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読書メモ:佐高信『黄沙の楽土、石原完爾と日本人が見た夢』

2016-10-12 15:44:58 | 雑文
読書メモ:佐高信『黄沙の楽土、石原完爾と日本人が見た夢』

石原完爾についての二つの評価。

<以下引用>
1932年5月15日、日本の陸軍のテロリスト集団によって、犬養毅は斃された。その日の出来事について、毅の娘犬養道子は次のように書く。『花々と星々と』(中公文庫)の続編の『ある歴史の娘』にズバリ書く。

「祖父、犬養木堂暗殺の重要要素をなした満洲問題は、その発生から満洲国建国までの筋書一切を極端にして言うのなら、たったひとりの右翼的神がかりの天才とも称すべき人間に負うていた。「満洲問題解決のために犬養がよこす使者はぶった斬ってやる!」と叫んだあの石原莞爾その人である」

この犬養道子の石原指弾と、まったく対照的な石原評価をしているのが、石原より4歳年下の市川房枝である。市川は奇しくも1893年の5月15日に生まれた。ちなみに石原が生まれたのは1889年1月18日。

戦後30年も経って、1976年3月10日の日付で、当時、経済誌の編集者をしていた私のところに舞い込んだ『石原莞爾全集』のパンフレツトに、市川房枝の次ぎの推薦の言葉を見出した時の違和感を私は忘れることができない。
石原は私と同郷(石原は鶴岡、私は隣の酒田の生まれ)であり、戦後まもなく始終遊びに行っていた山形県真室川町の叔父の家などには、石原の本が何冊も転がっていたこともあって、私はずっと石原に関心を持ち続けてきた。それゆえに、こんなパンフレツトも送られてきたのである。
それにしても、市川の手放しの石原礼賛は、当時、クリーンの代名詞のように言われていた市川のイメージと結びつかなかった。
市川は、こう、すすめる。
「私は石原中将の著書の一部しか読んだことがありません。しかし氏の中将時代即ち京都の師団長であった時代に、京都のお宅と、軍人会館でお目にかかり、そのお人柄と、中国に対してのお考えに敬服し、氏を中心とした東亜連盟にも一時参加したことがあります。私は百姓の娘でしたので偉い軍人には全く知人はなく、婦人に無理解で戦争の好きな軍人——軍部にずっと反感を持っていました。しかし石原中将は軍人でも違う、今までにない偉い軍人だと思います。
此の度、白土菊枝さんの努力で将軍の全集が刊行されることになったのは、まことにうれしく、軍部や戦争に関心を持っていられる方々には、是非この全集を読んで下さるようおすすめします。
参議院議員 市川房枝」
この推薦文が書かれた1976年頃は、犬養道子が『花々と星々と』の続編『ある歴史の娘』を、文化出版局で出している雑誌『ミセス』に連載している頃だった。<以上12頁>

<以下引用>
満洲国についても、石原の掲げた理想は正しかつたとし、東条英機や甘粕正彦らがそれを台無しにしてしまつたと説く者が多い。しかし、内面指導癖を含む日本人の弊は深く石原をも捕えていた。大体、満洲に行って五族協和を主張する
なら、なぜ、朝鮮でそれを実践して見せなかったのか。朝鮮でやったことが、その主張を裏切っていると指摘するのは、中国の顔恵慶である。1932(昭和7)年2月19日、顔はジユネーブで開かれた国際連盟理事会で、こう演説した。

(演説内容抜粋)
今夜半から始まらうとする戦闘を停止せしむベき思ひ切った手段をこの4〜5時間に採らねばならぬ時に際し、理事会の時間を占領した日本代表の動機は充分に了解することが出来る。面も同代表は支那政府に対し多くの無礼なる言辞を弄したから余もそれに酬ゆる為め多少の時間を貰ひたい。(中略)
日本代表は能く組織されたる国家のことを言はれたが、政府の統制を破りつゝある陸海軍を有する日本の様な国が組織力ある国家であるかどうかを疑ふのである。日本の外交官が理事会に出席し、現実に種々の約束をなすに拘らず、面も翌日にはその約束が守られないと言ふのではそれは能く組織された政府を代表してゐると言ふべきであらうか。日本は 2~3の大国に対し錦州を侵略せずと明かに約束したに拘らず、数日ならずして錦州に入ってゐる。これでも能く組織されてゐる政府と言ふことが出来るであらうか。 (中略)一方に於いて支那は組織されたる政府を持たないと言ひながら、他方に於てその政府と交渉することを主張しつつある。若し支那が無組織の政府ならば何故日本は斯かるものと直接交渉をせんと主張するか。何故職盟で問題を解決しやうとしないのか。 (中略)
日本代表が日本は職盟の保護を享有せずとの不満を述ベられたことは面白い。日本は保護を受けるどころか、厳格なる処罰に値すると思ふ。一切の爆撃を済まして満洲に傀儡の国家を作り上げてから職盟に訴へてその保護を求めんとする。かかる要求は無鉄砲である。(中略)
日本代表はその人口の捌け口を見出す必要を強調され、余も亦それを認めるが、然し日本は満州に於ける移住定着に全然失敗した。日本は25年間其処に移住したが政府の奨励及び資金の供給あるにも拘らず今日満洲には憧か20万人あるに過ぎず、然るに支那は年に百万人を送りつつある。 (中略)
日本代表は幾度か日本が満洲を併合する野心なきことを繰返された。然し余の記憶するところでは数十年前同じことを朝鮮に就いても聞いた様に思ふ。日本は朝鮮を併合しないと言った。しかも今日朝鮮は日本帝国の一部となってゐる。故に日本代表の言明は額面通り採ることは出来ない。
(外務省編纂『日本外交年表並主要文書』下)<以上引用、219頁>

この本に内村鑑三の文章が出てくる。
<以下引用>
「白人の覇道」と「東洋人の王道」と御都合主義の色分けをする石原(莞爾)には、内村鑑三の唱える次のような平和論はとうてい理解できなかった。
「もし日本とロシアとが衝突するに至るならば、それは日本にあって平和をとなヘる吾人と、ロシアにあって同一の平和をとなヘる文豪トルストイ、美術家フエレスチャギンらとが衝突するのではない。それは日本の海軍大臣山本権兵衛氏と、露国の極東総督アレキシーフ大将とが衝突するのである。また日本の陸軍大臣寺内中将と、露国の陸軍大臣クロパトキンとが衝突するのである。また日本の児玉文部大臣と、ロシアの教務大臣ポベドノステフが衝突するのである。すなはち日本にあって剣を帯ぶる者が、 露国にあって剣を帯ぶる者と衝突するのである。また日本にあって忠君愛国道徳と世界併呑主義をとなふる者と~、露国にあって同一の主義道徳をとなふる者とが衝突するのである。すなはち名は日露の衝突であれ、実は両国の帝国主義の衝突である。さうしてこの衝突のために最も多く迷惑を感ずる者は平和を追求してやまざる両国の良民である」。<以上引用、220頁>

石原より五つ若きジャーナリスト石橋湛山が「盲目的挙国一致」を烈しく指弾する。

<以下引用>
「意見というものは人の面が異る如く、異るもの」であり、異なる意見が集まって一つにまとめられるがゆえに、「初めてここに間違いのない健実な意見が出来る」と説く堪山は、「常に一本調子で、他の意見は混ぜずに国政が料理せられ、思想が左右せられる」日本を次ぎのように批判する。
「挙国一致ということは、その言葉だけを以って言えば、大層善い事のようである。何となれば挙国一致とは即ち国民の勢力の集中ということであるからである。しかし如何に国民の勢力の集中でも、その集中が間違った処ヘ行っておったならば、集中せられておるだけに、却ってその害その弊やおそるベきものがある。故にその勢力を集中するまでには十分意見を戦わして間違いのない方針を定めねばならぬ。然るに我が国の所請挙国一致はこの準備を欠いておるのみか、たまたま異った考えを抱いておる者があると、それを圧追するに挙国一致の名を以ってし、口を開かせない」。
堪山の筆峰の鋭さは晩年になっても衰えることがなかったが、青年堪山のそれは、やはり客気に満ちている。
「有名なガリバー旅行記の中に人間が馬の世界ヘ行った物語がある。馬の世界であるから馬が非常な勢力を有し、その言語、音調、動作、習慣、思想は、その世界の最も進歩したものとせられておる。で、そこヘ行った人間も何時の間にか自分が人間であるということが恥ずかしくなり、四ッ這いになり、馬の真似をする。しかし何うもまだその鳴き声の調子が可笑しいなどと馬共に評せられたりなどしておるが、近碩の我が国は丁度この馬の世界のような有様である」。
石原は、堪山がこう風刺した「馬の世界」の人間であり、その中でも悍馬というベき存在だった。ちよっと変わった馬だとはいえ、「その言語、音調、動作、習慣、思想」は、まがうかたなく「馬の世界」のものだった。
膨張する日本の大アジア主義の痛烈な批判者だった中国文学者の竹内好は、「自由主義の立場から植民地主義に反対した思想家」として堪山を挙げ、もし「 満洲国」を認めるなら論理必然で朝鮮の独立も認めるのが自由主義者というもので、堪山は「自由主義者にしてアジア主義者」という日本には稀なタイプの思想家だつた、と評している。
<以上引用、222頁>

著者は結びの部分で次のように述べている。

<以下引用>
私にはいま、キッシンジャーと石原莞爾が重なって見えてならない。対中国戦争不拡大と東条英機との衝突によって、石原はあたかも平和主義者のように偶像視されている。しかし、満洲事変の火をつけ、それから15年に亘る戦争の口火を切ったのは明らかに石原であり、その後いかに「平和工作」を進めたからといって、放火の罪は消えるものではない。

もちろん、不拡大と反東条は本気でそうしたのだろう。たとえば、松本重治の「上海時代』(中公文庫)にも、戦争不拡大派のリーダとしての石原が描かれている。

1937(昭和12)年7月19日、陸軍大臣室に現れた作戦部長の石原は、大臣の杉山元や次官の梅津美治郎に向かって、出兵反対を力説し、

「このままでは全面戦争の危険が大である。その結果は、スペイン戦争におけるナポレオン同様、底無しの沼にはまることになるから、この際思いきって華北に在るわが軍隊全部を一挙山海関の満・中国境にまで退ける。そして近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と膝詰めで日中両国の根本問題を解決すベきである」

と切言した。それに対し、梅津は、
「実はそうしたいのであるが、 ……その点につき石原部長は総理に相談し、総理の自信を確かめたのか? 華北の邦人多年の権益、財産を放棄するというのか? 満洲国は、それで、安定し得るのか?」
と反問し、結局、石原の説得は実らなかったという。それには、やはり、杉山らに、石原が火をつけたのではないかという思いがあ ったことは否定できないだろう。(中断)
しかし、これは実現できず、石原は中央を追われて、関東軍参謀副長となる。それでもなお諦めないで、石原は部下の馬奈木敬信に、

「イギリスの調停は、あまり好かなかったが、それがだめとなったから、どうしてもドィツに調停を頼んで欲しい。君はドィツ通だから、オットー大使館付武官と相談して、何とかしてやって欲しい」
と願いを託した。

こうした石原の思想と行動を私は否定する者ではない。戦後すぐに発表された『われらの世界観』所収の「戦争放棄」論も私は強く支持する。石原はこう述べる。
「新憲法に於て日本は戦争を放棄することになったが、その意義は実に深甚微妙である。今日までは軍備を持たぬ独立国はなかったから、日本は独立国でなくなったというのが、従来の常識から生れる当然の結論である。日本は自衛権すらも放棄して、ただ世界の正義と良心に訴えると言う。国民の中には未善有の惨敗によって再び立ち上り得ないとするあきらめに陥っている者もあろうし、或るいは臥薪嘗胆で今にやっつけるんだと、ひそかに決意している者もあるかもしれない。しかしこれらは何れも人類史の偉大な現段階を知らぬ者である。
今日まではいかにも軍備のない独立国はなかったが、今や世界統一の前夜に入り、戦争の絶滅してしまう次ぎの新時代が来るのである。もはや中途半ぱな軍備は物の役にも立たないし、国際正義感もまた近時大躍進を見ている。我等は心から戦争放棄の偉大な意義を自覚し、身に寸鉄を帯びずしてただ正義に基づいて国を立て、むしろ全世界に対してその進むベき新しき道を示そうとする大覚悟と大抱負を持たなくてはならない」。
石原がこう主張していることに、それこそ「真意義」を見出さなければならないだろう。
「日本は蹂躙されてもかまわないから、われわれは絶対、戦争放棄に徹して生きていくベきです。ちようど聖日蓮が竜ノ口に向って行く態度、キリストが十字架を負って刑場に行くときのその態度を、われわれは国家としてとらなきゃならない」。
石原はこうも説いている。
ただ、石原については、あまりに「伝説」が多すぎるのである。とくに郷里では神格化されていて、石原批判を含む『一冊の本』の連載を読んだ人間が、「佐高の人格を疑う」とまで言っているという話を聞いた。しかし、偶像視することは石原を生かすことにはならないだろう。ここで私は、できるだけ石原についての「神話」を剥ごうとしてきた。
(中略)
1948年8月15日に亡くなる直前 石原がマツカーサ]ーに送った書簡を見ても、石原が占領軍に言うベきことを言ったようには見えない。
「拝啓 未だ拝眉の栄に浴し不申侯処、新日本建設のため閣下はじめ諸賢の御努力には日頃感銘罷在り候」と始まった
その書簡は 「閣下に対する友情幸いに御受納被下度候 敬具」と結ばれる。
一緒に送った「新日本の進路」には「日本は統制主義国家として独立せねばならつ」という章があり、「統制主義」は「全体主義」にあらずという注釈がついているのだが、しかし、石原のこの主張はやはり軍人時代の彼の思想と変わらないと言わなければならない。統制ではなくるーるの確立を、経済運営の基本でなければならいのであり、統制主義を全体主義と混同するなと石原がいくら言っても、統制は全体主義につながるのである。
この主張を見ると石原は東条とどれほど違っていたのだろうか、首を傾げざるを得ない。
保坂正康の「さまざまなる戦後』(文藝春秋)に、 東条英機と東条家の戦後が書かれている。それによると、長男の英隆は、勤めていた会社カら「東条の息子がいるとアメリカの印象が悪くなる」と辞職を迫られたし、のちに三菱自動車の社長になった次男の輝雄は、戦後すぐには「人の視線が耐えず身体に突き刺さるようで外出も辛い」ともらしていた。孫でさえ、タンニンを拒否されるようなことがあったのである。
石原には子どもがいなかったが、いたとしても、東条の子どものようなことにはならなかっただろう。
しかし、石原と東条にそれほどの差があったのか。いまなお消えぬ一方的な石原賛歌に対して、私は道教の人間としてあえて厳しい評価を書きつらねた。放火犯の消火作業を称えることはできないからである。<以上引用、296頁>

この本を私に勧めてくれた方は、現在満州時代のことを映像化しようと企画しておられる。私が書いた満州時代の思い出がその方の目にとまり、私も率直に満州国建国に関わった人の中で、石原完爾が最も好きだという主旨のことを述べた時に、ぜひこれを読めと勧めてくださったのである。その方のその目的は見事に達成されたと思う。私の「栄光の石原」は打ち砕かれました。

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