ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 09/10

2012-09-11 06:07:54 | ツイッター
おお早ようございます。主の平和。終日、次の説教の大枠を考える。ファリサイ派とは何か。本当にイエスと対立していたのか。以前に書いた「5分間説教~パン屑~」(50編)を整理して EverNoteに書き込む。「サマーレスキュー」を見る。向井理・尾野真千子が良くやっている。10時就寝、5時半起床。体調快調。チュン、チュン。
posted at 05:24:24

#losungenj 09.10(mon)
見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。(Ps121:4)
夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。(Rom13:12)
posted at 05:52:13
#losungenj 私の黙想:
読んでいて、どうも言葉のリズムが違う。私の頭の中にある言葉は「イスラエルを守る方」である。「守る」と「見守る」と同じか。手元にある日本語の詩編(文語、口語、新改訳、祈祷書)は全て「守る」である。何故新共同訳だけが「見守る」としたのか、その理由がわからない。私の神は私を不眠不休で守っておられる。火事場で「見て、報告する」だけでは、たとえそれがどんなに臨場感のあるレポートだとしても、何にもならない。火の中に飛び込んでそこにいる人を救出するのが消防士の仕事である。
posted at 06:01:58

門叶 国泰 マソラ原文「シャーマル」 原意「keep,watach,preserve(BDB)」。weingreen textではEX.7に既に出てくる基本動詞、しかも、そこに既に[keep,watach]と並んでいます。

文屋 善明 なるほど。しかし、そこが「翻訳」の難しさでしょう。ヘブル語の「シャーマル」を英語に翻訳する場合に「keep,watch or preserve」のどれを採用するのか。それを日本語ではどう言い表すのか。それぞれ少しづつずれている。それは単に「単語の守備範囲」の問題以上のものがあるように思われます。

今日の名言:RT @meigennavi:
日本人の多くが、「政治と自分の幸せは無関係」と思い込んで、苦しい生活に耐えている。(カレル・ヴァン・ウォルフレン)
<一言>さすがに日本の政治状況を詳しく調べ世界に発信したオランダ人政治学者の言葉だ。全ての日本人が素直に受け止めて考える必要がある。ここに政治とはなにかということが指し示されている。
posted at 06:22:14

文屋 善明 カレル・ヴァン・ウォルフレンの『日本/権力構造の謎』上下(早川書房)は日本人にはとうてい書けない名著です。日本の政治について考える人、発言する人、書く人にとって賛成/反対を超えて必読の書です。

「昨日のツイート 09/09」をブログにアップしました。 http://t.co/q5ITrMi5
posted at 06:57:49

凄い!RT @nobuyoyagi: そこが毎日新聞社 RT @kappaman: 一週間で4回増刷をかけるなら、1回の増刷部数を増やしなさいよと思う。/「 検察崩壊:密林を飛び出して書棚を探索するのも一興かと」~ 八木啓代のひとりごと http://t.co/DyAr1UZy
posted at 08:41:45

「今週のローズンゲン 09/02~09/08」をブログにアップしました。 http://t.co/WY73chyI
posted at 14:08:41


FB『もしニーチェが短歌を詠んだら』7(94頁)
いつだって人生に「なぜ?」をなげかけろ 幸せをむやみに求めずに
『偶像の黄昏』「箴言と矢」第12節

松沢 直樹 大多数の意見 世論や常識が、必ずしも自分の人生にそっくりそのままあてはまるとは限らないですからね。
疑問を投げかけるのは大切だと思います

文屋 善明 多分、松沢さんはご存知の上でコメントされておられると思いますが、ニーチェはこの「何故」に「独自の」という言葉を付けている。そこかしこにある「何故、疑問」ではなく、自分独自の「何故」を持てという意味でしょう。さらに一言付け加えると、独自の「何故?」を持っていれば、ほとんどあらゆる「いかにして?」とも折り合いが付くと言っています。私個人としてはそこまで言い切れるのか、何故のままで折り合いの付かないこともあるだろうとは思っていますが。

松沢 直樹 先生のおっしゃる通り、自分の視点で疑問をもったとしても、折り合いがつかないものってありますよね。いや、むしろ折り合いがつかないもののほうが多いのだと思います。自分に問いかける視点を持てることは幸せなことなのだろうと思います。

松沢 直樹 余談ですが、ニーチェの思想が、なぜナチスの母胎となってしまったのか、私はそのことに強い疑問を持っています。答えはまだ見つかりません。

文屋 善明 私はニーチェの「超人」という概念と思想がよく分かりません。だから、どうしてももう一歩踏み込めません。

FB<閑暇閑話(かんかかんわ)>7
閑な老人の駄弁、昼寝からの目覚ましに、どうぞ。

昼食後、40分間一人用ソファーで昼寝。さぁ、冴えた頭でもう少し仕事しようと、その前に、先日来、気になっている徒然草第92段を紹介しておこう。
さて、兼好氏のこの意見をどう思われますか。私の場合は、失敗した時のことを考えて、2本あるいはもっと沢山矢を抱える方ですが・・・・

徒然草第92段
或人が、弓の稽古で、二本の矢をセットして的に対峙した。すると師匠が「素人が二本の矢を持つんじゃない。次の矢があるからと、一本目の矢に気合いが入らなくなるじゃねえか。いつでも、一本の矢が的中するように精神統一をせんか」と指導した。師匠の手前、わざと最初の一本を無駄遣いする人もいないだろう。しかし、無意識に怠け精神は目を覚ます。師匠はその事を知っているのだ。この戒めは、何事にも同様である。
悟りの道を歩む者は、夜には翌朝の修行を思い、朝には夜の修行を想像する。同じ事を繰り返し、「次はしっかり修行しよう」と思い直したりもする。そんな体たらくでは、この一瞬の中に、己の怠けの精神が目覚めていることを自覚しないだろう。この瞬間を自主的に生きるのは、何と難しい事であろうか。(吉田兼好著・吾妻利秋訳)

加藤 治 矢は完ぺきに作られていない。必ず、精度にばらつきがあるのだから、数本に1本的中すればよい、と考えます。

文屋 善明 つまり加藤さんは数本持っていくという主義ですか。ここの話は一種の精神論であり、1本に託する決断が重要なのではないでしょうか。確かに弓の精度は色々あるでしょうがその中で「私が選ぶ1本」そこに全てをかける精神が的を射る。何本も矢を放ち、その内の1本が的を射たらいいやという気の緩みが全部を駄目にする。

加藤 治 ルールが問題ですね、1本だけでも当たればよいのか、当たった本数が多い方が勝ちなのか。後者の場合なら、その人は1本ずつに全精神を集中するのではないですか。

文屋 善明 本文の中にもありますように、これは稽古の場のことで、たとえ稽古であっても、本番と同じ気持ちで臨めという師匠の教えでしょう。ルールは関係ありません。

加藤 治 しかし、この命題は前者のルールを前提にしているのでしょう。すると人は誰しも安心のために数本を選ぶと思います。

加藤 治 分かりました。

<補遺>同じ文章を読んでも、受取手によって全然違う読み方をしてしまう。読み手は、先ず自分の関心を棄てて(自分の関心は、その文章を選ぶ時に決定している)、語り手が語ろうとしていることに関心を向け泣けなければならない。

文屋 善明 面白い議論でした。

朴 栄子 「明日があるさ」とつい思ってしまう、ナマケモノの私にはズシンときました。ありがとうございます!

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