ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 09/02~09/08

2012-09-10 14:03:25 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 09/02~09/08
losungenj 2012.09.02(sun)
あなたはいかなる像も造ってはならない。(Deut5:8)
いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。(1Joh4:12)
私の黙想:
像(かたち)のない神、つまり見えない神を信ぜよという命令は過酷である。この戒めは端的に神をいかなる形であっても対象化することを禁止する。身体の外にある形も、あるいは心の内部にある心象も。私たちはどっちの方向を向いて、何に対して手を合わせるのか。礼拝堂の正面に置かれている十字架は? あれは「神の像」ではなく「愛の形」だとでも言うのであろうか?

三浦 三千春  長老・改革派系の教会では、礼拝堂内に「十字架」が無い場合が多いですネ。偶像礼拝につながるから、みたいな理由みたいです。クリ新記者時代に、改革派教会の先生に、「でも、この教会も、屋根の上には十字架がついてますよね?」と訊いたことがありました。おこたえは「十字架がついてないと教会と分からないじゃないの」でした。ひねくれ記者としての感想はいろいろありましたが割愛します(^^)

文屋 善明 昔の長老・改革派の教会では奏楽用のオルガンも否定していたぐらいですからね。私の言いたいことは、要するに完全な「神の像」否定は成立しないということで、人間は何らかの形で神の像を造り出す。それでいいではないか、ということです。

Christian Auron · 魚もダメ....................?

三浦 三千春 >完全な「神の像」否定は成立しない。私もそう思います。脱線ついでに、教会音楽をテーマにした半学術書(書名、著者忘れました)で、冒頭アタリに「なぜ人は賛美歌を歌って神を賛美するのか」という投げかけをされ、「それは人は音楽が好きだから」と言っておられました。著者(日本人)がメソジストの系統の方だったことだけ覚えています。カルバン系の方だったら、じぇーったい!そんなこと書きませぬ(書けませぬ?)でしょう。私はその本を読んで、その箇所で意外性に驚き、それと共に、ものすごく、ほっとしたのを覚えています。

三浦 三千春  アートが好きな人がアートで神さまに関することを表現するのは当然、神さまも喜んでくださると思うし、魚も当然!ですよね(^^)

文屋 善明 キリスト教史における「魚」とは、もともと迫害の中でのキリスト者同士の「合い言葉」で、信仰の対象でもアートでもありません。アートの材料になり得ても信仰の対象にはならないでしょう。

losungenj 2012.09.03(mon)
わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。(Ezek11:19,20)
あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟・姉妹愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。(1Pet1:22)
私の黙想:
肉体に宿る「石の心」というイメージは何となくわかるが、肉体に宿る「肉の心」とは何を意味するのか。フランシスコ会訳では「神とその言葉への従順をもたらす「肉の心」の授与は、捕囚からの解放を約束する」と解説していが、それを「肉の心」と表現するのだろうか。19節前半の「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける」との関連でいうなら「霊の心」を意味するのであろうと思われるが??????

losungenj 2012.09.04(tue)
地は主の慈しみに満ちている。(Ps33:5)
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。(2Cor8:9)
私の黙想:
全地はヤハウェの慈しみ(ヘセド)に満ちている。今日はこの一点に集中せよとローズンゲンの編集者は考えているようだ。世界は悪に満ちていると考える世界観に対して、この世界観は真正面から対立する。さて、私はどちらの世界観に立って日々生きているのだろうか。ここが人生の分水嶺だ。この一点の選択によって全く異なった人生が展開する。あれや、これや難しい議論は不要だ。ただ一点、あなたはどちらの「川の流れ」に乗っているのか。

losungenj 2012.09.05(wed)
ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。(Gen6:22)
だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされなければなりません。(Eph4:22-23)
私の黙想:
箱船建造と準備。神の指示命令は細かい。ここではこの細かさに完全に従うノアの姿が強調されている。人類的危機に立ち向かう準備には、神への完全な服従と細心の準備が必要である。そこでは人間の知恵や意見や要求による民主的協議は妨げになる。駄目なものは駄目。

losungenj 2012.09.06(thu)
主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。(Ps34:8)
主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。(Act12:7)
私の黙想:
「危機一髪」というところで奇跡的に救出されるという経験をする。いや、私は何度かそういう経験をした。私はその時「天使が助けてくれた」と信じる。合理的説明はいくらでもできるが、「何故、その時に、そこで、私のために」という説明は不可能である。

losungenj 2012.09.07(fri)
主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み、わたしたちはあなたを待ち望みます。(Isa26:8)
裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。(1Cor11:32)
私の黙想:
捕囚の地バビロンにおいて、イスラエルの民は祖国の地に「堅固な都」(3節)が再建されることを希望し、確信している。それは戦争と略奪によって立てられる豪壮な都ではなく、「パーフェクト・ピース」(米田豊)、平和によって築かれ、平和によって維持される都である。異国の地において預言者の目はこの世の権力の横暴、暴力を鋭く批判的に見ながら、その中で神のみに信を置く民の生き方を「平和」という言葉に託している。

losungenj 2012.09.08(sat)わたしは、神に近くあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。(Ps73:28)
奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになります。(1Tim3:13)
私の黙想:
今日の聖句はそのまま素直に味わいたい。「神の近くにあること」は幸いだ。何かを愛する人はそれの近くにいること、それだけで満足だ。山を愛する人は山にいるだけで、海が好きな人は海辺にいるだけで満足だ。恋人同士は一緒にいるだけで幸せを味わっている。神を愛する人にとって神の近くにいると思うだけで幸いだ。キリスト者は教会に属し、教会に自分の場があるというだけで幸せ者だと思う。

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