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ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第13主日(T15)の福音書

2016-08-13 08:20:24 | 説教
断想:聖霊降臨後第13主日(T15)の福音書
「時代を先取りする」  ルカ12:49-56

1. 資料と語義
「わたしが来たのは」という文章は福音書では7個所ある。マタイで3個所、マルコで1個所、ルカで2個所、ヨハネで1個所で、その内、重複する言葉を省くと、次の4回である。
 (1)わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。マタイ5:17
 (2)わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。マタイ9:13 、マルコ2:17、ルカ5:32
 (3)わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。マタイ10:34、ルカ12:49
 (4)わたしが来たのは、羊が命を受けるためである。ヨハネ10:10
4番目のヨハネ福音書の言葉は他の3つとはかなり雰囲気が異なり(否定的要素がない)、信徒向けの言葉であり、イエスを良き羊飼いだとする思想が成立した後のものであろう。他の3つは逆説的要素が濃厚で、イエスにまで遡る言葉であろう。ただ、1番目の言葉はイエスについての誤解を否定する言葉でマタイ的特徴が濃厚である。2番目と3番目はいわゆる常識を否定するもので、かなり生のイエスに肉薄するものと思われる。2番目はマルコ福音書の伝承で、3番目はいわゆるQ資料によるものと見られている。
マタイ福音書によるとマタイ10:34-39がルカ福音書では12:51-53と14:25-27に分けて採用されている。そして、ルカ12:54以下の部分にはマタイ16:2-3が組み合わされている。田川建三はこの点について「マタイは、イエスが平和を投ずるために来たのではないというセリフの意味を、キリスト信者たちはその信仰のゆえに家族と対立しなければならなくなったという趣旨にのみ理解している。(中略)もちろんイエス自身はそういうつもりでいったのではあるまい」(『訳と註』654頁)という。マタイとルカとを比較して見ると、非常に顕著な違いは、マタイでは息子は父親に対して、娘は母親に対して、嫁は姑に対して分裂すると言い、ルカでは、「父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと対立して分かれる」とされる。つまりマタイにおいては社会的弱者が強者に対して分離するとされる。それに対してルカでは家族関係そのものの崩壊が語られる。
49節-53節は誰に語られた文章であるか明記されていないし、48節までの文脈との関係もはっきりしない。54節-56節に関しては「群衆に」語られたとするが、文章そのものに「偽善者よ」という言葉があり、ファリサイ派の人々に対する言葉であろうと思われる。この文章はマタイ16:2-3ではまったく異なる文脈で見られる。おそらくルカはこの伝承を53節までの文章に続けることによって、時代状況に鈍感な人々に対する批判の意味を持たせたのであろう。

2. 福音書が描くイエスのイメージ
福音書で描かれているイエスのイメージは2つある。1つは非常に柔和で、優しいイエス像である。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11:29)。イエスが自分のことを「柔和で謙遜だ」というのもおかしいが、おそらくこれは弟子たちが見たイエスの普通の姿であろうと思われる。イエスが柔和で謙遜だということには誰も異存はないであろう。ところが、イエスにはもう一つの顔がある。エルサレムの神殿が商売人によって溢れている情景を見て、イエスは手に鞭を持ち暴れ回る(マタイ21:12-14)。これもイエスの姿である。言葉の上でも、イエスは社会的に見て弱い立場の人々に対してはことさらに優しい言葉をかけ、積極的に交わる。しかし社会の中で威張っている人や権力を笠に着ている人に対しては非常に厳しい(マタイ23:1-36)。
その中でも今日のテキストで描かれているイエスの言葉は激しい。これがイエスの言葉だとは思えないほど激しい。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と宣言し、「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と述べられる。これはいったいどういう意味であろう。福音書の専門家から見ると、こういういかにもイエスらしくない言葉こそ、後代の「信仰」によって歪曲されていない真性のイエスの言葉だとされる。ただ、やはりこの言葉についてはいろいろと議論されたのであろう。上に述べたように、この言葉についてのマタイの解釈とルカの解釈とを比較すると苦労の跡が見える。要するに、マタイは誰かがイエスの弟子となって生きようとするとき、家族が「妨げとなる」。家族関係を断ち切る覚悟が必要であると解釈する。ところがルカの場合はそういうことではなく、ただイエスが来られたときに、家族関係という枠組みそのものが破壊され、分裂が起こるのだと理解する。これはもはや個人の信仰の問題を越えており、個々の家庭内における「家族問題」ではなく、「社会現象」である。

3. イエスがもたらしたもの
イエスが来たことによって何が起こったのか。それ以前の家族の平和を支えていた価値観、倫理など、それは単に家族の平和を支えていただけでなく、社会の秩序をも支えていた枠組みでもある。その枠組みの中で父は父であり、子は子であり、母は母としての行動が規定されており、娘は母親が生きてきたように生きることが当然のこととして規定されており、嫁は嫁の立場が定められている。その枠組みの中で、枠組みに従って生きている限り「対立や分裂」は避けられる。
ところがイエスの福音はその「枠組みそのもの」を揺るがす。それまで当然のこととして受け入れられてきた価値観や倫理に対して、疑問を抱かせ、問題を提起する。イエスの言葉は、本日の旧約聖書(エレミヤ23:23~29)にあるように、今まで人々が後生大事にしてきたもの(穀物)が「もみ殻」のようになってしまう、という。それはまさに、「このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる」という事態である。イエスがガリラヤの湖畔で静かに語る言葉が、「社会の枠組み」を揺るがす力を持っている。

4. 時代を見分ける
ルカはイエスの歴史的意味を「社会の枠組み」を揺るがしたことであると語る。事実、イエスによって形成された教会は未来の社会を先取りしているものであった。これを語っているときルカが見ていたものはルカの時代の教会であった。教会こそ次の時代の芽であり徴である。54節から56節の言葉はそれを語っている。天気を予報することができるのに、なぜ時代を予報できないのか。ここで「見分ける」と翻訳されている言葉(ドキマゾー)は、見本を取って純度を測るとか、本物か偽物かを確かめるという意味である。ここでは、雲の種類や方角を見て雨を予測したり、南風を見て「暑くなる」と予想をすることを比喩にあげている。

5. 「神の国の徴」
ルカにとって、教会こそが「神の国」である。厳密にいうと、「神の国の徴」である。すでに、ここに実現している「神の国」である。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11:20)。「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)。
つまり教会という一つの事実を見て、次の時代を予測することを意味しているのであろう。その意味では、教会は時代を先取りする組織である。ルカはルカの時代の人々、この場合「群衆」(54節)に語る。時代は既に新しくなっているのに、未だに古い因習や価値観にとらわれ、平気で差別をしている人々に対して。
さて、それは私たちの課題に直結する。教会は時代を先取りしているだろうか。むしろ教会が最も時代遅れで、因習に凝り固まり、新しい時代を切り開くことを恐れているのではなかろうか。現実的には私たちは私たちが属している教会を見て、これがとうてい時代を先取りしている人間の集団とは見なしえないかも知れない。その意味では、私たちにとって教会は現実そのものであるかのように見える。しかし使徒信経で「聖なる公同の教会を信じる」という場合は、個別的な教会を越えて、「キリストの体としての見えない教会」を信じている。その意味では私たちが「教会」という場合、これら2つを含む教会である。それは現実と理想との分裂というレベルではなく、「見える教会」において「見えない教会」を信じるということを意味している。これを言い直すと現実の教会において、来るべき「神の国(=神の支配)を信じるということにほかならない。

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