ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:顕現後第7主日(2017.02.19)

2017-02-17 06:53:31 | 説教
断想:2017E7A旧約 顕現後第7主日(2017.02.19)

聖なる者ということ(レビ19:1~2、9~18)

<テキスト>
1 主はモーセに仰せになった。
2 イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。
9 穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。
10 ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。
11 あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。
12 わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。
13 あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。
14 耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。
15 あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。
16 民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。
17 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。
18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。


1.レビ記について
ともかくレビ記はややこしい。旧新約聖書を通して最もややこしい文書であろうと思う。しかも現実離れしていて面白くない。でも幸いなことに3年間の主日の旧約聖書の日課においてレビ記が読まれるのはたった2回である。そのうちの1回がA年の顕現後第7主日(特定2)で顕現後の主日が7回もあるのはまれなので、これが読まれる年はめったにない。だからほとんど読まれないのと等しい。もう1回はC年の復活後第5主日、これは3年に1回確実に読まれる。しかし心配いらない、そのテキストは、顕現後第7主日と同じ箇所である。ということは、レビ記の中でも19:1~2,9~18しか読まれないということである。ということは逆に言うと、この個所はレビ記の中でも最も重要な個所だということを意味している。ここの何がそれほど重要なのか。

2.レビ記19:1~2,9~18
この個所を読んで何が重要なのか。その秘密は3節から8節まで飛んでいることことにある。いったいここに何が書かれているのか。結論をまとめると、レビ記全体のつまならさを象徴的にまとめたテキストだということである。1~2a節はレビ記に繰り返し出てくる常套句であり、2bの「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」がこの個所での鍵になるメッセージである。3節以下の部分が出エジプト記の律法の部分を詳細に拡張させて論じている。その中でも3~8節の部分はそれこそレビ記の最もつまらない部分を代表している。レビ記がいかにつまらないかと言うことを知ろうと思えば、この部分を読めばいい。
さて、その上で今日のテキストの部分、2節から9節を直接つないで、読むと「聖なる者(人間)」がどういう人間なのかということがはっきりする。
「聖なるもの」、特に「聖」という言葉はレビ記の一つの特徴である。ちなみに、単純に「聖」という字の使用状況を比べてみると、創世記で2回、出エジプト記で81回、レビ記とよく似ている民数記で71回、申命記で15回、ところがレビ記では101回使われている。もちろんいろいろな使い方をしているわけで「聖」という活字の数だけでレビ記の特徴だとするわけにはいかないが、11章には食べてはならない食物として「汚れたもの」の規定が長々と論じられている。この「汚れたもの」の反対概念が「聖なるもの」であり、11:44では「わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである」と書かれている。以下12章から15章まで人間の出産から衣服、土地、建物に至るまで細かく「汚れ」についての規定が語られる。呼んでみれば分かるが腹ただしいほどバカらしい規定で、読む値打ちもないし、読まない方が精神衛生上良いぐらいである。つまりレビ記において。神が聖なる者であり、だから人間も聖なる者でなければならないということが細かく論じられているのである。これがレビ記である。

3.今日のメッセージ
レビ記が語る「聖なる人間」とはどういう人間なのか。もうすでにかなり脱線しているので、結論から先に述べよう。9節である。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない」。これがレビ記で語る聖なる人である。非常に単純ではっきりしている。多くの人たちが考えている「聖なる人」とはかなり異なるであろう。どちらかというと、几帳面でない。むしろだらしないという感じがする。ところが、この思想は、ここだけではなく、レビ23:22でも繰り返され、申命記でも語られる。しかし、この思想が最初に現れるのがレビ記のここである。その意味では、ここで述べられたことが一つの伝統としてイスラエルの歴史に伝承され、聖書全体の倫理規定にまで発展したのだとういうことができるであろう。10節を見ると、この思想の理由が明瞭に述べられている。「ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である」。ここでは「わたしはあなたたちの神、主である」という証文まで付けられている。言い換えると、収穫物を残すのは一種の福祉である。しかし、ここではそれだけではない。収穫物は人間の労働と努力の結果ではなく、収穫物全体が神のものであるという告白である。この点が現代人には理解されない。人間のもの、人間が作り出した労働の結果だと思っている。そうではない。それは神のものであり、神がそれを貧しいもにに分け与えるものとである。申命記の方ではもっとはっきりしている。「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい」(申命記24:19~21)。「もし、収穫作業の途中で、一束置き忘れたら、それを取りに戻ってはならない」という。

4.収穫物を残せという思想
これは旧約聖書における重要な思想であるが、これを名付けている言葉がない。つまり、あまり突っ込んだ議論がなされていないからかもしれない。しかし、これは非常に面白い思想である。端的に言って農業経済の問題である。そこで「残された収穫物」の分量は、経済問題として論ずるほどではなかったのであろうが、根本的な構造はそれ程単純ではない。
先ず農業経済における貧富の格差という問題があるが、ここではその原因等については取り上げない。あるいは都市と農村との格差という問題もあるが、それは新約聖書時代においては重要な課題ではあったが、ここではあえて取り上げない。
イスラエルの民がカナンの地に定着し、農業を中心としてしばらく辰と貧富の差が生まれてきた。当然、農地を中心に農場主とそこで働く労働者との経済格差が生まれてくる。そこで生産される農作物は100%農場主のものとなる。労働者はそこから幾分かの労賃を得る。具体的な農作業においても管理人からその日限りの労働者まで、一種の階層が生まれ、徐々に、経済格差は大きくなる。そのうち、賃金だけでは生活困難なものが出てくる。あるいはその労働にも参加できない階層が生まれてくる。そういういわゆる貧者への福祉としてこの規定がある。
この規定の一つのポイントは、収穫を残すということで、要するに収穫しないことである。農場主から見ると、収穫外である。期末の決算では「ゼロ」ということである。その意味では、「自分のもの」ではないという認識である。
しかも、どれだけ残すべきかという規定はない。それは全く農場主に任されている。また、農場主はその管理を管理人任せきりのようである。厳しい農場主の下では管理人も厳しくなり、当然、残されたものは少なくなる。その結果、農場主および管理人の評判が悪くなる。逆に、おおらかに構えている場合には、それなりに評判がよくなる。当然、そこでは社会は安定し、福祉は高まる。これは農場主にとっては非常に重要な点である。どこかで読んだことがあるが、落ち穂を拾いに来る人々はそこで働いている労働者、あるいはその地域の人々で、午前中、刈り入れ作業をした労働者が、午後から落ち穂を拾いに来るということも、あったらしい。そうすると、いろいろな不正が可能となるが、そこは一種の信頼関係によって成り立っているらしい。貧しい人たちにすれば、ただ貰うのではなく、自主的に拾いに来るということが大切である。このようにして、富の再分配、福祉が成立する。これがこの思想の眼目である。
この問題を取り扱った美しい物語がルツ物語である。

4.ルツ物語における「落ち穂拾い」(ルツ2:19~21)
キリスト者ではない小説家の架神恭介さんが書かれた『聖書入門』では、ルツ物語を次のようにまとめている。
≪ナオミはもアブの地に寄留していたが、、その地で夫と二人の息子を失う。ナオミは故郷へ帰ることにし、息子たちの妻であるモアブ人女性二人に別れを告げるが、そのうちの一人、ルツはあくまでもナオミに付き添うと言う。
ベツレヘムに帰り、ルツは親類筋の豪族ボアズの畑にて落ち穂拾いを始めたが、ボアズはルツの義母重いな性格を褒めて、彼女を保護する。ナオミはルツがボアズと結婚できるようルツに夜這いをかけさせるが、ボアズは他の親戚の男を紹介する。しかし、その男が断ったため、ボアズとルツは結婚し、二人には子が生まれる。その子の孫がダビデである。≫
さすがに小説家、上手にまとめている。今日のテキストと関係深いところが、ルツがボアズの畑で落ち穂拾いする場面である。これは非常に有名で、ミレーが描いた「落ち穂拾い」はこれを描いたものである。この肝心の所を、聖書では次のように描いている。
3 ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後について畑で落ち穂を拾ったが、そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。
4 ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らも、「主があなたを祝福してくださいますように」と言った。
5 ボアズが農夫を監督している召し使いの一人に、そこの若い女は誰の娘かと聞いた。
6 召し使いは答えた。「あの人は、モアブの野からナオミと一緒に戻ったモアブの娘です。
7 『刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください』と願い出て、朝から今までずっと立ち通しで働いておりましたが、今、小屋で一息入れているところです。」
8 ボアズはルツに言った。「わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。
9 刈り入れをする畑を確かめておいて、女たちについて行きなさい。若い者には邪魔をしないように命じておこう。喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんでおいた水を飲みなさい。」10 ルツは、顔を地につけ、ひれ伏して言った。「よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのは、なぜですか。」
11 ボアズは答えた。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。
12 どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」
13 ルツは言った。「わたしの主よ。どうぞこれからも厚意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」
14 食事のとき、ボアズはルツに声をかけた。「こちらに来て、パンを少し食べなさい、一切れずつ酢に浸して。」ルツが刈り入れをする農夫たちのそばに腰を下ろすと、ボアズは炒り麦をつかんで与えた。ルツは食べ、飽き足りて残すほどであった。
15 ルツが腰を上げ、再び落ち穂を拾い始めようとすると、ボアズは若者に命じた。「麦束の間でもあの娘には拾わせるがよい。止めてはならぬ。
16 それだけでなく、刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ。あの娘がそれを拾うのをとがめてはならぬ。」
17 ルツはこうして日が暮れるまで畑で落ち穂を拾い集めた。集めた穂を打って取れた大麦は一エファほどにもなった。
18 それを背負って町に帰ると、しゅうとめは嫁が拾い集めてきたものに目をみはった。ルツは飽き足りて残した食べ物も差し出した。

実に美しい物語である。ここで描かれているボアズの姿が、レビ記19:9~10でいう「聖なる者」の典型である。

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