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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/05/03~05/09

2015-05-10 06:44:04 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/05/03~05/09

2015日々の聖句 05月03日(日)
弱者を虐げる者は造り主を嘲る。造り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ。(箴言14:31)
もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。(ヤコブ2:15~17)
私の黙想:
信仰と倫理は表裏一体である。今日の聖句、前半と後半と同じことを繰り返しているようだが、表から見るのと裏から見るのとを対比させている。前半だけでは弱者を虐げながら、神を讃美している人間を見逃している。後半では非常に信仰的な生き方をしている人間が、現実生活においては貧しい人々を軽蔑している人間がいることを見逃している。宗教は倫理に裏打ちされてホンモノになり、倫理は宗教によって支えられることによって力を得る。宗教なき倫理はエゴイズム(独り善がり)に堕しやすく、倫理なき宗教はデモーニッシュ(悪魔的)になりやすい。宗教と倫理とは別次元のものであるが、これらが一体化されるときに、それぞれが有効性を発揮する。

2015日々の聖句 05月04日(月)
わたしの足を、広い所に立たせてくださいました。(詩31:9)
あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになるように。(エフェソ3:18~19)
私の黙想:
私は軽い「閉所恐怖症」だと思われる。「閉じ込まれる」ということが苦痛である。だから「広い所に立たせてくださる」という意味がよく分かる。旧約聖書「広い所」を検索すると、新共同訳で4回(2サムエル22:20,ヨブ36:16,詩18:20,31:9)用いられている。口語訳では8回(上記の他に、ネヘミヤ3:8,12:38,詩66:12,118,5)引っかかる。これらを見ると、ネヘミヤの2回は「城壁の広い所」という意味で物理的な広さを述べているが、その他の6回は一種の「解放」を意味している。ヨブ記の場合などはわざわざ「束縛のない広い所」と解説まで付いている。
「閉塞感」という言葉がある。人間環境としては非常に不幸な状況を意味する。今日の詩編では、わたしたちを狭いところに閉じ込め、自由を奪うのは「敵」であるという。神はわたしたちを敵の手から奪還し、広い所に立たせてくださった。パウロは「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった」(ガラテヤ5:1)という。この自由をパウロ自身はキリスト者になる以前には知らなかった。つまり、何も不自由していないと感じていたのであろう。しかしキリスト者になったとき「この自由」を知った。だから、再びこの自由を奪われたくないという。

2015日々の聖句 05月05日(火)
お前たちは豊かに食べて飽き足り、(驚くべきことをお前たちのために成し遂げられた主)、お前たちの神なる主の御名を、ほめたたえるであろう。(ヨエル2:26)
神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。(使徒言行録14:17)
私の黙想:
「衣食足りて、神を讃美する」。今日の聖句は、要するのそういうことであろう。これは現在のことではない。「主の日」のことである。主の日にはそうなるというのである。現在は「衣食が足りる」というような状況ではない。現在から「主の日」に至る間に、今日の聖句が省略した部分がある。「(主が)驚くべきことをお前たちのために成し遂げられた」。やがて「主の日」が来る。「主の日」にはこうなる。それは主の驚くべき業の結果である。じゃ、そのために、人間側では何をなすべきか。ここでは単純明快にこう述べている。「主は言われる。『今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなくお前たちの心を引き裂け』。あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く忍耐強く、慈しみに富みくだした災いを悔いられるからだ」。
これがヨエルが語る「主の日」の預言である。ヨエル書と言えば、ペンテコステの日のペトロの説教を思い出す。そこで引用されている出来事は今日の聖句のすぐ後の部分、ヨエル3章1~5節である。(口語訳では2:28~31)ペトロはこの預言がペンテコステの日に成就したと説教したのである。

2015日々の聖句 05月06日(水)
父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。(詩27:10)
キリストの言葉:わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)
私の黙想:
詩27は先週の火曜日(4月28日)にも取り上げられている。そこでは人生の悲劇中の悲劇として今日の聖句に触れた。人間が生まれて生きるということの根源中の根源は、必ず「保護し、育てる者」が存在するということにある。もし、それがなければ、人間という「未熟状態で生まれた」動物は1日も生きておれない。
トルストイの作品に「人はなんで生きるか」という名作がある。短い作品だから、ぜひ読んで欲しい。その中で、人間が生きるという意味について3つの問題が提起されている。第1の問いは「人間の中にあるものはなにか」、第2の問いは「人間に与えられていないものは何か」、そして第3の問い「人間はなんで生きるか」。主人公は、「父と母から捨てられた男」、実はその実体は「天使」が、神からこの3つの問いに対する答えを悟るためにこの世界に放り出された男である。それらの問いに対する答えは作品の中で述べられている。結局、彼は人間の中にあって人間のものではないものによって生かされたということを知る。

2015日々の聖句 05月07日(木)
命あるものの地にある限り、わたしは主の御前に歩み続けよう。(詩116:9)
神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(ロマ6:23)
私の黙想:
「命あるものの地にある限り」、「命あるものの地」とは何か。口語訳、フランシスコ会訳、新改訳では「生ける者の地」、文語訳「活けるものの国」、聖公会の祈祷書はユニークに「神に生きる人びとの中で」と訳している。この句の意味は反対の意味を考えるとよくわかる。要するに「死んだ者の地」ではないということ、つまり天国や地獄、さらには冥界ではない「現実世界」を意味している。この捉え方は面白い。つまり、「わたしは主の御前に歩み続けよう」という私の意志とか決断が通じるのは、あるいは意味を持つのは、「命あるものの地」あるいは「生きているこの現実世界」だけだという。極端に言うと「死後の世界」においては「主のみ前」もなければ、「私」もない。私にとって「主のみ前」とは、この世だけの事柄だという。そういう視点に立って、この詩全体を読み返すと、すべての語句が違った意味を持ち始める。「死」ということさえ、この視点で考えている。 「主の聖徒の死はそのみ前において尊い」(15節)。なんという醒めた感覚だろう。

2015日々の聖句 05月08日(金)
喉をからして叫べ、黙すな、声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを告げよ。(イザヤ58:1)
思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。(ガラテヤ6:7)
私の黙想:
今日の聖句を読んで、昔(1998年10月)、幼稚園の園長をしていた頃、下記のような文章を書いている。そのまま、ここに転記する。

あぶない!
あまりにも、あぶないことが多すぎる。自動販売機の飲料も気軽に飲めなくなったし、ラーメン屋に入っても用心しなくてはならない。しかし、いくら用心してもミサイルが飛んできたら、もうお手上げである。限られた紙面で危ないことをリストアップすることはできないが、子どもたちを取り囲む環境は最悪と言ってもよいと思う。 わたしは幼稚園の教師に求められている最もベースにある気質は危険予知能力であると思っている。どんなに保育技術があっても、どんなに頭が良くても、この危険予知能力がなければ、子どもを育てるということを任せる訳にはいかない。 本能としての危険予知能力は基本的にはすべての動物が具えているものである。和歌山県で起こった毒物混入事件ではカレーを食べた幼児たちはすぐに吐き出している。これが危険予知本能である。しかし、その危険予知本能は知的活動の発達と共に薄れていく。その本能を補う能力として発達するのが、直感的推理能力としての危険予知能力である。子どもたちが楽しそうに遊んでいる姿を見ながら、どこに危険が潜んでいるのかを素早く察知し、それを取り除くのが保育者の役割である。 子どもたちを取り巻く危険は、食品や遊具など肉体的なものに限らない。子どもどうしの「ことば」や、大人の価値観なども子どもの心を傷つける凶器となる。もっと成人してくると宗教の衣をまとった思想や生き方が、その人の人格を破壊することもある。 現実の世界から考えると、もはやすべての危険を除去するということは不可能に近い。むしろ、今わたしたちができることは、自らの危険予知能力を磨き、子どもたちに危険予知能力を身につけさせることであろう。道路を渡るとき、右を見て、左を見て安全を確かめるということ、飲食をするときには落ち着いて(感謝の心を持って)、まず色、形、香りを味わって、口に入れるくらいの余裕が欲しい。転びやすい靴、滑りやすい道路、危ない遊具、ダイオキシン、まさに危険がいっぱいである。ご用心、ご用心。(園長・牧師)

2015日々の聖句 05月09日(土)
主の言葉:誰におびえ、誰を恐れて、お前は欺くのか。お前はわたしを心に留めず心にかけることもしなかった。(イザヤ57:11)
ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(マタイ26:75)
私の黙想:
57章は面白い。1節の「神に従ったあの人は失われたがだれひとり心にかけなかった」から始まりイスラエルのいろいろな「罪」が羅列されている。その一つ一つが面白い特に面白いのは10節。「お前は長い道のりに疲れてももうだめだとは言わず手の力を回復し、弱ることはなかった」。この言葉だけを文脈から分離して読むと、非常に「信仰的」であるが、その強さのエネルギー源は偶像礼拝なのだ。「火事場の馬鹿力」みたいなものである。その力は恐怖から出てくる。その上で、本日の聖句「お前は何に怯えているのか」が来る。1節から10節までで述べられている「罪」の数々は恐怖から出ているという。「何かを恐れて」「自分を欺いている」。誰に怯えているのか。ペトロは大祭司の庭で誰に怯えて「自分自身を欺き」イエスを知らないと3度も言ったのか。その時、「お前はわたしを心に留めず心にかけることもしなかった」と預言者イザヤは言う。
「おびえ」「おそれて」という言葉を口語訳では一つに纏め「おじ恐れ」と訳し、フランシスコ会訳では「気遣い」「恐れて」と訳し、新改訳は「おじけ」「恐れて」と訳している。いずれも大同小異である。それに対してヤハウェに対してはおなじ「オソレ」でも「畏れる」(新共同訳、フランシスコ会訳)という漢字を使っている。この使い分けは面白い。ついでに指摘しておくと、ヤハウェを畏れないのは、ヤハウェが「とこしえに沈黙している」と思っているからか、と問いかけている。この言葉にはヤハウェは何時までも「黙っていないぞ」という意味が込められている。ペトロはあの瞬間「イエスの言葉を思い出した」。それでペトロは救われた。

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