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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/10/29~11/04

2017-11-04 16:58:00 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/10/29~11/04

2017 日々の聖句 10月29日(日)
アモスはアマジヤに答えた、(「わたしは預言者でもなく、また預言者の子でもない。)わたしは牧者である。わたしはいちじく桑の木を作る者である。(アモス7:14~15、口語訳)

預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。(1コリント14:3)

私の黙想:
今日の聖句、「日々の聖句」では括弧内を省略している。また、示されている範囲は15節を含んでいるのに、本文では14節だけである。しかも、取り上げられているのは口語訳である。どこが違うのか。ははーん、新共同訳には「わたしは牧者である」という言葉が避けられている。おそらく「日々の聖句」の編集者はこの言葉に拘ったのであろう。どうせそれに拘るのならば、括弧の中も取り上げるべきであろう。「〜〜ではなく、〜〜である」ということがセットになっている。預言者アモスの最大の特徴は,専門の「預言者」ではないということで、いわばアマチュアの,臨時雇いの預言者である。なぜ,彼が預言者として指名されたのか。プロの預言者たちが堕落してしまって役に立たないからである。そういう場合に、ヤハウェは,こういうこともするのだ。だからここでいう「牧者である」という言葉は重い。教会では牧師のことを「牧者」というが、聖書において「牧者」という場合は,プロの聖職者(宗教家)ではないという意味である。フランシスコ会訳ではこの語を「牛飼」、関根先生は「わたしの商売は牧畜と桑の木の栽培だ」と丁寧に訳している。なぜ、新共同訳は「わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ」と正確に訳している。
現在、教会でアモス書のこの部分を牧師が読む場合、「わたしは牧者である」というどう理解しているのか。この言葉の本来の意味は「わたしは牧師ではない」という意味である。

2017 日々の聖句 10月30日(月)
わたしはお前たちを(昔のように人の住むところとし、初めのときよりも)更に栄えさせる。そのとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。(エゼキエル36:11)

わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(ロマ8:32)

私の黙想:
今日の聖句はエゼキエル書から。「更に」と言われても、何から「更に」がわからない。「日々の聖句」の編集者は括弧の中を省略しているから、聖書の読みが浅くなる。ここでの「お前たち」とは6節にあるように、「イスラエルの地」であり、「その山々と丘、谷と低地」である。バビロン捕囚によりそこが荒れ地になっているという。実際には多少は荒れてはいたであろうがイスラエルの民がいなくなっていたわけではなく、そこには「祖国残留組」が生活をしていた。しかし、指導者たちがいなくなった祖国は荒れ放題になっていると、バビロン捕囚組の人びとは思っていた。エゼキエルの預言はバビロン捕囚組の中で祖国復帰を願う預言であった。今日の聖句はそれを背景に語られている。
あなたたちが祖国に復帰して、祖国を再建しなければならないとエゼキエルは語っている。その意味で、今日の聖句はいかにも預言者エゼキエルらしい言葉である。「その時」、以前よりも「更に」豊かな土地になる。そして、その時に「以前に増して」、ヤハウェを「主」と認めるようになる。

2017 日々の聖句 10月31日(火)
悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ。(詩34:15)

キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。(ロマ15:7、口語訳)

私の黙想:
今日は宗教改革記念日だ。いわば、ルターにはその気はなかったにせよ、カトリック教会に対して「反抗(プロテスト)」した日だ。その点では今日の聖句は相応しくない。と、ひとこと皮肉を言っておいて、今日の聖句を考える。「尋ね求め」ということと「追い求め」とはほとんど同じ意味ではないだろうか。この点、口語訳はスッキリしている。「悪を離れて善をおこない、やわらぎを求めて、これを努めよ」。手元の邦訳を見ても、それぞれ工夫している。
そもそもこの詩は、ダビデが息子アビメレクから反抗され、宮廷から逃げ出したという設定の許に書かれている、一種の詩的ドラマである。息子から反抗されて逃げ場を失ったダビデが最終的には「狂気を装う」という悲劇。息子の暴力から逃げながら、狂ったふりをして、「子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう」と語る父親の気持ち。これが今日の聖句に込められている。

2017 日々の聖句 11月1日(水)
人を侮るように神を侮っているが、神に追及されてもよいのか。(ヨブ13:9)

神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。(ヘブル4:12)

私の黙想:
今日の聖句、口語訳とでは、前半と後半とが逆になっている。「神があなたがたを調べられるとき、あなたがたは無事だろうか。あなたがたは人を欺くように彼を欺くことができるか。私には原語から判定することはできない。それで他の訳と比較してみる。フランシスコ会訳、新改訳は口語訳とほとんど同じ。関根訳もほぼ口語訳と同じ。岩波訳は少し違う。「彼があなたがたの内を探るならば、それは良いことだ。あなた方は人を欺くように、彼をも欺こうというのか」。そして「内を探る」の動詞はハーカル。エリファズはこの動詞を用いて神の道理を「窮め尽くした」(5:27)とヨブを諭している。ここでは逆にヨブが神が友人たちの内実を探ることを歓迎する。ほぼこれで、新共同訳のユニークさがハッキリした。なぜ新共同訳は「侮る(バカにする)」だというような単語を用いたのであろう。
神は私たちの内側、つまり本音を見破られる。神を騙そうなんて言うことはとうていできないことだ。私たちの言葉や行動が神の前で誠実であるかどうか。人間を騙せても神を騙すことはできない。神はすべてをお見通しだ。これらの訳を通して重要なポイントは岩波訳が「それは良いことだ」という言葉であろう。これをハッキリと訳出しているのは、岩波訳と文語訳である。「神もし汝らを監察(しらべ)給はば豈(あに)善からんや、汝ら人を欺くごとくに彼を欺き得んや」。ここでの「豈」とは非常にという強調の言葉である。ここがヨブの強みであった。その点を友人たちは誤解している。

2017 日々の聖句 11月2日(木)
心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。(イザヤ35:4)

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。(1テモテ1:15)

私の黙想:
旧約聖書は「雄々しくあれ」という言葉が好きなようで、新改訳では12回も繰り返されている。(申命記31:6,7,23,ヨシュア1:6,9,10:25,列王記上2:2,歴代誌上22:13,歴代誌下32:7,詩27:14,31:25,イザヤ35:4)。但し口語訳では、5回だけ。(ヨシュア1:6,1:9,10:25,サムエル下2:7,詩27:14)。
新共同訳と口語訳とのズレが面白い。例えば、詩31:7は口語訳では「心を強くせよ」と訳されている。もう一つ申命記31:6は口語訳では「あなたがたは強く、かつ勇ましくなければならない」。もっと多いかと思ったが案外少ない。日曜学校の讃美歌に「雄々しくあれ、強くあれ」というのがあったように思う。私の記憶ではヨハネ16:33に「雄々しくあれ」という言葉があったように思っていたが、新共同訳にも口語訳にもない。両方とも「勇気を出しなさい」と訳されている。おかしいなと思って、文語訳を見たらありました。「なんじら世にありては患難あり、されど雄々しかれ。我すでに世に勝てり」。私の大好きな言葉である。子供の時に覚えた聖句は80歳をすぎても忘れないものである。
そこで大きな脱線を、聖書というものの翻訳は非常に重要である。一般の信徒にとっては聖書は「翻訳されたもの」ではなく、まさに「聖書」なのである。少しぐらい、研究が進んだからといって、新しい翻訳を出すことは問題である。勿論、研究はなされなければならないし、その成果は注解書や説教において補えば済むことである。むしろ、その方が説教が面白くなる。

2017 日々の聖句 11月3日(金)
主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか。(詩10:1)

イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコ15:34)

私の黙想:
今日の聖句の「なぜ」に率直に答えよう。それは主があなたを信頼しておられるかである。これ以外の返事はない。今朝の朝日のコラム「折々のことば」で、詩人、河野裕子さんの詩が紹介されている。《朝に見て昼には呼びて夜は触れ確かめをらねば子は消えゆくもの》。恐ろしい言葉をサラッと言っている。これが短歌の魅力であろう。親とはそういう存在であるが、それが何時までも続くものではない。子が成長していくことは、消えなくなるのではなく、離れていくものである。親としたら、朝昼晩見て、語りたいと思うであろうが、それでは子が成長しない。時には親は子供の視線から身を隠すこともある。更に成長し成人になると、生活も離れる。そこで初めて親子の信頼関係が重要になる。信頼出来る子には見ていなくても触れていなくても、語り合わなくても安心しておられる。親が安心している姿を見て、子も親を信頼する。苦労していることはわかっていても口出ししない。とは言え、私は朝昼晩と孫のツイッターを見て安心している。何かあればラインで言ってくるだろうと。

2017 日々の聖句 11月4日(土)
御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。(詩21:14)

人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。(ルカ6:45)

私の黙想:
今日の聖句、とりつく島なし。どうぞ、ご自由に、という感じ。ところが、これを口語訳で読むと少し違う。「主よ、力をあらわして、みずからを高くしてください。われらはあなたの大能をうたい、かつほめたたえるでしょう」。明らかに祈りの言葉であり、それに応えるヤハウェと我らとが対応している。しかも、この詩を初めから読むと「王のための祈り」である。王自身の「力」をたたえているのではなく、王に力を与えてください、という祈りであることがわかる。こういう王と民衆と神との関係は気持ちが良い。
現在の日本の最大の問題は「一強」である。余りにも一人の権力者に権力を与えすぎている。そういうことになってしまった原因はいろいろあるが、もうこれ以上権力を与えることはできないし、むしろ私たちの祈りは権力の剥奪である。

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