ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のFB 08/12

2016-08-14 09:20:46 | ツイッター
お早うございます。主の平和。朝の散歩。汗びっしょり。休みの日。『キリスト教の世界』読了とする。昼食前に15分程うとうと。昼食後、1時間半ほど昼寝の続き。C.S.ルイス『悪魔の手紙』読み始める。文章が非常に読みにくい。家内は一人で釣川堤防散策。夕食後、「女たちに捜査最前線」「はじめまして、愛しています」を見て10時に就寝。5時起床。今朝の体温:35.9、血圧(138,75:71)・体調・快調。チュン、チュン。

28藤木 冨士子さん、小林 由紀子さん、他26人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪やっと、体温が平熱に近づいて来たようですね~♪(^^♪
先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されます様にm(__)m

文屋 善明 はい。

東山 富昭 おはようございます。今日も、よろしく、お願いします。

小貫 ツマ おはようございます。主の平和!

藤木 冨士子 こんにちは。


文屋 善明
8月12日 5:37 ·

お目覚めの花。「花の金曜日、今日は休日か、普通の日か」「まぁ、私には関係ないか」。
画像に含まれている可能性があるもの:花、植物、自然、屋外

33藤木 冨士子さん、芳賀 道子さん、他31人


文屋 善明
8月12日 6:06 ·

016 日々の聖句 08月12日(金)
わたしたちの心を主に向けさせて、わたしたちをそのすべての道に従って歩ませてくださるように。(列王上8:58)
主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。(2ペトロ1:3)
私の黙想:
今日の聖句は、神殿に神の箱を安置したときのソロモン王の長い祈りの一句。この時のソロモン王は父ダビデの意志を受け継ぎ、神殿建築を終え、神の箱を安置したという感動に溢れている。ヤハウェに敬虔である。9節の「箱の中には石の板二枚のほか何もなかった」という言葉が注意を引く。後の時代にはいろいろな宝物が入れられたのか。この2枚の石にイスラエルのヤハウェ信仰の中心がある。この神の箱も最後のは何処に行ったのか失われてしまった。
今日の聖句は面白い。王を初め全ての人びとの目が神の箱に注がれているとき、王は「わたしたちの心をヤハウェに向けさせてください」と祈る。口語訳、新改訳では「われわれの心を主に傾けて」と訳している。「心が傾く」。面白い表現である。平常時はほとんど無意識でそちらの方に傾いている。だから、逆らう時はかなり意図的に力を込めないと逆らうことが出来ない。

21藤木 冨士子さん、北村 良輔さん、他19人
コメント

播 稔 神学は大事なのですねー。


文屋 善明
8月12日 6:18 ·

今日の名言:@Michael_Ende_jp
神が初めに行ったのは、話すことでした。そして、話すことは、先程の意味での言葉なしで話すことですが、それは、そもそも精神の原理なのだと思う。それで、「精神は語り、心は泣き、知覚は笑う」と言われるのですね。(ミヒャエル・エンデ、『ものがたりの余白』)
<一言>言葉によって、言葉を通して「話す」ことの空しさ。話した瞬間に誤解が始まる。だから違う言語の人同士でも「話は通じる」。

19藤木 冨士子さん、Nozomi Moriwakeさん、他17人


文屋 善明
8月12日 6:40 ·

「昨日のFB 08/10」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

9藤木 冨士子さん、北村 良輔さん、他7人


文屋 善明
8月12日 6:41 ·

イミタチオ・クリスチ(213):
せっかく与えられた尊い使命をなおざりにして、自分の使命でもないことに手を出すとは何という不幸者であろう。25:24

15藤木 冨士子さん、北村 良輔さん、他13人
コメント

播 稔 なんとか同時に出来ないかと悩むことあり。


文屋 善明
8月12日 8:06 ·

読書記録:C.S.ルイス『キリスト教の世界』
ともかく、全体として、話し言葉なのでダラダラして冗長である。ところどころ、さすがにルイスと思わせるものが光っている。
第3部では入口の部分だけを取り上げる。第4部は「神学」についてのルイスの考えが面白い。特に三一論には神学者では思いもつかない叙述があって楽しい。
第3部 キリスト教徒の行い
モラルというものは3つのことに関係しています。第1に、人と人との間のフェァプレイであり、調和であります。第2に、ひとりひとりの内側を整えて調和させておくこと、そして第3に、人間の生きる目的は
何か、人はなんのために創られたのかということであり、それは艦隊がどこヘ行こうとしているのか、Jノ口ハるのか、バンドが何を演奏しようとしているのかと同じです。
近代人は第1のことはいつも考えていますが、ほかの2つは忘れてしまっていることに気付かれたと思います。新聞などで、「我々はクリスチャンとしてのモラルの水準を高めるために努力している」と言う時、 それは普通、国家や、階級や、個人の間の親切さやフェアプレイのために努力しているということであり、第1の点だけを考えているわけです。なにか自分がしたことについて、「ほかの人を傷けないから悪いはずはない」と言うことがありますが、これも第1のことだけを考えています。ほかの船とぶつからなければ自分の船のなかがどうあろうと関係ないと考えているわけです。モラルについて考えはじめる時、この第1の点すなゎち社会的な関係からはじめるのは、きわめて自然なことです。というのは、戦争、貧困、汚職、虚偽、悪業など、モラルの低下の結果はその部分でもっとも明白であり、日々の生活に迫っているからです。だから第1の点にだけ固執するかぎりモラルについての見解は、人によってほとんど異なるこもありません。ほとんどすべての人が、いつの時代にも、人間というものは正直であり、互に親切に助け合うベきものだということを、少なくとも理論的には認めてきました。でも、それから始まるのは自然であるとしても、もしモラルについての考えがそこでとまるとしたならば、まったく考えなかったことと同じなのです。もし第2の段階、すなわち各自の内部を整えるこに進まなければ自分自身をあざむいているにすぎません。(75頁)
このようにして、モラルというものを考えた場合、3つの部分を考えなければならないわけです。 人と人との関係、各個人の内側のこと、そして人と人を作った力との間の関係です。第1のことには、すベての人が協同することができます。意見の違いは第2の点にはじまり、第3の点にいたって深刻になります。キリスト教のモラルとそれ以外のモラルの大きな違いが、この第3の点の扱い方において生じてきます。本書の残りの部分において私はキリスト教の視点を述べていき、もしキリスト教が本当のものであるとしたならば、それはいかなるものであるか、全体像をみていきたいと思っております。(77頁)
基本徳目というのは文明の進んだすべての人々に認められているものですが、神学的徳目というのは一般的にはキリスト教徒だけが知っているものであります。その神学的なものについては、後にお話しすることになるでしょう。この段階では4つの基木的な徳目についてお話をしようと思います。「基本的な」という言葉は、英語では「カーディナル」といいますが、これはローマ教会のカーディナル(枢機脚)という言葉とは関係ありません。それはラテン語の「蝶番(ちょうつがい」からきている言葉であります。物事の回転の中心という意味で、そう呼ばれたのでありますが、その4っとは、「慎しみ深いこと」、「自制すること」、「正しくあること」、そして「毅然としていること」であります。(78頁)
第4部 パーソナリティを超えて
この最終部においてこれからお話ししようとしていることについては、だれもが止めたほうがよいと忠告してくれま した.。「ー般の読者は神学など好まない。平易な実際的な宗教を説けばいい」というのです。しかし私はその忠告をりぞけました。一般の読者がそんなに愚かであるとは思いません。神学とは「神に関する科学」でありますから、神について考えた人はだれでも可能なかぎり、明瞭で正確な概念を持ちたいと恩います。読者は子供ではないのですから、子供のように扱うことは失礼になりましよう。
一面において、人々が神学を遠ざけるのもよく理解できます。いまでも思い出しますが, 空軍に招かれて話をしていた時です.。いかにも患難をくぐり抜けてきたという感じの士官が立ちあがって言いました。「そんなにくだらない話には関心がありません。でも、忘れないで下さい。私も宗教的な人間なのです。神がおられるということを知っていますし、またそれを感覚によってとらえたこともあります。夜の砂漠のなかでしたが、それはすばらしい神秘でした。だから、あなたの話している、きれいごとのドグマや公式を信じないのです。本当のものを見た者にとってそういうのはつまらぬ、ペダンティックな、非現実的なものに見えます」。
あろ意味において、私はその人にまったく同意します。砂漠のなかで神の実在を体験されたのでしょう。そしてその経験からキリスト信仰箇条に至ったときに、確かにリアルなものから、少しリアルでないものに至ったのだと思います。同じようにして、海岸から大西洋を眺めたことのある人があとになって大西洋の地図を見た時に、リアルなものから少しリアルでないものヘ移ります。現実の波から色刷りの紙の一片ヘです。だが、そこに要点があります。たしかに地図は色のついた紙です。2つのことに注目する必要があります。第1にその地図は何百、何千という人が現実の大西洋を航海して見い出したことに基づいています。その意味において地図の背後には直接に海岸で得た経験と何じように現実の無数の経験があるわけです。
海辺の人の経験が、一っの断片的印象であったのに対し、地図はすべての体験を結合したものであります。第2に、もしどこかヘ行こうとするのであれば、地図というものが絶対的に必要なものであります。海岸を歩いていて満足している間は、たしかに地図を見るよりも、景色をみるほうがずっと楽しいでしょ う-。だが海岸の散歩を止めてアメリカヘ渡ろうとする時には地図はずっと役に立っようになるのです。
さて神学はその地図のようなものです。たんにキリスト教の教義を学習したり考察したりすることは、もしそれで止ってしまうならば、その士官が砂漠で経験したことよりも、現実的でなく、感動的でもありません。教義というものは神ではなく一種の地図にすぎません。だが、その地図は実に神に触れた、たくさんの人の経験によって書かれているのであり、その経験にくらべるならば、我々個人の感激とか敬虔な思いというものはきわめて初歩的なものであり、混乱したものにすぎません。そして第2に、もし先ヘ進もうとするならば、地図を使わなければならないのです。その砂漠の人に起こったことは、真実であったかも知れません。そして確かに感激であったことでしょう。でも、それはそれだけで、どこへも人を導いて
はくれません。だからどうするということがありません。自然のなかに神を感ずる等々という漠然とした宗教が人を惹きつけるのはその理由です。感激だけであって動きがありません。渚で波を見つめているのと同じです。だが大西洋をそう理解しているだけでは、アメリカのニューファゥンドランドに行き着くことはできず、花や音楽に神を感じているだけでは永遠の命に到ることはできないのです。地図をみているだけで海に乗り出さなければ、どこに達することもありません.。そして地図を持たずに航海に出るのは
危険です。
いい換えれば、神学とは実用的なのです。(143頁)
信経の一つ(アタナシオ信経)には「子はただ父よりの者にして、成りたるにあらず、造られず、生まれたるなり」という言葉があり、さらに「よろず世の先に生まれ」と告白されている。キリストには「生まれる」という言葉使われている。このことはキリストがこの地上に人として生まれ、処女の子であったという事実とは何の関係もないということをはっきりしていただきたいと思います。いまは処女懐胎について考えているのではありません。自然が創造される前に、時が始まる前に、起こったことを考えているのです。 「よろず世のさきに」キリストは生まれたのであって創造されたのではありません。それはなにを意味するのでしょうか.
現代の英語では 「生まれる begetting」、あるいは 「生まれた begotten」という使い方はあまりしませんが、その意味は誰でも知っています。beget というのは、その父になるということであり、 create というのは作ることです。違いはこうです。 beget という時には何か自分自身と同種類のものが生まれることです。人間は赤ん坊を生み、ビーバーは小さいビーバーを生み、鳥は卵を生んで小さな鳥になります。しかし作るというのは自分とは違うものを作るのです。鳥は巣を作り、ビーバーはダムを作り、人間は無線装置を作ります。無線装覆よりもっと自分に似たものを作るかも知れませんが、それは彫刻です。もし、きわめて巧みな彫刻家であれば、ほとんど人間と同じような彫刻を作るかも知れません。だが、もちろん、それは人間ではなく、ただそう見えるだけです。呼吸もせず、考えもしません。生きているものではありません。
さて、これが第1に明確にすべきことです。神が生むものは神です。人が人を生むのと同様です。神の創造されるものは神ではありません。人の作るものが人でないのと同様です。キリストが神の子であるという意味においては、人間は神の子でないというのはこのためです。人間はある面で神に似ているかも知れませんが、同じ種類のものではありません。神の彫刻か絵のようなものです。(146頁)
最近では、少なからぬ人が、「神は信ずるが人格的(パーソナル)な神は信じない」と言います。あらゆ ろことの背景にある神秘的な何ものかのほうが、一人の人格よりも勝る、とその人々は感じています。さてクリスチャンもそれに同意します。しかしクリスチャンだけがパーソナリティを超える存在の概念がいかなるものであるか述べることができるのであって、ほかの人々は神が人格を越えるものであるといいながら実際には人格的でないもの、すなわち人格より劣るものを考えているのです。もし人格以上のもの、すなわちスーパーパーソナルなものを求めているのであれば、キリスト教徒と他の考えとの選択は問題なりません。キリスト教だけが該当しているのです。(148頁)
さて神に対するクリスチャンの考えも全く同じものを含んでいます。人間のレべルは単純で、どららかというと空虚なレべルです。人間のレべルでは1人の人間は1つの存在であり、2人の人間は2人の別々な存在です。1枚の紙の上のように、2次元で1つの正方形は1つの図形であり、2つの正万形は2つの別な図形であるのと同じです。神のレべルにおいても、パーソナリティーを依然として持っていますが、そこではそのレベルに達しなければ理解し得ないような新しい方法で統合されているのです。神の次元においては、いわば3つのパーソンズでありながらに1つである存在を見出します。正方体が6つの正方形であって、同時に1つの正方体であるのと同じです。もちろん我々はそのような存在を完全には頭に描くことはできません。もし2次元だけを知覚し得る存在であったとした時、正方体をうまく考えることができないのと同じです。でも、我々はかすかながらも考えを持つことができます。そしてそうした時生まれて始めて、1つのパーソンを越えるなにか、スーバーパーソナルなものについて、たとえわずかであるとしても、ある積極的な考えを持つことができるのです。それは我々が想像もしなかったようなものでありますが、それでも、一たび語られたならば、すべてすでに知っているものによく整合するものであるがゆえに、想像すろことができたはずだと思うものであります。(150頁)
<文屋の感想>
第4部に読書についての面白い部分がある。幸いにルイスさんもこう言っているので、この部分を紹介して、終わりとする。
一冊の本を読む時に決して読み飛ばす個所があってはならないというのは、愚かな考えです。センスのある人は自由に、必要でないと思う章は飛ばしています。この章において私はある読者にとっては有用であるのですが、 他の人々にとっては無用な繁雑とみえることについてお話しようとしています。もし、第二の読者であれば、どうぞ、この章にかかずりあわずに、次ヘ進まれることをおすすめします。(153頁)

22佐々木 弘幸さん、芳賀 道子さん、他20人
コメント

門叶 国泰 アマゾンで入手出来る! 誘惑と戦っています。

文屋 善明 この本は新教出版社から『キリスト教の精髄』と書名を換えて出ています。そちらの方が良さそうです。

門叶 国泰 これも直ぐ入手出来ますね。困ったな、もう時間がない!

村田 多鶴子 誘惑に負けて、『キリスト教の精髄』(新教出版社)を発注しました~(笑)明日届くようです~♪(^^♪

村田 多鶴子 文屋先生、届きました!ボチボチ、私のペースで読んで行こうと思います~♪(^^♪
村田 多鶴子さんの写真

文屋 善明 もともとラジオ放送だから、そのつもりで読むと面白い。

村田 多鶴子 音読ですか?…、それもいいかも知れませんね。
試してみましょう~(笑)


文屋 善明
8月12日 8:44 ·

今日の「折々のことば」。高坂正堯さんの言葉だ。この人の国際政治学の講義は、囲碁の解説のように面白かった。世界地図が碁盤のように思われてくる。この人、学生時代から囲碁の名手で確か学生チャンピオンにもなったと聞いている。今日の言葉も、相手の一手をどう読むのか、ということに通じる。彼ぐらいの名手になると、定石はほとんど無効で、無駄な石は一つもない。惜しくも62歳でこの世を去ってしまったが、今、彼が生きていたら、今の状況をどうときほどくのか聞きたかった。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1085551971522263&set=a.200492220028247.51380.100002024109092&type=3&theater

31藤木 冨士子さん、濱 和弘さん、他29人
コメント

播 稔 原則と例外、背景がある、たしかに。 考えていない者はあわてる。


文屋 善明さんが岡本 幸三さんの投稿をシェアしました。
8月12日 17:22 ·

実に残酷な風習ですね。これを残された家族にさせたくないという「お気持ち」はよく理解出来ます。

岡本 幸三
8月9日 20:40 ·
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天皇陛下が語った「殯(もがり)の行事」がヤバ過ぎる件!遺体の腐敗・白骨化などの変化を確認する行事・・・(以下、「情報速報ドットコム」をコメントごとシェア)

お言葉の中で天皇陛下はこのような行事⦅=殯(もがり)⦆を指摘していましたが、確かにこれは家族の大きな負担になりそうです。恐らく、陛下は自分自身でそれを経験して、二度とやらせたくないと決心したのでしょう。

亡くなった親族の遺体を白骨化するまで見続けるとか、拷問にも等しい行事だと私は思います。陛下は普通の人として最後を望んでいるとも考えられ、是非とも生きている間に皇位継承を完了させて欲しいところです。

(注)殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。その棺を安置する場所をも指すことがある。


天皇陛下が語った「殯(もがり)の行事」がヤバ過ぎる件!遺体の腐敗・白骨化などの変化を確認する行事・・・|情報速報ドットコム
SAIGAIJYOUHOU.COM|作成: ヤマダ

23東山 富昭さん、松井 理直さん、他21人
コメント

Mizota Michael Satoshi これはこれでキリスト教と神道が深いところでつながっている証拠なのではないか、とも思えています。仏教と古代ヨーロッパは印欧祖語に共通して火葬でしたからね。

磯道義典 誰が改善するのか、今の天皇しか居ないのでは。

藤木 冨士子 殯、奈良時代以前からの風習ですね。

Mizota Michael Satoshi 「死に対する中間状態」を異常に感じると言うことは、「肉体的な感覚」を現代の日本の神道は回復できない、ということを示しています。残念ながら「国家神道」を経験し、「近代精神」に骨の髄まで毒されてしまった現代の神道は、古代の精神を回復させることは「ほとんど無理」でしょう。やったらニセモノが出来上がるだけですから。。。

藤木 冨士子 仏教も神道も昔のものと今伝わるものとは違うのですね。

文屋 善明 私の父は、宮城県の田舎で死者を土葬にする習慣があって、それが恐くてキリスト者になったらしい。

Mizota Michael Satoshi 仏教も日本に渡来して変質しました。もちろん原始の状態を回復させたいと思うことは自由ですが、「回復できる」と「喧伝」するなら、「詐欺」です。キリスト教も同じだ。古代と同じように回復などできはしないんです。「古代とは似ても似つかないように変質しつづける姿を見つめ続ける」それが現代の「もがり」であるべきでしょうね。

文屋 善明 私自身は、そして家内も同じ考えですが、火葬にして徹底的に灰にして「捨てる」。だから墓は不要という考えです。墓があるために「墓参り」があり、一定の土地に縛られる。死んだらゼロが一番の希望。

Mizota Michael Satoshi そういう古代からの習慣から自由になるのを「自覚的にやる」のか「無意識のうちにさせられる」のかという点で、大きな違いがあるとは思います。

文屋 善明 ついでに、もう一言、私の兄がいたのですが、2歳で病死。母はその遺骨を残して私たち3人の息子を連れて帰国した際、父の実家のオバから酷く罵倒されました。その時の記憶が私には強く残っています。それ以後、母は父の実家には一度も行ったことがありません。

櫻井 吉田 啓子 モガリは古代の風習で、初の天皇火葬は持統天皇でした。(ダンナの墓に骨壷として入りたいって…現代女性より可愛い、辣腕女帝)
その後仏教の浸透で、天皇の土葬は必須ではなくなっていったわけです。
それを古代並みにしたのは、結局明治の復古調からではないでしょうか?
一度失われた、また、変化した感覚を、無理に太古に帰らせようとする、そこに違和感を覚えますし、きっと今上さんもそうなのでしょう…。

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