ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 09/08~09/14

2013-09-15 10:47:28 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 09/08~09/14

日々の聖句2013 09月08日(日)

悩む心を解き放ち、痛みからわたしを引き出してください。(詩25:17)
天使は言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒1:11)
私の黙想:
前半と後半とは同じことの繰り返しだろうか。それにしては結びつきが弱い。やっぱりおかしいと思った。フランシスコ会訳の注では前半の句について「本行の原文は不明」とある。新改訳では「私の心の苦しみが大きくなりました」、岩波訳では「わが心の諸々の苦難をやわらげ」、祈祷書はもっとすっきりと「わたしの悩みを和らげ、苦悩の淵から救ってください」と訳している。色々比較してみると新共同訳もそれほど変ではないが、問題は後半の「痛みから」という訳語にあるようだ。その意味ではフランシスコ会訳の「この苦境から救い出し」という訳語がぴったり来る。最後に切り札、文語訳を現代風にアレンジして「願わくは我が心の憂いをゆるめ、我を災いから逃れさせ給え」。

日々の聖句2013 09月09日(月)
さあ、われわれは、永遠に忘れられることない契約を結んで主に連なろう。(エレミヤ50:5)
キリストは新しい契約の仲介者なのです。(ヘブル9:15)
私の黙想:
国が崩壊するとはどういうことか。色々なパターンがあるだろうが、イスラエルの場合は郷土から追われ、バビロンで寄留者として惨めな生活を余儀なくされた。このまま行けば、国だけではなく民(イスラエル人)としてのアイデンティティも失われであろう。その時、奇跡的にバビロンが滅ぼされイスラエルの民は解放され、祖国に帰還し国を再建する希望がもたらされた。国が崩壊するとはそういうことである。イスラエルの民はその時以後、軍隊を持たない、国際政治の舞台にも登場しない、今までにない全く新しい宗教的共同体としての民族国家を形成した。神との全く新しい永遠の契約とはそういう共同体(国家であって国家でない)であった。と、まぁ今朝は妄想する。

日々の聖句2013 09月10日(火)
主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。(詩12:7)
キリストの言葉:わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(ヨハネ8:31-32)
私の黙想:
「主の仰せ」、新共同訳以外はすべて「主の言葉」と訳している。なぜ「主の仰せ」というような気取った表現をとるのか疑問に感じるが、確かにここで指し示している「主の言葉」は通常使われている「主の言葉」とは内容が異なる。ここでは明らかに、その直前の「主は言われます」を受けている。つまり、6節の「虐げに苦しむ者と呻いている貧しい者のために今、わたしは立ち上がり彼らがあえぎ望む救いを与えよう」という言葉を受けて止めている。
主の言葉もいろいろあるが、特に今、ここで語っておられる「主の発言」は特別に清い言葉であるというニュアンスを表しているのが「主の仰せ」であろう。従って、その清さも尋常ではない。「土の炉で七たび練り清めた銀」のように大切にしなければならないのだ、という思いが詩人にはある。
なぜ、そうなのか。ここでは明白に3節から5節に述べられている「人間の言葉」、人間が世界に向かって「滑らかな舌」によって「威張って」語る「嘘の言葉」と対比されている。
ああ、今、この言葉を聞かされるとは!!

日々の聖句2013 09月11日(水)

王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。(詩33:16)
あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。(マルコ10:43)
私の黙想:
この場合の「王の勝利」とは何か。戦争に勝つという場合、いろいろな勝ち方がある。軍事的制圧による勝利もあれば、外交交渉による平和的勝利もある。勝利しても何の利益もない場合もあれば、負けたとしても何の損失もない負け方もある。負けて勝つもあれば、戦わずして勝つもある。吉田茂はフランシスコ講和会議が終わったとき「戦争に負けたが外交で勝った」と語ったと言う。
この言葉を受けるマルコの言葉は何かを示唆している。「偉くなりたい」という言葉を人生のおける勝利者と言う意味に解釈すると、それは競争相手を打ち負かすことによって得られるのではなく、「仕える」ことによって得られるのだということを意味しているように思う。

日々の聖句2013 09月12日(木)

娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。主はお前に対する裁きを退けお前の敵を追い払われた。(ゼファニヤ3:14-15)
キリストは十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。(1ペトロ2:24)
私の黙想:
今日の聖句は、「エルサレムへの裁き」「民の改心」「イスラエルの『残りの者』」に続く「エルサレムの回復」の冒頭の言葉である。裁き、つまり滅亡が大きければ大きいほど、回復の喜びも大きい。回復の喜びを享受できる者は「残りの者」である。イスラエルの思想史の中で「残りの者」という思想の影響は小さくない。みんな駄目(悪)でも、その中に少数ではあるが良い者(義人)もいる。神は義人をノアとノアの家族と同じように、ソドム・ゴモラのときのロトの家族のように、徹底的な破壊においても選別し残す。だから社会がどれほど乱れ、悪にまみれても、その中で正しく生きようとする人にとっての励ましとなり、エネルギーとなる。この思想が、初期のユダヤ人・キリスト者の心の支えとなったのではなかろうか。

日々の聖句2013 09月13日(金)

ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけ、目で見たことを忘れないようにしなさい。(申命記4:9)
神は、聖霊と力によってナザレのイエスを油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて善いわざをなさいました。(使徒10:38)
私の黙想:
神の約束の地に入るに際してのモーセによる実践的教訓。今日の聖句の直前に「大いなる国民」という語が3回も繰り返されている。現実は荒野を彷徨うみすぼらしい集団にすぎないが、モーセはこの集団を「大いなる民」と呼ぶ。この集団を「大いなる民」とする根拠は神から与えられた律法にある。この律法の故に他民族から「知恵があり、賢明な民である」と賞賛されるのであると言う。他にこのような律法を持った民族があるだろうか。ない。これがイスラエル民族の誇りの根拠であり、それは今でも彼らの信念になっている。
ここで忘れないようにしなさいと命じられている「目で見たこと」とは、彼らが今、ここに「今日も生きている」(4節)という現実である。「今日も生きている」いや「今日も生かされている」という実感、これは「死線を越える」経験を経た者にしか分からないものかもしれない。それは毎日毎日死に行く人と隣り合わせで生きて来たという経験、あるいは一瞬の悲劇により多くの人々が死んでいく中で奇跡的に生き残ったという経験でもある。この「今日も生きている」という言葉は悲しみを内包している。この経験は忘れやすい。いや、心の深いところで「忘れたい」と願っているのかもしれない。しかし、忘れてはならない。断じて忘れてはならない。この経験において私は神とつながっている。

日々の聖句2013 09月14日(土)

彼らはわたしの民となり、わたしは真実と正義に基づいて彼らの神となる。(ゼカリヤ8:8)
キリストのものであるなら、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。(ガラテヤ3:29)
私の黙想:
預言者ゼカリヤは、エルサレム帰還後神殿建築を指導し完成前に死去したと言われている。従って今日のテキストを含む3節から8節はゼカリヤが夢見た将来のエルサレム(シオン)の情景である。まさにこれが旧約聖書におけるシオニズムのテキスト。特に7節は全世界に散らばっているユダヤ人がシオン(エルサレム)に結集する様が描かれている。
キリスト者はこの情景を使徒言行録1:11と重ねてキリスト再臨論の内容を形成した。
本日の聖句の「真実と正義に基づいて」という言葉は不要である。神が君臨する場合に「真実と正義」に基づくのはいわば当然である。その意味で、逆にこの言葉には特殊な意味が含まれている。つまり、「真実と正義に基づかない」世界統治というものがある。神話的には悪魔による世界支配であろうが、現実的には「欺瞞(政略)と武力」による制圧政治である。
ヨハネ黙示録21:3-4ではこのテキストは世界の終末における理想的な情景として描かれている。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

最新の画像もっと見る