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今週のローズンゲン 2016/08/07~08/13

2016-08-13 14:38:45 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/08/07~08/13

016 日々の聖句 08月07日(日)
お前が造った神々はどこにいるのか。彼らが立ち上がればよいのだ、災難に遭ったお前を救いうるのならば。(エレミヤ2;28)

あなたがたの教師はキリスト一人だけである。(マタイ23:10)

私の黙想:
ヤハウェが拗ねている。イスラエルの人びとが沢山の偶像を造り、それを拝んでいるので、嫉妬し拗ねている。いざとなったら、お前が造った神々がお前たちを助けてくれるのか。エルサレムでは偶像の仕えている祭司や預言が肩を怒らせて威張っている。誰もエレミヤの言葉に耳を傾けようとしない。預言者エレミヤは孤軍奮闘している。これはヤハウェの言葉であると同時に、エレミヤの言葉でもある。
23節に面白い言葉がある。「どうして、お前は言い張るのか。わたしは汚れていない。バアルの後を追ったことはない、と」。これが彼らのいい訳である。偶像というものを「バアル神」だけに限定して、「バアル神」を拝んでいないから、偶像礼拝をしていないと。何という、馬鹿げたいい訳であろうか。権力者は易々とこの種の「いい訳」をして国民を騙す。

016 日々の聖句 08月08日(月)
王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。(詩33:16)

今(で)は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りするのですか。(ガラテヤ4:9)

私の黙想:
軍事力の強化には必ずメンタルなものが伴う。ここが重要ポイント。だから軍事強化を願うものは国民の精神面の統御を行う。先ず、宗教の管理・統制、教育における道徳教育。それはもう始まっている。後は切っ掛けを作って,導火線に火を付けるだけである。今は,本当にレッド・ゾーンに入っている。

016 日々の聖句 08月09日(火)
主はこう言われら。「いつまで、あなたはわたしの前に身を低くするのを拒むのか」。(出エジプト10:3)

あなたは、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。(黙示録3:17)

私の黙想:
ここまでで既に7つの災いがエジプトの地に起こっている。エジプトの王ファラオは、それがヘブライ人の神、ヤハウェの仕事であることを経験して知っている。彼はこれまでにも何回も悔いている。その度に災いは終わっている。その上でのこの言葉である。「身を低くする」という言葉では弱い。口語訳では「屈服する」、文語訳では更に強く「(我に)降る」、と訳している。ヤハウェとファラオ王との戦いにおいて、完全に「敗北」を認めること。無条件降伏である。
結局、ファラオは敗北を認めず、ついに8つ目の「蝗の災い」、9つ目の「暗黒の災い」があってもなお、ファラオは屈服せず、ヤハウェは最後の手段として、エジプト中の「初子」の死の宣言がなされ、これが実行されはじめると、ついにエジプトの国民が降参し、その声によってファラオも敗北を認め、イスラエル人がエジプトから出て行くことを認めた。
なぜ、この日にこの聖句が取り上げられたのか、理由は分からない。ともかく日々の聖句は籤で選ばれているのだから。

016 日々の聖句 08月10日(水)
あなたを尋ね求める人が、あなたによって喜び祝います。(詩40:17)

イエスは言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。(ルカ19:5~6)

私の黙想:
「尋ね求める」と「喜び祝い」の間に、「救い」という大きな経験がある。「尋ね求める」の前に、群衆から「あはぁ、あはぁ」、という嘲りの言葉があり、 「命が奪われそう」な苦難がある。そこで詩人は神に助けを求めている。神による救いの後には「ヤハウェは大いなるかな」という喜びの声が響く。この詩では詩人を嘲る「あはぁ、あはぁ」という言葉と、神を賛美する「ヤハウェは大いなるかな」という言葉とが対比されている。これを新共同訳では「祝い」だという。この「祝い」という言葉が何処から出て来たのか。不明。むしろ、他の訳では全て「常に」となっている。この喜びの声を祝祭の声とするのか「常に」つまり日常にするのか。ここはやはり救われた者の日常の賛美であろう。

016 日々の聖句 08月11日(木)
万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください。(詩80:20)

主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。(ルカ7:13~14)

私の黙想:
この詩には同様の言葉が3回繰り返されている(4,8,20)。「連れ帰り」、面白い表現だ。「連れ帰り」であるから、「万軍の神」も民と共に捕囚の地に居られることになる。そのため、故郷は荒れ放題になっている。つまり、故郷には万軍の神は不在である。この言葉、口語訳では「(われらを)もとに返し」と訳されている。この表現では神の居場所は特定されていない。フランシスコ会訳では「立て直してください」、新改訳は口語訳と同じ。岩波訳では「連れ戻してください」。文語訳では「復(かえ)したまえである。この言葉はむしろ「帰し給え」であろう。
この詩は、私にとって、いやむしろ私の母にとって血を吐くような祈りであったと思う。(旧)満州の地で国から捨てられた日本人はみな、「(祖国に)帰し給え」と必死で祈り、北朝鮮を経て、38度線をくぐり抜け、山野を歩き続けた。ちょうど70年前の今頃である。だから、訳語の正否はともかく「連れ帰り」が身に浸みる。その頃、10歳であった私には分からないが、母の「万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください」という祈りによって、無事に帰国できた。そして確かに「み顔の光が輝いた」。

016 日々の聖句 08月12日(金)
わたしたちの心を主に向けさせて、わたしたちをそのすべての道に従って歩ませてくださるように。(列王上8:58)

主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。(2ペトロ1:3)

私の黙想:
今日の聖句は、神殿に神の箱を安置したときのソロモン王の長い祈りの一句。この時のソロモン王は父ダビデの意志を受け継ぎ、神殿建築を終え、神の箱を安置したという感動に溢れている。ヤハウェに敬虔である。9節の「箱の中には石の板二枚のほか何もなかった」という言葉が注意を引く。後の時代にはいろいろな宝物が入れられたのか。この2枚の石にイスラエルのヤハウェ信仰の中心がある。この神の箱も最後のは何処に行ったのか失われてしまった。
今日の聖句は面白い。王を初め全ての人びとの目が神の箱に注がれているとき、王は「わたしたちの心をヤハウェに向けさせてください」と祈る。口語訳、新改訳では「われわれの心を主に傾けて」と訳している。「心が傾く」。面白い表現である。平常時はほとんど無意識でそちらの方に傾いている。だから、逆らう時はかなり意図的に力を込めないと逆らうことが出来ない。

016 日々の聖句 08月13日(土)
神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう。(ヨナ3:9、口語訳)

自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。(1ヨハネ1:9)

私の黙想:
神に命じられて預言者ヨナはニネベの町に出かけ、「あと40日もすれば、ニネベは滅びる」と叫びながら3日間かけて町中を歩るき回った。その言葉を聞いて、ニネベの町の人々は神を信じ、悔い改めた。王は布告を出して全ニネベに断食を命じた。その時の布告の言葉である。新共同訳では「そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない」と訳されている。ここでは「そうすれば」という言葉が効いている。なぜローズンゲンは新共同訳ではなく口語訳を採用しているのだろう。私が推測するに「誰がそれを知るだろう」という言葉の故であろうと思う。この言葉が何処から出て来たのか。他の訳にも見られない。文語訳では「誰かその然らざるを知らんや」と訳している。表現としては、口語訳の肯定形を否定形に換えてい「そうでないことを知る者はいない」。ともかくニネベの王は、滅ぼされるか滅ぼされないか分からないが、ともかく神の前に懺悔の姿勢を示して、神の心変わりを期待しようという。これは明らかに預言者ヨナの「あと40日もすれば、ニネベは滅びる」の断定的宣言に対する疑問を投じている。その結果は、神が心変わりをした。いわば、預言者ヨナはニネベの王の提案に負けたのでる。その意味ではこの言葉は非常に重要である。

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