ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 09/30~10/06

2012-10-09 08:31:48 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 09/30~10/06

losungenj 2012.09.30(sun)
主よ、あなたも憐れみの心を閉ざすことなく、慈しみとまことによっていつもわたしをお守りください。(Ps40:12)
主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。(2Thes3:3)
私の黙想:
この詩の雰囲気としては一人の聖職者の祈りである。「あなたも」の「も」が効いている。私は自分の務めを一所懸命果たしている。だから「あなたも」私の願いを聞いて欲しい。これを聖職者の特権意識だとかエゴだとかと受け取ってはならない。この背後に聖職者の深い孤独感が漂っている。

losungenj 2012.10.01(mon)
わたしは信じます。命あるものの地で主の恵みを見ることを。(Ps27:13)
今や、恵みの時、今こそ、救いの日。(1Cor6:2)
私の黙想:
「私は信じます」という言葉は短いけれど非常に強い言葉だ。親子であれ、夫婦であれ、友人同士であれ、恋人同士であれ、「私は信じます」という言葉が出て来たら、もう全ての疑問は吹き飛ばされ、議論は終わる。しかしどういう状況で私は神に向かってこの言葉をいうのだろう。私は神への疑問は少しもない。あるとすれば神への疑問ではなく、神を信じるに至る道に転がっているさまざまな障害物である。

losungenj 2012.10.02(tue)
主はわたしを遣わして、主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知させた。(Isa61:1,2)
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入られた。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(Lk4:16,21)
私の黙想:
「神の報復」という言葉は歴史における神とイスラエルの民(=人間)との複雑な関係を含んでいる。民を懲らしめるための「神の器」とされたバビロニアに対して、神が報復する。そんなことはあり得ない。それはイスラエルの民の歪んだ歴史観を反映している。この歪んだ歴史観はどこかで修正されねばならない。人間の考える歴史は常に歪みを受けている。

losungenj 2012.10.03(wed)
主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。(Ps41:5)
四人の男が中風の人を運んで来た。イエスは四人の信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。(Mk2:3,5)
私の黙想:
「神への罪」とは、ユダヤ人哲学者、レヴィナスのいう「根源的契約」としての十戒に対する違反行為である。全ての人間は生まれた瞬間、生か死か未分化の状況の中でオギャーと声を発し「生きる」ことを選択した。その決断を「保護者=両親」は認め、援助した。今、読んでいる本の影響が大きい。

losungenj 2012.10.04(thu)
主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。(Gen39:23)
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。(1Cor3:6)
私の黙想:
「うまく計らう」、口語訳では「栄えさせた」、「成功させてくださった」(フランシコ会訳、新改訳)。「うまく計らう」という日本語には裏工作のイメージがある。ここはヨセフがエジプトの監守長のために働いているのである。ヨセフの公正さ、透明性が強調されなければならない場面である。ここでの神の介入も表裏があってはならない。「うまく計らう」はイメージを壊す。

losungenj 2012.10.05(fri)
主は救いを示し、恵みの御業を諸国の民の目に現された。(Ps98:2)
この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。(Act28:28)
私の黙想:
ここでいう「救い」とはイスラエルの民の救いであって、その事実が諸国民の目にもはっきりと「神に業」だということが明らかに分かるように起こったという。昨日のヨセフに対する神の配慮は見えない形で、ここでは見える形で神は働いている。神は変幻自在である。

losungenj 2012.10.06(sat)
喜びの声をもって告げ知らせ、地の果てまで響かせ、届かせよ。主は僕ヤコブを贖われた、と言え。(Isa48:20)
神は御心のままに満ちあふれるものを余すところなく御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるもの、天にあるもの、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。(Col1:19-20)
私の黙想:
何故、ここで「僕ヤコブ」なのだろうか。イスラエル人は、あるいはイザヤの時代のユダヤ人は、「あなたは僕ヤコブだ」といわれたとき、どういう意味に解するのだろうか。あまり「名誉ある先祖」とは思わなかったのだろうか。若い頃は狡く立ち回り、妻を4人も持ち、歳老いてからは、息子たちに縋り付いて生きる。情けない先祖、徹底的に人間性丸出し、しかし一貫して神と関わって生きる。







最新の画像もっと見る