ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

松村克己『ヨハネ福音書講釈』再話(06)<8:12~9:41>

2015-06-23 06:39:56 | 松村克己関係
松村克己『ヨハネ福音書講釈』再話(06)<8:12~9:41>

第8章

8:1~11は7章の後に付加。
8章は全体としていろいろな資料がモザイク模様のように並べられている。
8:12~20は、7:24に続くと見ると思想の連絡は緊密となる(マックグレゴール)。
これらの教えは賽銭箱の傍で語られた(20節)と解説されているが、賽銭箱は13個あり、神殿の境内の「女の苑」に置かれている。「わたしは世の光である」との言葉を、仮庵の祭の際、女の苑に立てられる4脚のかがり火(荒野の旅における火の柱を記念するもの)の連想から出たものとして、この場所を選んだのかと思われるが、バートンは生まれながらの盲人が癒されたという記事の後に10:19~21を置き、その次にこれを配している。
8:21~30は、7:34の言葉を再び取り上げて人々がイエスと共に行くことが出来ない理由を罪のためであると明言し、不信こそが罪であるということを明らかにしている。
8:31~59においては、信仰はイエスと共に居ることを可能にするだけではなく、真理を知り自由を得ることを約束する。この最終部分は更に3つの部分に分けられ、アブラハムの子孫と悪魔の子孫(「悪魔から出てきた者」)との対立を論じ、そこからイエスの永遠性の主張に展開し、ユダヤ教の指導者たちとの最終論争となる。

1.イエスの弁明 (12~20)
12節
「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。これは「わたしが生命のパンである」(6:35)、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがいい」(7:37)などと同じく、信仰への招きの言葉である。「世の光」「命の光」という言葉はすでに序詞(1章)の中に現われた思想であった(1:4、5:9)。「命の光」という言葉には3つのことが含蓄されている。第1、生命から出てくる光、キリストの生命が発する光であり、この光は生命において現われ経験される。第2、生命を与える光。第3、生命である光。光とはキリストの特性を示す言葉である。そして信じるということは「彼に従い」、「生きる」ことに他ならない。「闇」とは災い・危険・無知・悪を意味する。
このイエスの自己証言に対してパリサイ派の人々は再び抗議する。彼らはイエスの言葉そのものを聞き、その指し示すところを見ようとせず、律法学者としての立場・見方のみが正しいと型式的・絶対的に信じているからである。イエスはこれに対して、なるほど自己証言というものは型式的には真実ではないと言えるが、わたしの場合には内容的に真実なのだと、これを自覚の有無に根拠づけて答えている。このことは哲学的にも宗教的にも重要な点であって、法的立場の不充分さを示すものである。また今日の問題に移して言えば、社会的なものに対する実存的なものの固有性ということも出来る。彼は「わたしがどこからきたのか、また、どこへ行くのかを知っている」。しかし彼らは「知らない」。これは重要なポイントである。
人生の出発点と帰着点を知るということは、人生を超越することなしには不可能であり、人生を超越することは口では言えても、ほとんど不可能なことである。ちょうど自分の影を踏み越えることが不可能であるのと似ている。自ら自己を超えることは恐らく実際的には出来ない。ただ出来ると思うことが出来るだけである。そして多くの人々はこのほとんど無意味な道でなんとか満足しようとしている。しかし自分自身では不可能なこの「超越の悲願」を実際に達成する道がある。それは超越者の恵みにより、彼の生命に与る交わりの道である。愛の経験である。
イエスは神を父として知るこの経験に生きて、自己の限界を知ると同時に、自己を越えることが出来た。彼の驚くべき大胆な証言と主張とはすべてこの根源的な謙虚さに基づけられている。彼のこの自覚・自意識の深さを示す彼の言葉を人々が全く理解し得なかったのは、実は理解しようとしなかったからである。「御心を行なおう」としなかったからである。もし御心を行おうとすれば、そこに交わりの可能性と道とが開かれる。イエスは絶えずこのことを呼びかけているのである。それが霊の世界である。「風(霊)は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこに行くかは知らない」(3:8)。彼らは霊の世界の動きを目前に見ながら、その実態を知らない。しかし「霊から生まれる者」はこれを自分自身の経験と自証とに基づく自覚においてこの実態を把えることが出来る(3:8)。彼らはイエスを信じない、従ってその自意識に関わることが出来ないのでイエスの父を知らない。従ってまたイエスをも知り得ない(19節)。イエスを知ることなしには神を知ることができない。イエスを知ることによって神を父として知る、というのがキリスト教の根本主張である。キリスト教は、ただ漠然と神を知り神を信じるというのではない。キリストこそ、キリスト教の中心でありまたその秘密である。彼は単独で存在しているのではなく、常に神と共に存在し(16:32)、イエスは神に居り、神は彼に居り(14:10,11、17:21~23)一つである。イエスのうちに神を見るのではなく、イエスを知り彼と共に歩むことによって、彼の心を知り、彼の心に生きる父に出会うのがキリスト教である。

15節
「あなたがたは肉によって人をさばく」。彼らの判断は外貌によって、皮相的であり、感情的であり、自己中心的である。それが「肉によりて」ということである(2コリント16:12)。だからその判断・さばきは間違う。「わたしはだれもさばかない」。イエスは上記のような意味では誰も裁かない。しかしそれはあらゆる判断を停止するというのではない。かえってイエスは一つ一つに当たって明確な判断をする。彼に従って歩むキリスト者もまた、この点では同じである。ただそのさばきは自己を中心にして、自己を求めてなされるのではなく、父の御心を求めてなされる。父より聞くままにさばき判断する(16節)。だから「わたしのさばきは正しい」。1人の判断また証言は信用出来なくても「ふたりによる証言は真実」だと律法も教えているように(申命記19:15)、二人の判断は信じてよい。イエスのさばき・判断は彼一人のものではなくして「わたしをつかわされたかたがわたしと一緒だからである」。そして父のこの内なる証しこそ彼にとって何ものにも勝る力であった。父はまた彼の業によって外からこの証しを支える(5:36)。

18節
ことごとに父と言って背後に神をひけらかすことが、パリサイ派の人々にとっては我慢出来ないことであった。「あなたの父はどこにいるのか」出して示せと迫る。しかしそのような仕方で彼らに父を示すことは出来ない。ピリポの問いに対する答のように「わたしを見た者は、父を見たのである」(14:9)イエスを見、イエスを知ることなしに、父を見、またこれを知る道はない。

20節
この出来事は「さいせん箱のそば」で語られた。その位置はサンヘドリンに近づいていることを示している。イエスは役人たちが集まる場所の近くで語っておられたが、まだ「イエスの時」来ていなかったので、この大胆な行動にも関わらず、彼らはイエスに対処することは出来なかった。

2.死を予見して――最後の訴え (21~30)
21節
「わたしは去って行く」、イエスは世を去る時の近いことを感じている。イエスは思いをこめて人々に訴える。訴える内容は、7:31以下に同じである。「わたしのいる所」も「私の行く所」も意味は同じである。「わたしの行く所には、あなたがたは来ることが出来ない」。その時人々はイエスを探し求めても、見つけることが出来ない。暗闇の中を歩き「罪のうちに死ぬ」ことになる。
彼を信じて罪の赦しを受けない者は、光の中を彼と一緒に歩くことができない。イエスの弟子たちもしばらくの間は彼と離れて夜の経験をしなくてはならないが、それは一時的である(13:36、14:3)が、信じない者は永久にである。罪とは死と闇である。ユダヤ人たちはこのイエスの言葉を彼ら自身への呼びかけであることと思わないで、自分勝手に解釈して混乱する。「彼は自殺しようというのだろうか」。この慌てぶりと混乱とが彼らの罪の現実を暴露している。「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上から来た者である」。イエスと彼らとは異なる世界に属している。そしてそれは信仰の有無による(1:12)。「もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」という句の「そういう者」とは一体何であろうか。「わたしは世の光である」「わたしは命のパンである」「わたしは真理である」等に見られる「わたしは~~である」と同じことであることは明白である。この表現については既に述べたように、神的実在が目の前に存在していること、神の自己啓示を思わされる神秘的な響きを持つ表現であるが、これで単純にイエスのキリスト証言であるとか、あるいはキリスト信仰への要求と見なすすべきではないであろう。イエスの言葉によって彼を信じ、その言葉に居りその言葉を守って彼との交わりに歩まない限り、人は世と罪の中に朽ち果ちる運命を免れることが出来ないという意味であろう。
信仰とは、つまりイエスが人々に要求した信仰とは、恐らく無条件な受け入れではない。神道と仏教との伝統を持つ日本人は一心に帰依することを信仰と思ってしまう。しかしそれはいわゆる「信心」であって、信仰とは区別されなくてはならない。信仰とは信じる対象をしっかり見て、それを明らかに認識することを含んでいる。認識とは経験に基づいた自覚の上に成立する。「わたしは~~である」と語る者が本当にそうなのか、またその言っている内容が事実であるか、彼の語る言葉に従って生き、それを彼の生る姿に重ね合わせて確認することが含まれ、また要求されている。信仰とはイエスのありのままの姿、つまりわたしたちの目の前に描き出された「十字架につけられたイエス・キリスト」(ガラテヤ3:1)を肯定し承認することに始まる。人間的な彼の存在が単なる人間的地平を割っていること、神の業がそこに隠されていることに気付くと共に、彼の存在、彼の人格という事実に驚ろき、心が動かされて、彼の存在に自分自身を委ねきって、共に歩こうとすることである。そこには驚きの経験から「あなたは、いったい、どういう方ですか」(25節)という問いが出てくる。
今、ようやく人々はこの問いへと導かれたが、彼らはこれを直接にイエスに向かって問うが、自分自身に向かっては問おうとしない。信仰はこの問いが、イエスに向けられると同時に、自分自身への問いとなるところに始まる。「あなたがたはわたしを誰というか」(マルコ8:29)。イエスは彼らの問いには直接に答えないで、彼が語り、告げて来た言葉から彼ら自身が判断し、決めることを求めている。「わたしがどういう者であるかは、初めからあなたがたに言っているではないか」、言い換えると、「一体、今わたしがあなたがたに話していることは何なんだ」。「今、わたしはそれを喋っているではないか」。そのことに気付かないということは、「神の御心を行なおう」とする意志がないからである。それでもなおイエスは語る。言いたいことは沢山あるが、それもみな、今までに語ったことと同じように「わたしを遣わされたお方」から聞いたことである。
イエスの言葉と行為はすべて人々の眼と心とを「父」に向かって開くことを目指している。しかし人々はそれを「悟らない」。イエスはこのような状況において最終的な証しの手段・方法を考えている。それは神への従順の道を貫徹し、命をかけて、つまり死ぬことを通して彼の生き方の真実であることを人々に訴えようとする道である。人々は生ける神との生ける交わりを知らない。またこれを知ろうともしない。ただ過去の人々や学者たちの権威に依存し語りまた理解しようとしている。イエスにとってこの最終的手段も自分自身の意志ではなく、父なる神が示しておられることである。その時が間近に迫っていることを感じ、最後の訴えをする。「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう」(28節)。ここで言う「上げてしまって」とは十字架と昇天とを意味する。
ユダヤ人たちが出来ることはイエスを十字架に「上げる」だけであるが、神はこれを「天に上げられる」。
地上における最大のスキャンダルは天の栄光に包まれて彼の本質を開示する。それは彼が何事をも自分自身の意志に従って行わなかったということ、父なる神が彼に語られたことだけをそのまま人々に語られたこと、それ以外のことは一切話さなかったこと、そこまで徹底的に従順であった。このことが彼において可能であったのは、彼を遣わした父なる神が常に彼と共におられたからである。イエス自身のこの確信、神との交わりの深さは聞く者にも深い感銘を与えた。「これらのことを語られたところ、多くの人々がイエスを信じた」。

3.最後の論争 (31~59)

(1) 自由の約束 (31~36)

「イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた」。ヨハネは「信じる」ということにいろいろな段階と内容とがあると考えている。それはパウロの「信仰より信仰へ」(ロマ1:17)の理解を継承している。彼の言葉を聞いて信じたユダヤ人たちの信仰をイエスは簡単には信用しない(2:24)。それが一時的のもので長続きしないことを知っているからである。しかし信じるようになったチャンス利用して、さらに信仰を深めようとされる。そのことは同時に彼らの間違った信仰を明らかにすることにもなる。このようなプロセスを経てわたしたちの信仰は純粋になり固められ、わたしたちの思いも、イエスの思いに近づいて行く。信仰とはパウロの教えているように自分の思いに従って生きることではなく、「キリスト・イエスにあって神に生きている」ことだからである(ロマ6:11)。イエスは「ほんとうにわたしの弟子である」ためには「わたしの言葉にとどまって」いなければならないと言われた。「言葉にとどまる」とは教えにとどまるということである。言葉を聞くだけではなく、これを行ない、外面的な理解というよりはもっと深い内面的な意味を体験することである。文字から霊へ、言い換えると、言葉から人格的共同に至ることである。その結果として32節で述べられているように「真理を知る」ことと「自由を得る」こととが生じる。
信仰とは固定した思想で満足するのではなく、常にイエスの言葉に従って彼と共に歩むことである。そのことが再び強調されて、イエスは信仰とは生活であり、生ける姿において知識と自由とを頂くことだと教える。これを裏返せば、本当にイエスの弟子となるまでは真理を知っているとは言えないしまた自由ではない。そこで彼を信じたという人々も躓いて反論する。「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない」と。イエスがここでいう真理とは抽象的一般的な真理ではなく、イエスを通して知った神であり、自由とはその神との生ける霊的共同の中に、把えられる自由である。そこで彼は言葉を改めて、「よくよくあなたがたに言っておく」と言った上で、確かにあなたがたは人の奴隷となったことはないだろうが、実は「罪の奴隷」なのだと語る。人間は何ものかに心を縛られて生きている。そして人間の心を縛るもの、それが神以外のものである限り、人は常にそれに固執し、他のものを排除し自己を主張しようとする。それが罪である。神に創造られ、神の家にありながら神を父と呼べない心は、常に不安と怖れの中にで生きている。それが奴隷の姿である。奴隷の家に居るのは本来的な姿ではなく、神の子は神の家に居るのが本来的な姿である。子である者、子とされた者の「自由」こそ、本来的に神の子でありひとり子であるイエスによって信じる者に与えられる恵みである(ロマ8:15、6:16、20、 2ペテロ2:19)。イエスの意味するところは霊的精神的な自由であるが、ユダヤ人は血統上のせいぜい市民的自由しか考えることが出来ない。イエスがここに約束する信仰における自由とは、究極においては「永遠の生命」と呼ばれているものと同じである。

(2) ユダヤ人の父、アブラハムか悪魔か (37~47)

イエスはユダヤ人たちが自分たちのことをアブラハムの子孫だと主張していることを認めている。「それだのに、あなたがたはわたしを殺そうとしている」。おかしいじゃないか。「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい」。「ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。そんなことをアブラハムはしなかった」。あなたがたの父アブラハムが、そんなわたしを殺せと命じる筈がないではないか。従ってアブラハムがあなたがたの父である筈がない。「わたしはわたしの父のもとで見たことを語っている」し、「あなたがたは自分の父から聞いたことを行っている」のであろう。では、あなたがたの父とは誰か。はっきり言って、あなたがたの父とは「悪魔」である。「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ」。
イエスの言葉を受け入れようともしないし、まして実行しようともしないで、自分勝手な生き方をしている連中が「自分の父から聞いたことを行っている」といっても、その「父が問題なのである。彼らがいくら「わたしたちの父はアブラハムである」と連呼しても、それは空文の繰り返しに過ぎない。彼らはこの言葉がイエスに通じないと思い、少しランクを上げて「わたしたちにはひとりの父がいる。それは神である」(41節)と叫ぶ。「わたしたちは、不品行の結果うまれた者ではない」とも言う。この言葉にはイエスの出生に関する皮肉・嘲笑・攻撃が含まれている。と思うが、何とも言いようがない。ともあれ、彼らは「わたしたちは主なる神の正統な息子である」と主張する。これは明らかにイエスが彼らの父は悪魔であるということに対する反論である。イエスはこれに対しても簡単に否定する。「神があなたがたの父であるならば、あなたがたはわたしを愛するはずである。わたしは神から出た者、また神からきている者であるからだ。わたしは自分からきたのではなく、神からつかわされたのである」(42節、1ヨハネ5:1)。
ここでの議論はかなり激しい。自分の願望を信仰という形で表明する人々は、結局その願望に押されて、信仰が空回りし、信仰に生きる人々を憎み、殺すというところまで行ってしまうのである。イエスはこのような群衆心理をすでに幾度となく経験している。これがここでの議論の結論である。
「神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従わないのは、神からきた者でないからである」(47節)と断定する。46節の「あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると責めうるのか」との問いは強い攻撃の言葉であり、イエス自身の自覚を示す重要な句である。

(3) イエスの永遠性 (48~59)

議論によってではなく、事実によって徹底的に批判されたユダヤ人たちは、最終的にイエスを狂るっている、言いだした。「サマリヤ人」とはユダヤ人にとって同族でありながら交際しない相手であり、当時、サマリヤの地は魔術者たちの故郷として知られていた(使徒8:9以下)。彼らはイエスに超自然的な力があることを認めるが、それを神によるものではなく、「悪霊に取りつかれた者」だという。このことは今に始まったことではなく、また当時だけにとどまらない。
しかしこのことこそが彼らの敗北を決定づけることであった。しかもイエスはなお諄々(じゅんじゅん)と教え続ける。「わたしは、悪霊に取りつかれているのではなくて、わたしの父を重んじている」(49節)ののだ。その彼を「軽んじる」ユダヤ人たちがどうして神の子であり得ようか。「わたしは自分の栄光を求めてはいない」と繰り返して言う。彼によって栄光を受けた父は、「彼にも栄光をお授けになる(13:32)。判定するのは神で、信仰者は自分自身を神に委ねて生きるだけである。イエスははっきりと彼らに語った。「もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」(51節)。
この言葉が再び彼らの怒りをかった。そして言う。今やはっきりした。「あなたは悪霊に取りつかれている」。先に自由という言葉につまずいたユダヤ人たちは,今度は「いつまでも死なない」、つまり永遠の生命という言葉に躓いた。「自由」という言葉も「永遠の生命」も同じ事柄を示してるので、当然のことである。イエスによって生きようとする者、彼の言葉を守る者が「いつまでも死なない」というのであるならば、イエスは「アブラハムよりも偉いということになる。アブラハムを初め預言者たちも死んだのに、永遠に生きるということを保証するこの人は一体何者なのだ。
彼らが驚くのは当然である。しかしこの驚きから生じた問いが自分自身に向かわないで、「あんたは何様なんだ」と相手に投げかけるところに、彼らは救われない。アブラハムも預言者たちも永遠の生命を信じまたこれを指し示すことができただけで、これを保証することはできなかった。これが可能なのは確かに彼ら以上のものでなければならない。本当にそうかどうかは、彼の言葉どおりに生きてみるしか本当のところは分からない。しかしユダヤ人たちは決してイエスと共に生きようとはしない。彼らはただ彼を批判するだけであり、イエスもまたこのことについて直接的に答えようとはしない。ただ消極的に、自分自身の栄光を求めないで、自分を遣わした父を指し示すだけである。
決定的な答えはすべて将来に残されている。信仰とはこの神の将来の決定をすでに現在の決断として受けとることである。しかもこの決断は何も確かなものがない状態においてなされるのではなく、ただ信じるのではない。そこには証しがある。しかも神の証しが(5:31~32)がある。このことなしに神をいま知る道はない。イエスはこの道を歩んで今「彼を知っている」が彼らは「知らない」。彼を知っているからこそ、イエスはその教えを聞き、その言葉を生きる。神と共に生きながら神を「知らない」と言うならば、それは偽者である。だからこそイエスはこのことを語らないではおれないし、語り続けねばならない。そのことが人々からどう思われようと、そうしないではおれないのである。ただはっきりといま言えることは、「あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」(56節)ということである。この言葉がまたもやユダヤ人たちの批判するところとなった。ユダヤ人たちはアブラハムは死んだと考えている。しかしイエスにとってはアブラハムは死んではいない。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。神を信じて死んだ者は今なお生きている(マタイ22:32、ルカ16:19~31)。アブラハムは天にあって今なお地上の人々の生と関わりを持っている。この点でユダヤ人たちの考えは間違っている (52節)。アブラハムがイエスの日(時代)を見て喜んだというからにはイエスとアブラハムとは同じところ、同じ時に立っていなくてはならない。その場所こそ信仰、神と共に生きる生にほかならない。アブラハムは生きていた頃、信仰によってこのことを望み、喜こんでいた。いまイエスは神と共にあってアブラハムと対面している。このような理解が可能な旧約聖書の背景についてをホスキンスは次のように考えている。アブラハムの笑い(創世記17:17)を嘲笑だと解釈しないで、喜びの表現であると見るか、イサク(笑い)の誕生をキリストの型、予表と見て喜んだのだと解釈する。しかし、このような旧約聖書の解釈については必ずしも明瞭ではない。
このようなイエスの発言はさらにユダヤ人たちを驚かせ躓かせた。「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。50才といえば人生の最盛期の終わり頃である。イエスはまだ30歳頃だと思われるが、あまりにも苦労の多い人生、かなり老けて見えたのかも知れない。ユダヤ人たちは世間的な常識と時間観念でしか、イエスとアブラハムとの関係を考えることが出来ない。イエスはとうとう結論を先取りして自らの秘密を告げた。「アブラハムの生まれぬ前からわたしは、いるのである」(58節)と。しかしこの先取りは実は著者による解説であって、イエスがそんなことを言うはずがない。

著者がここで読者に語ろうとしているのはイエスの永遠性と無罪性とである。46節の言葉もまたこの観点から読むべきであろう。イエスの無罪性とは著者によれば、人間として肉となった者としての無罪性であって、それは神の聖性とは区別される。子は父との交わりにおいてのみ無罪であり得る。それは精神的な性格であって形而上学的な特性ではない。この無罪性は従って完き服従と謙遜に基礎付けられる信仰の無罪性である(4:34、6:38、8:28、29、17:4など)。ヨハネ第1書に、信仰者は罪を犯すことが出来ないと強い言葉で語られている(1ヨハネ3:6~9)がそれである。そしてその姿は愛であり、愛として理解される。
愛に生きる者は愛する者を悲しませるような行いをすることが出来ない。イエスの愛は誰に対しても、敵にたいしても拒否できないのである。この愛に彼の無罪は基礎付けられている。イエスの自由もまたこの愛における自由であり愛の自由であった。著者にとって、イエスの無罪性はロゴス思想から導かれて来たのではない。逆に、彼の心に、イエスの愛に基づけられる人間的無罪がつよく印象されて、そこからロゴス思想が生まれたと解すべきである。イエスの永遠性もまた、神との交わりから、その否定できない事実に基づいている。それは人間として生まれ、また死ぬということとは別次元のことである。従ってこの福音書はロゴスの受肉として彼の誕生を語り、その生涯を示して十字架の死を苦難の極みとして語るのである。

第9章

長い説教と論争を通過して再び物語の場面に戻る。ここでは生まれつきの盲人が癒やされたという出来事を丹念に叙述し、そこにキリスト到来のしるしを見(イザヤ32:3以下)、すでに揚げられたテーマ、世の光なるイエス(8:12)を示す象徴として読者に語りかける。信仰とは眼が開かれることである。イエスによって見えるようになった者は先ず彼を見、次いで神を知る。この恵みの秘儀を語ることがこの物語の趣旨である。
   
9.1 生まれつきの盲人の開眼(1~41)

1節
ヨハネ福音書の物語は単なる物語ではなく、ほとんどは真理の象徴として取り上げられている。「生まれつきの盲人」とは、その出生においても、成長の過程においても、ユダヤ人についての神の啓示については何も知らない人のことと考えてもよいであろう。しかし、ここでは素直に書かれた文章に即して理解を進めよう。生まれつき身体に障害を持つ人に出会うとき、「なぜ」と問うことは人の自然である。弟子たちもまた、旅の途中で身障者を見かけて、イエスに尋ねた。これは一体誰の罪の結果なのか。ユダヤでは親の罪が子に報いられるという思想が昔からあり(出エジプト20:5、エレミヤ31:29)、またギリシヤには現世の不幸は前世の罪の報いであるという思想もあり、この思想は紀元前3、4世紀以来、パレスチナにも浸透しつつあった。弟子たちはそれらの一般に流布している思想を持ち出して、どう考えたらよいのだろうかと尋ねる。これに対するイエスの答えは意外であった。「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」。「なぜ」と理由を過去に求めた弟子たちに対して、イエスは「何のために」この事実が起こったのかと、将来に向かって眼を転じるべきことを教えた。旧約聖書の神は創造の神であり、創造とは将来に新しいものを生み出すことを意味する。また同時にそこには自由という思想が含まれている。この世のすべての事また物は神の創造の場所であって、神の業が顕われるために存在する。そのような神の光の下では、どうしようもないというものは存在しない。この身障者の上に神の癒しの力が働かないと誰が断定できるのか。しかも、それがイエスによってなされるかも知れないという可能性を誰が否定できるか。信仰とは神の無限の可能性を信じて、その能力を待つ態度である。盲人を指さして、冷ややかに、その原因を問う弟子たちと共に歩みつつイエスの眼、その心には抑えることができない憐れみと祈りとがあふれる。イエスはこの世に遣わされた自分の使命を考えさせられた。また弟子たちにそのことを思い起させようとする。
「わたしたち」(4節)とは弟子たちをも含めて言う。使徒たち、つまりイエスの弟子たちは「光の子」(12:36、ピリピ2:15、1テサロニケ5:5)となって世を照らす者であり、世の光であるイエスの光を受けて、これを世に輝かす使命を帯びている(マタイ5:14-16)。神の光が照り、神の業が進められている限り、神の子たちは働かねばならない。夜が来れば誰も働くことが出来ない。だからイエスは安息日にも神の業のためには働かねばならなかった(5:17)。「わたしは、この世にいる間は、世の光である」。

6節
イエスは無駄な言葉を口にしない。いったんイエスの口から発せられた言葉は、直ちに実現される。彼は盲人に近づいて、癒しの業を行う。「つばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗る」という行為は当時の手法であって、唾に癒やす力があり、これによってその生命が人に伝わると考えられていた(マルコ8:23)。イエスは病人を癒やす際に、常に何らかの行為をしたうえで、「あなたは病気が癒やされることを求めているか」というような問いかけをしている。それは相手の中に癒やされたいという願望を喚起し、癒やす者と癒やされる者との間に呼応するものが出てくるための行為である。相手の眼を開くためにイエスは先ず泥をぬることによって、眼を封じた。これは暗示深いことである。そして「シロアムの池に行って洗いなさい」と命じられた。この池はエルサレムの東南ケデロンの谷に面し、昔ヒゼキヤがヨルダン川の流れの上手から山上にあるエルサレムの水利のために水路を作って導き入れた上の池に対して下の池と呼ばれていた。これに対して著者は「『つかわされた者』という意味」と注釈しているが、実際の意味は「遣わされた者」ではなく、「遣わす者を送る」という意味である。恐らく底にある水路の出口から間歇的に湧き出る姿をこの語で示したのが始まりであろう。
イエスは既存のものを簡単に否定したり破壊したりしない。ただこれを新しい真理の開示の手段として用い、またその隠れた意味を明らかにするために活かして用いようとする。唾と土とを用いシロアムの水にて洗うことを命じたのもそれである。人間は単に精神的な存在ではなく肉体をもつ者であり、言葉は物を媒介とすることなしには十分にその意味を表現できないからである。物質にとらわれて、神の言葉を忘れることの愚かさを諭した彼は(マタイ4:4)、また同時に御言にうんざりしつつ明日のパンに飢えている群衆にパンを与えることを忘れなかった彼である。「(水で)洗いなさい」という言葉によって、わたしたちはわたしたちの洗礼のことを思う。新たに生まれること、光と生命との経験とは、洗礼を通して来る。シロアムの水は、やがて実現する洗礼の予型としてここに登場している。盲人は命じられた通り行なって、見ることが出来るようになって帰っていった。
ここで筆者(=松村)は最近の医学雑誌に紹介されていたアレキシス・カレルの遺稿として発見されたという、「ルルドへの旅」なる一文の中に記されている事実、末期の結核性腹膜炎の女性が単純な信仰のによって奇跡的に回復したという証言を思い出す。カレルは現代医学の尖端を歩んだ巨人であるが、この若き日の驚きと疑問とが彼の眼を信仰の領域へと向かう機縁となったと言われている。信仰・信心・信念はしばしば驚くべきことを生む。それは昔も今も変わらない。ただ、問題はそれが何を目指していたか、何を見たかということである。神だけでなく悪鬼もまた不思議を行なう。なされた事実の意味を見極めることこそが重要である。この物語の読者に訴えようとすることもまたそのことである。

13節
一方には群衆およびファリサイ派の人々、他方にイエスと共に立つ癒された人がおり、それぞれの解釈・理解が対照的に描かれている。目の見えない乞食として親しんで来た隣人や群衆たちは、目が見えるようになった彼を見て、ある者は「同一人だ」として驚き、ある者は「人違いだ」として論じ合った。本人の証言によって人々の興味は「どのようにして」「誰によって」へと集中された。癒された人はありのままに答え「イエスというかたが、どろをつくって、わたしの目に塗り、『シロアムに行って洗え』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました」。人々はそのイエスという人物に会って彼の言うことが本当かどうか確かめたいと思ったが、癒された人は彼がどこにいるか知らないと言う。

14節
事件は安息日に起こった。「土をこねること」は安息日には禁じられている行為の一つである。何れにせよ、この事件をこのまま見逃すわけにはいかない。人々は彼をファリサイ派の人々のところに連れて行った。ファリサイ派の人々も群衆と同じ問いを繰り返し、彼もまた同じことを答えるほかなかった。生まれつきの盲人の眼が開かれるということは当時の人々の考えによれば、神の特別な恵み、神の配慮の手が加わった証拠だと考えるしかない。こういうことができる人間は「神から来た人」(16節)に違いないとされた。ファリサイ派の人々はイエスという人物について先入観をもち、偏見の目で見ている。しかも事件は安息日に行なわれているではないか。インチキであるか、本当に盲人の眼が開かれたたのかどうか、事実確認をするまでもない。安息日にしてはならないことをするような者が、「神から来た人」であるはずがない。安息日を破る者は罪人である。このように断定するファリサイ派の人々に対して、罪人が果たしてこのようなことができるのかと反論する者もいた。ファリサイ派の人々の間では意見が分かれ論争が繰り返された。結局、改めて当人の証言を求めるしかないということになった。本人は「お前はあの人をどう思うのか」と問われて、単純に「あの方は預言者だと思います」と答えた。この答えは「神から来た人」と言っているのに等しい。奇跡を行なうことは預言者であることのしるしと考えられていたからである。だからこそ偽預言者も同じことをするのである(出エジプト4:1-17、申命13:1-5、34:10-12、マタイ12:38-40)。しかし彼らの疑問は解けない。そこで新しい証人として両親が呼び出された。この男は確かにお前たちの子で、生まれた時から目が見えなかったのか。それが本当ならば、ではどうして今見ることができるようになったのか。本人の言うことは信じられないので、お前たちの口から改めてその点を確かめたい。両親は第1の質問に対してははっきりと「そうです」と答えることができたが、第2の質問に対しては彼らも本人が言っていること以上のことは何も知らないと答えた。もう、彼も大人なのだから本人から直接聞いてくれ、と答えるほかなかった。これは「ユダヤ人たちを怖れていたので」あるという22節の言葉は著者の註であるが、「それは、もしイエスをキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに、ユダヤ人たちが既に決めていたからである」という定めがイエスの時代に行なわれたという証拠はない(16:2)。著者がこの福音書を書いた時代にユダヤ人の社会に行なわれたことをここに説明のために持ち出したものと考えられる。ファリサイ派の人々は仕方なしに再び本人を呼び出して恫喝し、有無を言わさないで彼らの意見に同意させようとして迫った。彼らは「あの人が罪人であることは、わたしたちにはわかっている」と断定して、彼ら自身が信じているドグマによってこれに合わない事実を否定し、誤魔化そうとする(16節)。ここにファリサイ派の人々が追い込まれたヂレンマがある。理論と現実との矛盾は、理論の側からは解決されない。現実に善を行なう者を罪人であると誤魔化すことには無理がある。眼を開かれた人は相手がたとえ権力を持った偉い人たちであったとしても、もうそれ以上我慢することができなかった。無駄な議論を繰り返しても水掛け論に過ぎない。「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません」。しいて彼を罪人だと言いたいなら、そう言えばいいだろう。そんなことはわたしには関係ない。「ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」。何と言われても、この事実だけは否定できない。彼には、自分の眼が開かれたのはイエスの憐れみと祈りに答えた神の恵みによるということだけが確実なことである。「神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞きいれて下さいます」(31節)ということは誰もが認めることであった。これはユダヤ人であろうとキリスト者であろうと同様に経験する一つの事実である。そして福音は単なる言葉ではなく、事実であり、事実を語る言葉である。そこには何者も奪うことの出来ない力がある。
それでもなお、ファリサイ派の人々は諦めることが出来なかった。彼の言うことが事実であるとするなら、それは「どのようにして」行われたのかということを納得の行くように説明せよ、と執拗に迫る。この男はとうとう真面目に答えることが馬鹿らしくなってきて、「そのことはもう話したのに、聞いてくれませんでした。なぜまた聞こうとするのですか。あなたがたも、あの人の弟子になりたいのですか」(27節)と嫌がらせを言う。この言葉は彼らを怒らせて、どならせた。「馬鹿野郎!お前はヤツの弟子か知れんが、俺たちはモーセの弟子だぞ。どこの馬の骨か分からぬ人間を誰が相手にするものか・・・・」と。しかし今度は逆に癒やされた男の方が彼らの言葉に食い下がった。「わたしの目をあけて下さったのに、そのかたがどこからきたか、ご存じないとは、不思議千万です」(30節)と。彼らがそれを知らないはずがない。「どこから来たのか分からない」という言葉は、「どこの馬の骨かわからない」というぐらいの意味である。これはまさにイエスに対する侮蔑の言葉である。イエスはユダヤ人たちからは蔑視されているガリラヤの出であり両親は卑賎の身である。野合の子ではないかとさえ噂されていた。どっちにしたって罪人と言って間違いはないだろうというのがファリサイ派の人々の真意である。しかし彼によって眼を開かれた人にとっては、イエスの出生と育ちがどうであれ、彼が経験して知ったその出来事の故に、イエスは「ただ人」ではない。神から遣わされた人でなければならない。前代未聞の奇跡をなし得た人がもし神から出た人でないとすれば、かえってこの事実を理解することはできない。ファリサイ派の人々は開き直って、彼らを批判し、説得しはじめた男をもてあまし、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」と言い返し、彼を外へ追い出した。「追い出す」とはユダヤ人社会の一員であることを否認されることであった(22節)。彼はこのようにしてユダヤ人社会から追い出されてキリストのもとに行かざるを得なくなった。

35節
彼が事実をまげることを拒んで追放されたことを聞いた時、イエスは彼を探し求め、「彼に出会うと」、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。キリストを信じるかというのである。もちろん彼はそれを待ち望んで来たのだ。彼は答える。もちろん信じたい。しかし、それは誰なのか。人の子キリストを信じるが、問題はそれが現実に誰であり、どのようにして彼に出会えるのか。キリストを信じるということの内容は何か。それはどんな経験かということである。彼はイエスに尋ねる。「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」(36節)。キリスト信仰は決して形式的無内容なものではない。彼を信じるためには彼を知らなくてはならない。キリスト共に生きる経験をしなければならない。キリスト信仰は体験と知識とを欠くことが出来ない。イエスは力をこめて語ったであろう。「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」(37節)と。わたしたちはしばしばキリスト経験をしながら、それに気付かないことがある。気付かなければそのまま流れ去ってしまう。この経験が何であるかを語り、示してこれを体験として定着させてくれるものがなければならない。それが神の言葉であり聖霊である。聖書と教会の教えに基づく解釈である。解釈は経験的事実を離れたら無内容無意味である。経験のない解釈は空虚であり、解釈のない経験は盲目であり、混乱以外の何ものでもない。神学と体験とは互いに相呼応して真理の生命を汲み出す。イエスに眼を開かれて、彼が見ていたものはまだ本当のものではなかった。どうでもいいものであった。しかし、今や彼を求め彼に語りかけるイエスの言葉によって彼は見るべきものを見、仰ぐべきものの前にひざまずき、「主よ、信じます」と告白し、「イエスを拝した」。ユダヤ人のたちによる強制・圧迫には屈しなかったこの男が、イエスに対しては「主よ」と呼んで心からの服従を誓った。信仰は強制したり、無理矢理に押しつけることは出来ないが、愛に動かされる心は、自然に内部から自由な喜びに満ちた服従として、これを告白させる。

39節
39節以下の場面は38節までの場面と少し異なる。おそらく、見えるようになった男とイエスとが対話しているところに、何人かのファリサイ派の人々が追いかけてきたのであろう。彼らに対してイエスは警告の言葉を語る。「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」(39節)。ここにも福音に特有なパラドックス(逆理)が語られている。3章では、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、」(3:17)と語り、「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来た」(12:47)と言い、「わたしはだれをも裁かない」(8:15)と言いながら、ここには「わたしがこの世に来たのは、裁くためである」とはどういうことであろうか。イエスが世に来た使命は「この世が救われるため」(3:17)であることに間違いはない。彼は救い主として人々に働きかけている。しかし、そのことの結果は彼が審判者として来たということを事実として承認しなければならなくなる。意図と結果との乖離、それはどこから生まれたか。この世は罪によって支配されているからである。イエスはこのことを嘆げきつつ、もう一度、事実を語り、信じない人々の心にチャレンジするのである。世と人の罪を除くために来た彼ではあるが、彼の言葉と行為はかえって世の罪を顕わにし、人々の罪を固くする結果となった。彼の言葉を素直に受け入れて彼に従う者は少数であり、多くの者は自分の国に来た彼を受け入れない(1:11)。彼によって救われる一人の人が彼に信仰を告白するその時には、その周囲にかえってそれによって心を頑にする多くの不信の人々を喚び出されてくる。彼が来なければ、そして語らなければ、神の業を行なわなければ、世の罪、人の不信はこのように顕わにはならなかったであろう。彼が使命の道を歩む、その足跡には人々を右と左、救われる人々と亡びる人々とに分ける結果となる。この世にあるキリスト者の存在・生活についてもパウロは同じことを語っている(2コリント2:14-16)。
キリストが来ることによって一方に見えなかった人が見えるようになり、他方には見える人が見えなくなる、しかも永久に。ファリサイ派の人々はイエスの言葉を彼らに対する皮肉また攻撃として聞いた。「わたしたちも盲人なのでしょうか」(40節)。イエスの応答はさらに軽妙である。「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。(41節)。盲目で生まれた者は幸福である。彼は自らの罪をそのことによって知り、見えないと告白した。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(1ヨハネ1:9)。しかし、律法を知り、神を見ると主張し、罪を犯したことがないと言う彼らは偽者であって、神の言葉は彼らの内にはなく、彼らの中には罪が留まっている(同10節)。生まれつきの盲人は、イエスと出会い、二重の盲目が癒やされ、生命と光とに移された。イエスが人々の病気を癒やすのは、肉体と共にその魂の救いのためで、全体人間が健康になるためであった。肉体の癒しだけを喜んでいる段階に留まる者はキリストを見ない。悪霊を追い出されて掃き清められた魂は、さらに多くの悪霊の棲家となって、その状態は以前にもまして悪くなる。親切と共に神の言葉が語られなければならない理由がそこにある。神の言葉は善き業と共に証されねばならない。それが福音に他ならない。今日の教会は福音書を本当に読み直す必要がある。

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