ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

内田樹・釈徹宗『現代霊性論』(講談社)

2010-04-15 14:40:01 | ときのまにまに
内田樹・釈徹宗『現代霊性論』(講談社)を読んだ。非常に面白かった。面白いところに付箋を付けたらほとんど全ページに付けることになってしまった。第1にこの企画そのものが非常にユニークである。哲学教授の内田先生と仏教徒で宗教思想の専門家である釈先生との「かけあい講義」である。(お二人の肩書きは本書を見てください)。切っ掛けは「プライベートは食事」のとき、内田先生から「かけあい講義」というのをやろうよと呼びかけ、釈先生が「それは面白い」ということで、神戸女学院大で半年間の公式講義としてが実現したという。テーマは「現代霊性論」。とにかく話題が豊富だし、話している内容がしっかりしている。釈先生のキリスト教やイスラム教への理解の深さは、「キリスト教神学者」以上のものがある。
この本を簡単にまとめたり、紹介したり、批評などできるものではない。ただ、読んだという記念のために、本の一部、しかも本論というよりも学生たちからの質問に答えるもので、いわば付録のような部分を取り上げて紹介に代えたい。今、キリスト教の暦では復活節である。ここ毎週説教で「復活」のことが取り上げられている。その観点から「時間・記憶・生・死」の問題は非常に示唆に富んでいる。
学生からの質問に答える2人の対話する場面がある(本書255頁)。その対話の内容が非常に面白い。
先ず、釈先生が仏教の立場から「死と生とは対極の関係」ではなく、裏表の関係にあると言う。それに対して内田先生も賛同し、生と死の関係を推理小説のようなものだと説明する。
推理小説では、伏線らしいいろいろな事件が起こり、次々と怪しい人物が登場する。それをわくわくどきどきしながら読む。最後まで読まないと、一つひとつの出来事の意味や、登場人物のほんとうの正体はわからない。わからないから最後のページまで楽しく読める。途中で犯人がわかってしまったら興ざめです。できるだけ最後まで事件の真相がわからないはうが読んでいて楽しい。人間は死の瞬間に生の全体を把握する。
推理小説の面白さは、事件の真相がすべて明らかにされたときの満足感の「前倒し」である。私たちはたぶん死の瞬間に「なるほど、私の人生の『あれ』は『こういうこと』を意味していたのか」と、それまでわからなかったすべての伏線の意味が明らかになる。少なくとも、僕たちはそう信じて今生きている。「最後にすべては解明されるのであるが、その答えは私が想像していたものとはまったく違うものである」という確信だけが推理小説を読む快楽を担保している。生きる快楽を担保するのも同じ「不可知」だと思うんです。
内田先生は、韓流ドラマの『冬のソナタ』がお好きなようで何度も繰り返し見て、なぜ面白かったのかということを次のように説明している。わたし自身は一度も見たことがないので分からないが説明は理解できる。
先生は、この作品は「時間」を主題にしているという。
≪記憶喪失というのが大きなテーマなんです。過去を失った人がだんだん記憶を取り戻して、自分の過去を発見する。そのときにね、過去の記憶が断片的に浮かび上がってくるんですよ。過去の記憶が断片的に浮かんできて、それらを繋ぎ合わせてゆくと、「もしかすると私の身には『こんなこと』が起きたのではないか」と、過去の出来事についての推理が進んでゆく。これ、時間の流れを逆向きにしているわけですよね。ドラマでは現在から未来に時間が流れてゆくんだけれど、いろいろな出来事を経験するうちに、それまで見えなかった過去がしだいに視野に入ってくる。未来に進むにつれて、過去の風景が広がってくる。未来について、「もしかして、これからこんなことが起こるのかな?」という予感がすることがありますけれど、これは「もしかしたらこれからこんな過去の記憶が甦ってくるのかな?」という「過去についての予感」なんです。でも、これって人間の時間意識を実に巧みに描いていると思うんです。≫
≪僕らがわくわくするのって、過去に対する予感とか、すでに終わったことなんだけれど、その終わった出来事が何だったのかという意味を時間を経てから思い出すということじゃないですか。あるいは、これから起こる何だかもう見たことがある気がする未来に対する既視感。変な話だけれど、時間が前に進むにつれて既視感が輪郭を増してくることがあるでしょう。過去から遠ざかるにつれて、どんどん過去の輪郭がはっきりしてくるというふうに。僕らは直線的、不可逆的に時間を進んでいって、過去はどんどん忘れ去られてゆくと思っているけれど、実はそうじゃない。進みながら戻ったり、全容が傭轍できたと思ったら、視野が狭窄したり。時間は進んだり戻ったり、伸びたり縮んだりしているような気がします。だから、死というのも、そういうイナミックな時間意識の中でとらえるべきじゃないかと思うんですよ。生と死は対立しているのでもないし、生の終わりに死があるわけでもない。僕たちは死を「前倒しに」味わうことで、初めて生きている。そういうものだと思うんです。≫

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