歴史をしっかりと見る姿勢が整っている。

2015日々の聖句 10月31日(土)
わたしの魂よ、再び安らうがよい。主はお前に報いてくださる。(詩116:7)
あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。(マタイ6:8)
私の黙想:
私が私の魂に呼びかけている。「再び安らうがよい」と。一体、何があったというのだろうか。ここで「私」と「私の魂」との関係を論じても何も生まれたない。まさに自己確認である。私の中で私自身に語り掛け、自己を確認している。語りかけている「私」は私自身であり、語りかけられている「私」は神との拘わりにおける「内なる私」である。現実の私は現実に振り回されてフラフラしてその歩みも定かではない。しかし「内なる私」は私の不動の一点である。私は私の人生において何度「わたしの魂よ、再び安らうがよい」と語りかけたことだろう。口語訳ではこれを「お前の平安に帰るがよい」と訳している。フランシスコ会訳では「安らぎに戻れ」。新改訳は激しい「お前の全きいこいに戻れ」。それぞれ面白い。「内なる私」から、お前の歩き方を見ていたら、ハラハラして、昼寝なんかしておれないよ」という声が聞こえてくるような気がする。「後もう少しですから、よろしく頼みます」と返事をしておこう。
今日は宗教改革日記念日だ。世界のキリスト教の歩みを見ていて、天の神もさぞハラハラして居られることだろう。

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