お早ようございます。主の平和。『キリストと時』第4章で行き詰まる。聖研のレジメを作る。聖歌の整理も順調に進んでいる。ジムで思いっきり筋肉トレ。夜は柳葉敏郎・剛力彩芽競演の「あすなろ337拍子」を見て10時半就寝、5時起床。体調・快調、チュン、チュン。
堀 俊明さん、細谷 民子さん、Su Suさん、他26人が「いいね!」と言っています。
村田 多鶴子 おはようございます。
守られて、心身ともに健やかで穏やかなよい時間をお過ごしくださいませm(__)m
安田 正人 クルマンですか?
文屋 善明 はい、クルマンの『キリストと時』第4章「神の時間支配」で一寸立ち止まっています。
門叶 国泰 飛ばし、飛ばして来ましたが、第四部で完全に行き詰まりました。私にはやはり無理かな。
文屋 善明 第4章の冒頭の文章はこうなっている。
<永遠の時の連続が過去と未来の両方向に広がって行くことは上に述べた如くである。しかし、この永遠の時の把握し難い性質が新約聖書の中に全く取上げられていないと結諭することは極めて重大な誤謬である。永遠は、その無限である点に関してのみ時と異なるものとして考えられ、従って永遠というものが無限の時の線として理解されていることを上に強調したが、それは次のような意味をもたせようとしたのではない。即ち、無限の時であるところのこの永遠が、神の属性としてのみ可能であり、人間からは肯定されこそすれ、理解されえないものであるということに対して、原始キリスト教は無感覚であると主張するのではない。>54頁
この文章において繰り返される否定語、あるいは否定的表現はなんとかならないものだろうか。要するに著者が言いたいことは3章で述べた「永遠の時間性とは過去と未来に無限に広がっている線なのだ」ということで、それは新約聖書にも取り上げられていることであるということ。そしてこの意味での永遠性とは神の属性であり、それは人間の理解を超えているということを原始キリスト教会は十分に理解していたということであろう。こういう文章がドーンと冒頭に出てくるともうそれ以後を読む気もしなくなる。
萩野 秀子 おはようございます。整形外科、歯科クリニックに行きます、良き日となりますように。お祈りします。
安田 正人 典型的な難解翻訳のようにみえますね。読んでいてほぐれた糸が、またこんがらがってほどけなくなってしまった感覚。
文屋 善明 これが大御所の翻訳ですから、誰も文句が言えないのでしょうね。
清水 行雄 時々先生が、議論好きなのか議論嫌いなのか分からなくなります(笑)僕に言わしてもらうなら、そもそも永遠なるものを、線分という視覚的空間的に捉えようとするところに、無理があります(^_^)
文屋 善明 この場合の「線」とは視覚的・空間的ではなく時間の流れです。クルマンの論点が中々理解されないのはまさにその点なのです。そしてそれはウルマンの主張ではなく聖書の時間観念(歴史観)だというのです。じゃぁ、逆にプラトンのイデアの思想が「空間的」だという場合の、空間とは何か。それをアリストテレスが形而上学という場合のメタ・フィジクスのメタは空間なのか時間なのか?私は議論好きでもなく議論嫌いでもなく、ただいろいろな人との対話において「真理」に到達したいだけです。ははは、まるでソクラテスみたい。
清水 行雄 哲学、神学の門外漢の僕が言うのもおかしいですが、キリストを抜きにして、時を論ずるのであれば、ハイデッカーやベルクソンの時間論を参照する方が、有益と思います。ただ、現代物理学では、空間と時間を区別せず、4次元時空として捉えていると、仄聞していますが、真偽のほどは、一般読者の僕の知るところではありません(^_^)
播 稔 たしか、東京のT長老も同じことを言っていた記憶が!
Satoshi Mizota 常に「客観的」な議論で問題となるのは、時間の流れそのものではなく、なぜ時間の流れを感覚するか、あるいは時間の流れがいかに観測されるか、ということですね。
posted at 05:18:48
文屋 善明
今日の名言:RT @wisesaw: 世間一般の考えに従って生活することはごく易しい。 また、自分の事だけ考えて孤独の生活を送る事もごく易しい。 だが悟りを開いた人間とは、群集の真っ只中にありながらも、 自立の醍醐味を心ゆくまで味わうことのできる人間である。 (ラルフ・ワルド・エマーソン)
<一言>そうなんですか。私は世間一般の考えに従って生活しているので、その醍醐味とやらが分かりません。
Su Suさん、西川 芳昭さん、Satoshi Mizotaさん、他18人が「いいね!」と言っています。
清水 行雄 先生、おはようございます。本当ですか?(笑)
文屋 善明 その種の「悟りを開いた人」なんて、いるのでしょうかね。まぁ、いるとしたら「変人」ですね。
清水 行雄 別に悟りを開かなくても、変人はいるんじゃないですか(笑)
文屋 善明 「変人」には多様性があります。だから「変人」なんです。だから先程の私のコメントも正確に言うと「一種の変人」とすべきだったのでしょうね。私は「凡人」になりたいという種類の「変人」なのかもしれません。ははは
播 稔 この言葉は群衆の中に居る孤独者ではない。悟りの概念からから必要になっては面倒なので。これは自分というものを知った偉人とおもうのですが。だからと言ってそれを他人には言わない。
Satoshi Mizota 変人は多いですが、奇人は少ないでしょう。
文屋 善明 難しい仕分けですね。
Satoshi Mizota あんたは奇人だね、といわれてもピンと来ませんが、あんたは変人だね、といわれるとたいていの人は腹が立つようです。
播 稔 どちらも「天才」といわれる人に多いと思いますが。
文屋 善明 奇人には必ず奇行が伴いますが、変人はただ普通じゃないというだけです。もっとも、奇人にとっては奇行も普通だと思っているので、私も奇人かもしれません。
清水 行雄 先生、おはようございます。先生が奇人変人のたぐいかは、不明にしてわかりませんが、小理屈が嫌いというのは、何となく分かってきました。僕とはまるで違います(笑)
清水 行雄 ちなみに、負けず嫌いは、小理屈を鍛えるみたいです(^_^)
文屋 善明 これにはノーコメント
清水 行雄 どうもまた調子にのって失言したようですね。申し訳ありませんm(_ _)m
文屋 善明 WWW
Satoshi Mizota > 先生が奇人変人のたぐいかは、不明にしてわかりません
むしろ「分かる」というより、今までの情報からあいつは変人だ、奇人だ、と判断するんですよ。
清水 行雄 溝田さん、この点だけは、僕はキリスト者で、マタイ福音書第7章の冒頭を遵守しているつもりです(^_^)
Satoshi Mizota 私なら、自分が凡人だといわれるより、奇人か変人でありたいと思いますね。
文屋 善明 あなたの頭のなかでは「凡人」という言葉に「Das Mann」を思い浮かべているのではないでしょうなかね。私の場合は雑誌「平凡」の読者のような人という意味です。英語雑誌では「Play boy」。
清水 行雄 僕は、奇人変人がいいとは、ちっとも思いません。
Satoshi Mizota 凡人でも大いなる凡人でありたいですね。(嫌うものほど自分に似ていると思うわけなので。)
清水 行雄 それは溝田さんには向上心があるから。^_^
清水 行雄 凡人は凡人。奇人変人は奇人変人。それ以上でも、それ以下でもないと、僕は思います。
Satoshi Mizota 凡人という自覚と、奇人という観察とは、食い違うもんですよ。
文屋 善明 「奇人という観察」の意味が理解できません。
清水 行雄 そりゃあ違うでしょう。だから人の判断は難しいんです。
Satoshi Mizota Aという人物は自分を「凡人」だと考えているが、Aの周囲の人たちはAを「奇人」と呼ぶ、ということです。私は、人の判断が難しいというより、自分の自覚のほうがおかしいのかもしれないと思っています。
清水 行雄 なるほどね、そのとおりです。その辺の認識の迷路には、僕は関わらないよう心掛けています。(^_^)
清水 行雄 だから人には奇妙な言い方をする奴だと思われるのかもしれませんね(^_^)
Satoshi Mizota やっぱり人は、よいわるいは別にして、多かれ少なかれ、どこか他の人から見て、「おかしい」ところを持っているんです。
清水 行雄 やはり溝田さんの論理は健全ですね。なかなかそうした透徹な思考ができない僕は、実際問題困ることが多い(笑)僕自身は、こういう論戦よりも、馬鹿馬鹿しいナンセンスが好きなんです(^_^)
清水 行雄 ただ論理のやりとりが何かを産みだすとは思いません。それは論理的トレーニングを積んだ人同士で行えばいいことで。
Satoshi Mizota 論理のやり取りが何かを生み出すことはないですよ。それ自体が生み出されたものであり、「言語ゲーム」の目的ですからね。
Satoshi Mizota ばかばかしいナンセンスにも、それなりの論理が隠されています。いや隠されていなければ、それが「ナンセンス」だとは誰も気が付かないでしょう。
清水 行雄 溝田さん、こんにちは。僕は論理の説明を破綻させるおかしさあるいは諧謔が、ナンセンスだと思っているので、「ナンセンスの論理」なるものがあるなら、ぜひ教えていただきたい(笑)
Satoshi Mizota >破綻
その通りです。「破綻」が理解される土壌として「論理」が共有されていることです。
清水 行雄 その論理の共有をいわば脱臼するわけですから、不謹慎ではあります^_^
Satoshi Mizota 逸脱するから不謹慎なのです。意図的に逸脱しているわけですから。
清水 行雄 意図的とはちょっと違います。あまりに真面目になりすぎた話を、ちょっと仕切り直したいという本能ですかね。
posted at 06:15:14
「昨日のツイート 07/20」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/a5bd6e7828ca5bf97d0397b4e924bec…
posted at 06:32:24
文屋 善明
NHKこころ旅。豊富駅にいます。今日の心の風景は「シャタケ山」、スキーで降りてくる遠足の思い出。和寒駅で乗り換え。冷やし中華といなり。さらに宗谷鉄道、比布駅まで輪行。当麻町に入る。小学校、桜丘駅からシャタケ山見えるとのこと。
北村 良輔さん、杉浦 紀明さん、金丸 勝彦さん、他6人が「いいね!」と言っています。
安田 正人 おはようございます。
″元気100倍″ ″笑顔100倍″楽しい1日を過ごしていきましょう!!
(樋渡 浩さんからいただきました)
posted at 07:59:38
「昨日のツイート 07/21」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/e37f59cb99aa208e39385a6c1309fec…
posted at 16:27:45
@takako319 バディーってどこの?
posted at 21:13:04
文屋 善明
お目覚めの花。「太陽をまともに見たら目が潰れると言う人がいますが、あなたを見たら目が冴えてきます」「はい、わたしはいつも太陽の方を向いていますので、わたし自身太陽になった気分です」。
文屋 善明さんの写真
Su Suさん、安田 正人さん、北村 良輔さん、他35人が「いいね!」と言っています。
播 稔 沢山のひまわりをみると、有名な女優が出演した、悲しい映画をおもいだします。題名もたしか「ひまわり」。
文屋 善明
2014日々の聖句 07月23日(水)
あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。(詩90:8)
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。(1ヨハネ1:8~9)
私の黙想:
詩90は「モーセの作とされる唯一の詩」である。天地創造以前から「永遠から永遠に」神は神であるという。この神の永遠性に比較すると人間の人生など一瞬だという。面白いのは神の時間(永遠)と人間の時間とを比較できるものと考えていることであろう。それは同時に神の絶対性の前での人生の儚さでもある。その神は人間に対して「怒る神」だと言う。神側からの人間への接近は罪だという。神は私たちの罪を告発し、私たちの秘密を暴露するものとして己を表す。これが今日の聖句だ。
そこで詩人は開き直る。私たちの人生は神の前では一瞬にすぎない。その通りだ。その私たち人間に神の怒り凄まじさや恐ろしさはあまりにも大きすぎて、知ること、悟ることができません。これは神への強烈な反撃である。私に残されている時間がどれだけあるか知りませんが、先ず私たちにあなたの怒りの原因を教えて下さい。そうすれば、その逆にあなたの優しさも理解できるでしょう。
堀 俊明さん、石井 昭さん、石田 聖実さん、他25人が「いいね!」と言っています。
門叶 国泰 「健やかな人が八十年を数えても」、他人事と思っていましたが、
文屋 善明 昨日、一日中考えていたクルマンの『キリストと時』の一節が今日のローズンゲンでした。
<「アイオンーン(複数)のアイオーン(複数)」を考え、更に或いは、見わたすことが人間にとって不可能であるという感覚は、疑無く存在している。それにも拘らず、その事が特に強調されて明らかとなるその所においても、永遠はその――無限ではあり、従って神にのみ可能であるけれども――時間的に測りうる性質において、考えられている。「主にありて、一日は千年のごと〈、千年は一日のごとし」。
後半部が詩編90:4から出ているこの言葉をあげて、べテロ後書の著者は(3:8)、忍耐のない嘲笑者達をいましめている。それもまた、神の無時間性を圭張するようなことではなく、ただ神だけが把えうる、神の時の無限性が主張されるのであり、この無限性は、神にとっては時間的な規準が別のものであるという形でしか表現されえないのである。それは、その無限性をもった線がただ神自身のものであり、従って彼だけが、この無限の線を考え、みわたし、支配することが出来るからである。永遠は彼にのみ属するものである。>54頁
面白いものですね。これを「偶然」というべきか、「神による時間配分」の結果というべきか。
播 稔 人間の、一瞬は長いものなのだなー。「一瞬のヒラメキ」「時を置かず」「光いん矢のごとし」。時を表すことばは多いのだが。
文屋 善明
頂きもののビールの箱を開けると、こんなコップが出てきました。人間っていろいろなことを考えるものなのですね。さぁ、今晩にどのコップで飲もうかな。
文屋 善明さんの写真
町田 勝彦さん、小川 圭一さん、石田 聖実さん、他38人が「いいね!」と言っています。
村田 多鶴子 のどを潤す前のグラス選びという楽しみが増えましたね~(^_-)-☆
藤井 衞 遊び心も働いているのでしょうか?
文屋 善明 日本語で「奇を衒う」という言葉がありますが、この言葉はマイナスイメージですが、ここではそれを逆手に取って、魅力的な商品を作り出したのでしょうね。
播 稔 私は卒業後の5年間、朝日麦酒に経理で勤務していましたが、研修のブラインドテストのメーカー当てで10回ともはずしたことはなかった。それからいうと、やはり中央で飲むビールが本当の味。(泡立ちの関係で)
文屋 善明さんがリンクをシェアしました。
大相撲と宗教
日本の大相撲は一応「神事」とされる。日本人はあまりそのことを気にしていないが、当然、さまざまな相撲行事が神道と深く関係している。しかし、最近のようにいろいろな人種の人々が相撲界に入ってくるようになると当然彼等の宗教と相撲を支えている宗教との葛藤が予想される。中にはキリスト教徒もいるだろうし、その他いろいろな宗教の力士が生まれても不思議ではない。その意味で、今日の朝日新聞の夕刊で、エジプト出身の大砂嵐の記事が取り上げられていて興味深かった。彼はイスラム教徒である。イスラム教徒には厳しいラマダンという「断食の戒律」がある。彼が入門した最初の年(2年前)は場所の最後の2日間だけが名古屋場所と重なったが、それは何とかパスできた。昨年は4日目からの12日間が重なった。かなり厳しかったにちがいない。力士にとって稽古の半分は食うこと、体作りである。とにかく食わなければ体できない。
今年の名古屋場所では番付もかなり上がり横綱とも対戦するようになった。今年の名古屋場所ではラマダンは番付発表前日の6月29日に始まり千秋楽の27日までで、そっくり重なる。期間中は夜明けから日没まで飲食ができない。つまり、力士にとって最も重要な朝稽古から本番までがそっくり断食時間と重なる。
にも関わらず今場所の大砂嵐の活躍はすさまじいものがある。もう既に2横綱を破るなど台風の目となっている。大砂嵐は土俵の上での戦いと同時に土俵の外では断食との戦いがある。
今場所5日目(7月17日)、横綱鶴竜を破った時、「腹減った。頭がふらふらする」と言ったという。彼にとって初金星の喜びよりも空腹のつらさだったものと思われる。大砂嵐は取組後、宿舎に戻る車中で日没を迎えると、すぐにコンビニに飛び込み飲料を買って一気飲み。宿舎では自らカモ肉のフライやエジプト料理で定番のモロヘイヤスープを作り、普段より多めに食べるらしい。そうだろうと思う。夜明け前に前夜の料理を温め直して腹を満たす。昨年はラマダン中に体重が7キロも減ったため、今年はご飯にバターを混ぜるなど、カロリーが減らないように心がけているとのこと。
空腹との戦いはすさまじい。何故、彼はそれほどまでしてイスラム教の戒律にこだわるのだろうか。おそらく、それは日本人にとっては永遠の謎であろう。しかし、これがホンモノの宗教の姿であろう。
どこかでキリスト教徒はこの厳しさを忘れてしまったのではないだろうか。
http://digital.asahi.com/articles/ASG7P5G1JG7PUTQP01K.html?iref=comtop_list_spo_n04
大砂嵐、断食月とがっぷり四つ 名古屋で試練の15日間:朝日新聞デジタル
digital.asahi.com
大相撲名古屋場所で、2横綱を破るなど台風の目となっているエジプト出身の大砂嵐(22)=本名アブデルラフマン・シ...
大脇 友弘さん、Yutaka Tanabeさん、藤井 衞さん、他53人が「いいね!」と言っています。
畠山 秀明 他宗教に対して排他的な仏教系の宗教があります。
親方や力士にもその宗教の信徒がいますが、神事である大相撲をどう捉えているのか興味があります。
文屋 善明 大砂嵐だって、部屋ごとの行事としての神社参拝や寺への祈願には参加していると思いますよ。また、稽古部屋には神棚もあると思いますよ。それらについては特に対立するものとは思われていないようですね。
畠山 秀明 排他的な仏教系の新興宗教ですが、その信者の親方も力士も割り切っているんでしょうね。
播 稔 モーセ五書を共通に持つ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。9.11が起こった時、キリスト教の日本の大御所の女性信徒が、はたして一神教で良いのかという問いを発したことがありましたが。
Satoshi Mizota そもそも一神教って何ですか?
小栗 龍男 ラマダンは太陽が出てから沈むまでは、水。食時が出来ません。厳しくを守りたい人は唾ものまないとか・・。多く多く人は寝で居ます、外出にも必要限度です。しかし、日常の仕事をする人も多く居ます。日が沈むと一斉に食事が始めます。一部、子供 病人 旅人 寄留者(イスラム圏に住んでいました。)は自主的ですから食べる人も居ますが、周りからの人目も在り守っています。彼 大砂嵐は偉い 凄いと思いますよ。
Satoshi Tanaka やはり、力の基は『なにくそ魂』でしょうか?
文屋 善明 私はその『なにくそ魂』こそ、宗教的なものだと思っています。そこまで自覚的かどうかはわかりませんが、彼にとってはアラーの神と異教の神との戦いだと思っているのではないかと思います。
Satoshi Tanaka わたしたちの信仰においても、何らかの形の『なにくそ魂』が重要なのではないかという気がするのです。
文屋 善明 私の秘密ですが、信仰とは意地だと思っています。
Satoshi Tanaka 全く同感します。どこまで意地を突っ張っていけるか。主の助けによって、結構、突っ張れるような気がします。
播 稔 MIZOTA兄、わたしは難しく言いたくはないのです。一神教に対するのは、多神教でしょう。 わたしの他に神があってはならない。神は一つであり一神教です。
播 稔 一神教、多神教の考え方は、いま議論がはじまっているということもあり、これ以上は専門的になってきます。
Satoshi Mizota 俗に言う「一神教徒」たちが「神はひとりしか存在しない」という自己理解をし始めたのはいつごろからだろうと思うんですけれど。「私がついていく方はあの方しかいない」という理解は古くからあったでしょうけども。
Satoshi Mizota >意地
うーん。信仰は嘘だ、とまでも言えてしまうところがこのての議論の仕方の弱点ですね。「信仰」という「述語」がよくなくて、特別すぎます。「だれかを信用していますか、家族なども含めて」と聞いて、信用していると応えるなら、無意識のうちに神を信じています。「私は誰も信じない、友達もいない、自分自身も信じない」となれば、神を信じていないでしょう。なぜなら神は愛だから。
文屋 善明 私が「意地」というのは、一度「信じた」と言ってしまったので、それを最後までこだわり貫くという意味での意地です。その途中で「疑うこと」があっても「疑う自分」を否定する。それが嘘だと言われても、そうなんだからしょうがないでしょう。
Satoshi Tanaka 『こだわる』と言う言葉が言い当てているようですね。意地と言う言葉を、『こだわりを持ちつづけようとする主体的な意思』ととらえれば、『信仰は意地である』も理解できるように思えます。
文屋 善明 ありがとう。その通りです。
中島 正二 · 共通の友達: Satoshi Mizotaさん
戒律を守るのは神との約束ということでしょう。一神教徒にとっては、死後の永遠がかかっていますから、意地というよりは切実な問題なのでしょうね。
角本 尚彦 わたしの秘密ですが、信仰とはつっぱりロックンロールと思ってます。
Satoshi Mizota この現世に「こだわる」自分を壊していく力を信頼するのが、信仰かもしれません。
Satoshi Tanaka "こだわり"と信仰でいろいろな思いが現れて面白いですね。
Satoshi Mizota 多分私は「しつこい」部類に入るのでしょうね。
文屋 善明さんがKivaさんの写真をシェアしました。
これはグローバリズムではない。ジョン・ウエスレーの「私のパリッシュ(牧会範囲)は世界である」という言葉に通じる。
"My country is the world, and my religion is to do good." - Thomas Paine
https://www.facebook.com/kiva/photos/a.70226438402.73898.6428288402/10152286117248403/?type=1&theater
大野 泰男さん、藤井 衞さん、磯野 爽さん、他20人が「いいね!」と言っています。
文屋 善明
写真: もうまもなく9時になります。私の一日の総仕上げ、ナイト・キャップのお時間です。私のナイトキャップは小さなサイコロ状のチーズが3個、薄い小さなビターチョコが2枚、これをお供に、ウイスキーの水割り1杯、これが定量で、時にはチーズを2個とチョコレート1枚になる時もあります。これらを1時間かけて、チビリチビリやりながらテレビを見ます。そして、その後は爆睡。これが続く限り、私は元気です。
木下 海龍さん、小池 俊樹さん、町田 勝彦さん、他51人が「いいね!」と言っています。
村田 多鶴子 どうぞ、質の良い睡眠を!!m(__)m
Hanna Bunya お酒、お好きですね♪
細谷 民子 おしやれな内訳、興味津々。食後に、飲まれるとこが、また、おしゃれですね。健康的なお酒ですね。
文屋 善明 晩酌は晩酌です。晩酌では夏でも冬でも焼酎のお湯割りを一杯。これは寝る間のナイトキャップです。
堀 俊子 おしゃれですね~般若心経のゴスペルを聞いてほしいです。般若心経そのものは、まあ楽しいですね~
細谷 民子 そう言う事ですか、わかりました。このお写真を撮ろうと思われた時の、先生の、平穏なお気持ちが、伝わりました。難しい本から離れて....
堀 俊明さん、細谷 民子さん、Su Suさん、他26人が「いいね!」と言っています。
村田 多鶴子 おはようございます。
守られて、心身ともに健やかで穏やかなよい時間をお過ごしくださいませm(__)m
安田 正人 クルマンですか?
文屋 善明 はい、クルマンの『キリストと時』第4章「神の時間支配」で一寸立ち止まっています。
門叶 国泰 飛ばし、飛ばして来ましたが、第四部で完全に行き詰まりました。私にはやはり無理かな。
文屋 善明 第4章の冒頭の文章はこうなっている。
<永遠の時の連続が過去と未来の両方向に広がって行くことは上に述べた如くである。しかし、この永遠の時の把握し難い性質が新約聖書の中に全く取上げられていないと結諭することは極めて重大な誤謬である。永遠は、その無限である点に関してのみ時と異なるものとして考えられ、従って永遠というものが無限の時の線として理解されていることを上に強調したが、それは次のような意味をもたせようとしたのではない。即ち、無限の時であるところのこの永遠が、神の属性としてのみ可能であり、人間からは肯定されこそすれ、理解されえないものであるということに対して、原始キリスト教は無感覚であると主張するのではない。>54頁
この文章において繰り返される否定語、あるいは否定的表現はなんとかならないものだろうか。要するに著者が言いたいことは3章で述べた「永遠の時間性とは過去と未来に無限に広がっている線なのだ」ということで、それは新約聖書にも取り上げられていることであるということ。そしてこの意味での永遠性とは神の属性であり、それは人間の理解を超えているということを原始キリスト教会は十分に理解していたということであろう。こういう文章がドーンと冒頭に出てくるともうそれ以後を読む気もしなくなる。
萩野 秀子 おはようございます。整形外科、歯科クリニックに行きます、良き日となりますように。お祈りします。
安田 正人 典型的な難解翻訳のようにみえますね。読んでいてほぐれた糸が、またこんがらがってほどけなくなってしまった感覚。
文屋 善明 これが大御所の翻訳ですから、誰も文句が言えないのでしょうね。
清水 行雄 時々先生が、議論好きなのか議論嫌いなのか分からなくなります(笑)僕に言わしてもらうなら、そもそも永遠なるものを、線分という視覚的空間的に捉えようとするところに、無理があります(^_^)
文屋 善明 この場合の「線」とは視覚的・空間的ではなく時間の流れです。クルマンの論点が中々理解されないのはまさにその点なのです。そしてそれはウルマンの主張ではなく聖書の時間観念(歴史観)だというのです。じゃぁ、逆にプラトンのイデアの思想が「空間的」だという場合の、空間とは何か。それをアリストテレスが形而上学という場合のメタ・フィジクスのメタは空間なのか時間なのか?私は議論好きでもなく議論嫌いでもなく、ただいろいろな人との対話において「真理」に到達したいだけです。ははは、まるでソクラテスみたい。
清水 行雄 哲学、神学の門外漢の僕が言うのもおかしいですが、キリストを抜きにして、時を論ずるのであれば、ハイデッカーやベルクソンの時間論を参照する方が、有益と思います。ただ、現代物理学では、空間と時間を区別せず、4次元時空として捉えていると、仄聞していますが、真偽のほどは、一般読者の僕の知るところではありません(^_^)
播 稔 たしか、東京のT長老も同じことを言っていた記憶が!
Satoshi Mizota 常に「客観的」な議論で問題となるのは、時間の流れそのものではなく、なぜ時間の流れを感覚するか、あるいは時間の流れがいかに観測されるか、ということですね。
posted at 05:18:48
文屋 善明
今日の名言:RT @wisesaw: 世間一般の考えに従って生活することはごく易しい。 また、自分の事だけ考えて孤独の生活を送る事もごく易しい。 だが悟りを開いた人間とは、群集の真っ只中にありながらも、 自立の醍醐味を心ゆくまで味わうことのできる人間である。 (ラルフ・ワルド・エマーソン)
<一言>そうなんですか。私は世間一般の考えに従って生活しているので、その醍醐味とやらが分かりません。
Su Suさん、西川 芳昭さん、Satoshi Mizotaさん、他18人が「いいね!」と言っています。
清水 行雄 先生、おはようございます。本当ですか?(笑)
文屋 善明 その種の「悟りを開いた人」なんて、いるのでしょうかね。まぁ、いるとしたら「変人」ですね。
清水 行雄 別に悟りを開かなくても、変人はいるんじゃないですか(笑)
文屋 善明 「変人」には多様性があります。だから「変人」なんです。だから先程の私のコメントも正確に言うと「一種の変人」とすべきだったのでしょうね。私は「凡人」になりたいという種類の「変人」なのかもしれません。ははは
播 稔 この言葉は群衆の中に居る孤独者ではない。悟りの概念からから必要になっては面倒なので。これは自分というものを知った偉人とおもうのですが。だからと言ってそれを他人には言わない。
Satoshi Mizota 変人は多いですが、奇人は少ないでしょう。
文屋 善明 難しい仕分けですね。
Satoshi Mizota あんたは奇人だね、といわれてもピンと来ませんが、あんたは変人だね、といわれるとたいていの人は腹が立つようです。
播 稔 どちらも「天才」といわれる人に多いと思いますが。
文屋 善明 奇人には必ず奇行が伴いますが、変人はただ普通じゃないというだけです。もっとも、奇人にとっては奇行も普通だと思っているので、私も奇人かもしれません。
清水 行雄 先生、おはようございます。先生が奇人変人のたぐいかは、不明にしてわかりませんが、小理屈が嫌いというのは、何となく分かってきました。僕とはまるで違います(笑)
清水 行雄 ちなみに、負けず嫌いは、小理屈を鍛えるみたいです(^_^)
文屋 善明 これにはノーコメント
清水 行雄 どうもまた調子にのって失言したようですね。申し訳ありませんm(_ _)m
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Satoshi Mizota > 先生が奇人変人のたぐいかは、不明にしてわかりません
むしろ「分かる」というより、今までの情報からあいつは変人だ、奇人だ、と判断するんですよ。
清水 行雄 溝田さん、この点だけは、僕はキリスト者で、マタイ福音書第7章の冒頭を遵守しているつもりです(^_^)
Satoshi Mizota 私なら、自分が凡人だといわれるより、奇人か変人でありたいと思いますね。
文屋 善明 あなたの頭のなかでは「凡人」という言葉に「Das Mann」を思い浮かべているのではないでしょうなかね。私の場合は雑誌「平凡」の読者のような人という意味です。英語雑誌では「Play boy」。
清水 行雄 僕は、奇人変人がいいとは、ちっとも思いません。
Satoshi Mizota 凡人でも大いなる凡人でありたいですね。(嫌うものほど自分に似ていると思うわけなので。)
清水 行雄 それは溝田さんには向上心があるから。^_^
清水 行雄 凡人は凡人。奇人変人は奇人変人。それ以上でも、それ以下でもないと、僕は思います。
Satoshi Mizota 凡人という自覚と、奇人という観察とは、食い違うもんですよ。
文屋 善明 「奇人という観察」の意味が理解できません。
清水 行雄 そりゃあ違うでしょう。だから人の判断は難しいんです。
Satoshi Mizota Aという人物は自分を「凡人」だと考えているが、Aの周囲の人たちはAを「奇人」と呼ぶ、ということです。私は、人の判断が難しいというより、自分の自覚のほうがおかしいのかもしれないと思っています。
清水 行雄 なるほどね、そのとおりです。その辺の認識の迷路には、僕は関わらないよう心掛けています。(^_^)
清水 行雄 だから人には奇妙な言い方をする奴だと思われるのかもしれませんね(^_^)
Satoshi Mizota やっぱり人は、よいわるいは別にして、多かれ少なかれ、どこか他の人から見て、「おかしい」ところを持っているんです。
清水 行雄 やはり溝田さんの論理は健全ですね。なかなかそうした透徹な思考ができない僕は、実際問題困ることが多い(笑)僕自身は、こういう論戦よりも、馬鹿馬鹿しいナンセンスが好きなんです(^_^)
清水 行雄 ただ論理のやりとりが何かを産みだすとは思いません。それは論理的トレーニングを積んだ人同士で行えばいいことで。
Satoshi Mizota 論理のやり取りが何かを生み出すことはないですよ。それ自体が生み出されたものであり、「言語ゲーム」の目的ですからね。
Satoshi Mizota ばかばかしいナンセンスにも、それなりの論理が隠されています。いや隠されていなければ、それが「ナンセンス」だとは誰も気が付かないでしょう。
清水 行雄 溝田さん、こんにちは。僕は論理の説明を破綻させるおかしさあるいは諧謔が、ナンセンスだと思っているので、「ナンセンスの論理」なるものがあるなら、ぜひ教えていただきたい(笑)
Satoshi Mizota >破綻
その通りです。「破綻」が理解される土壌として「論理」が共有されていることです。
清水 行雄 その論理の共有をいわば脱臼するわけですから、不謹慎ではあります^_^
Satoshi Mizota 逸脱するから不謹慎なのです。意図的に逸脱しているわけですから。
清水 行雄 意図的とはちょっと違います。あまりに真面目になりすぎた話を、ちょっと仕切り直したいという本能ですかね。
posted at 06:15:14
「昨日のツイート 07/20」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/a5bd6e7828ca5bf97d0397b4e924bec…
posted at 06:32:24
文屋 善明
NHKこころ旅。豊富駅にいます。今日の心の風景は「シャタケ山」、スキーで降りてくる遠足の思い出。和寒駅で乗り換え。冷やし中華といなり。さらに宗谷鉄道、比布駅まで輪行。当麻町に入る。小学校、桜丘駅からシャタケ山見えるとのこと。
北村 良輔さん、杉浦 紀明さん、金丸 勝彦さん、他6人が「いいね!」と言っています。
安田 正人 おはようございます。
″元気100倍″ ″笑顔100倍″楽しい1日を過ごしていきましょう!!
(樋渡 浩さんからいただきました)
posted at 07:59:38
「昨日のツイート 07/21」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/e37f59cb99aa208e39385a6c1309fec…
posted at 16:27:45
@takako319 バディーってどこの?
posted at 21:13:04
文屋 善明
お目覚めの花。「太陽をまともに見たら目が潰れると言う人がいますが、あなたを見たら目が冴えてきます」「はい、わたしはいつも太陽の方を向いていますので、わたし自身太陽になった気分です」。
文屋 善明さんの写真
Su Suさん、安田 正人さん、北村 良輔さん、他35人が「いいね!」と言っています。
播 稔 沢山のひまわりをみると、有名な女優が出演した、悲しい映画をおもいだします。題名もたしか「ひまわり」。
文屋 善明
2014日々の聖句 07月23日(水)
あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。(詩90:8)
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。(1ヨハネ1:8~9)
私の黙想:
詩90は「モーセの作とされる唯一の詩」である。天地創造以前から「永遠から永遠に」神は神であるという。この神の永遠性に比較すると人間の人生など一瞬だという。面白いのは神の時間(永遠)と人間の時間とを比較できるものと考えていることであろう。それは同時に神の絶対性の前での人生の儚さでもある。その神は人間に対して「怒る神」だと言う。神側からの人間への接近は罪だという。神は私たちの罪を告発し、私たちの秘密を暴露するものとして己を表す。これが今日の聖句だ。
そこで詩人は開き直る。私たちの人生は神の前では一瞬にすぎない。その通りだ。その私たち人間に神の怒り凄まじさや恐ろしさはあまりにも大きすぎて、知ること、悟ることができません。これは神への強烈な反撃である。私に残されている時間がどれだけあるか知りませんが、先ず私たちにあなたの怒りの原因を教えて下さい。そうすれば、その逆にあなたの優しさも理解できるでしょう。
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門叶 国泰 「健やかな人が八十年を数えても」、他人事と思っていましたが、
文屋 善明 昨日、一日中考えていたクルマンの『キリストと時』の一節が今日のローズンゲンでした。
<「アイオンーン(複数)のアイオーン(複数)」を考え、更に或いは、見わたすことが人間にとって不可能であるという感覚は、疑無く存在している。それにも拘らず、その事が特に強調されて明らかとなるその所においても、永遠はその――無限ではあり、従って神にのみ可能であるけれども――時間的に測りうる性質において、考えられている。「主にありて、一日は千年のごと〈、千年は一日のごとし」。
後半部が詩編90:4から出ているこの言葉をあげて、べテロ後書の著者は(3:8)、忍耐のない嘲笑者達をいましめている。それもまた、神の無時間性を圭張するようなことではなく、ただ神だけが把えうる、神の時の無限性が主張されるのであり、この無限性は、神にとっては時間的な規準が別のものであるという形でしか表現されえないのである。それは、その無限性をもった線がただ神自身のものであり、従って彼だけが、この無限の線を考え、みわたし、支配することが出来るからである。永遠は彼にのみ属するものである。>54頁
面白いものですね。これを「偶然」というべきか、「神による時間配分」の結果というべきか。
播 稔 人間の、一瞬は長いものなのだなー。「一瞬のヒラメキ」「時を置かず」「光いん矢のごとし」。時を表すことばは多いのだが。
文屋 善明
頂きもののビールの箱を開けると、こんなコップが出てきました。人間っていろいろなことを考えるものなのですね。さぁ、今晩にどのコップで飲もうかな。
文屋 善明さんの写真
町田 勝彦さん、小川 圭一さん、石田 聖実さん、他38人が「いいね!」と言っています。
村田 多鶴子 のどを潤す前のグラス選びという楽しみが増えましたね~(^_-)-☆
藤井 衞 遊び心も働いているのでしょうか?
文屋 善明 日本語で「奇を衒う」という言葉がありますが、この言葉はマイナスイメージですが、ここではそれを逆手に取って、魅力的な商品を作り出したのでしょうね。
播 稔 私は卒業後の5年間、朝日麦酒に経理で勤務していましたが、研修のブラインドテストのメーカー当てで10回ともはずしたことはなかった。それからいうと、やはり中央で飲むビールが本当の味。(泡立ちの関係で)
文屋 善明さんがリンクをシェアしました。
大相撲と宗教
日本の大相撲は一応「神事」とされる。日本人はあまりそのことを気にしていないが、当然、さまざまな相撲行事が神道と深く関係している。しかし、最近のようにいろいろな人種の人々が相撲界に入ってくるようになると当然彼等の宗教と相撲を支えている宗教との葛藤が予想される。中にはキリスト教徒もいるだろうし、その他いろいろな宗教の力士が生まれても不思議ではない。その意味で、今日の朝日新聞の夕刊で、エジプト出身の大砂嵐の記事が取り上げられていて興味深かった。彼はイスラム教徒である。イスラム教徒には厳しいラマダンという「断食の戒律」がある。彼が入門した最初の年(2年前)は場所の最後の2日間だけが名古屋場所と重なったが、それは何とかパスできた。昨年は4日目からの12日間が重なった。かなり厳しかったにちがいない。力士にとって稽古の半分は食うこと、体作りである。とにかく食わなければ体できない。
今年の名古屋場所では番付もかなり上がり横綱とも対戦するようになった。今年の名古屋場所ではラマダンは番付発表前日の6月29日に始まり千秋楽の27日までで、そっくり重なる。期間中は夜明けから日没まで飲食ができない。つまり、力士にとって最も重要な朝稽古から本番までがそっくり断食時間と重なる。
にも関わらず今場所の大砂嵐の活躍はすさまじいものがある。もう既に2横綱を破るなど台風の目となっている。大砂嵐は土俵の上での戦いと同時に土俵の外では断食との戦いがある。
今場所5日目(7月17日)、横綱鶴竜を破った時、「腹減った。頭がふらふらする」と言ったという。彼にとって初金星の喜びよりも空腹のつらさだったものと思われる。大砂嵐は取組後、宿舎に戻る車中で日没を迎えると、すぐにコンビニに飛び込み飲料を買って一気飲み。宿舎では自らカモ肉のフライやエジプト料理で定番のモロヘイヤスープを作り、普段より多めに食べるらしい。そうだろうと思う。夜明け前に前夜の料理を温め直して腹を満たす。昨年はラマダン中に体重が7キロも減ったため、今年はご飯にバターを混ぜるなど、カロリーが減らないように心がけているとのこと。
空腹との戦いはすさまじい。何故、彼はそれほどまでしてイスラム教の戒律にこだわるのだろうか。おそらく、それは日本人にとっては永遠の謎であろう。しかし、これがホンモノの宗教の姿であろう。
どこかでキリスト教徒はこの厳しさを忘れてしまったのではないだろうか。
http://digital.asahi.com/articles/ASG7P5G1JG7PUTQP01K.html?iref=comtop_list_spo_n04
大砂嵐、断食月とがっぷり四つ 名古屋で試練の15日間:朝日新聞デジタル
digital.asahi.com
大相撲名古屋場所で、2横綱を破るなど台風の目となっているエジプト出身の大砂嵐(22)=本名アブデルラフマン・シ...
大脇 友弘さん、Yutaka Tanabeさん、藤井 衞さん、他53人が「いいね!」と言っています。
畠山 秀明 他宗教に対して排他的な仏教系の宗教があります。
親方や力士にもその宗教の信徒がいますが、神事である大相撲をどう捉えているのか興味があります。
文屋 善明 大砂嵐だって、部屋ごとの行事としての神社参拝や寺への祈願には参加していると思いますよ。また、稽古部屋には神棚もあると思いますよ。それらについては特に対立するものとは思われていないようですね。
畠山 秀明 排他的な仏教系の新興宗教ですが、その信者の親方も力士も割り切っているんでしょうね。
播 稔 モーセ五書を共通に持つ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。9.11が起こった時、キリスト教の日本の大御所の女性信徒が、はたして一神教で良いのかという問いを発したことがありましたが。
Satoshi Mizota そもそも一神教って何ですか?
小栗 龍男 ラマダンは太陽が出てから沈むまでは、水。食時が出来ません。厳しくを守りたい人は唾ものまないとか・・。多く多く人は寝で居ます、外出にも必要限度です。しかし、日常の仕事をする人も多く居ます。日が沈むと一斉に食事が始めます。一部、子供 病人 旅人 寄留者(イスラム圏に住んでいました。)は自主的ですから食べる人も居ますが、周りからの人目も在り守っています。彼 大砂嵐は偉い 凄いと思いますよ。
Satoshi Tanaka やはり、力の基は『なにくそ魂』でしょうか?
文屋 善明 私はその『なにくそ魂』こそ、宗教的なものだと思っています。そこまで自覚的かどうかはわかりませんが、彼にとってはアラーの神と異教の神との戦いだと思っているのではないかと思います。
Satoshi Tanaka わたしたちの信仰においても、何らかの形の『なにくそ魂』が重要なのではないかという気がするのです。
文屋 善明 私の秘密ですが、信仰とは意地だと思っています。
Satoshi Tanaka 全く同感します。どこまで意地を突っ張っていけるか。主の助けによって、結構、突っ張れるような気がします。
播 稔 MIZOTA兄、わたしは難しく言いたくはないのです。一神教に対するのは、多神教でしょう。 わたしの他に神があってはならない。神は一つであり一神教です。
播 稔 一神教、多神教の考え方は、いま議論がはじまっているということもあり、これ以上は専門的になってきます。
Satoshi Mizota 俗に言う「一神教徒」たちが「神はひとりしか存在しない」という自己理解をし始めたのはいつごろからだろうと思うんですけれど。「私がついていく方はあの方しかいない」という理解は古くからあったでしょうけども。
Satoshi Mizota >意地
うーん。信仰は嘘だ、とまでも言えてしまうところがこのての議論の仕方の弱点ですね。「信仰」という「述語」がよくなくて、特別すぎます。「だれかを信用していますか、家族なども含めて」と聞いて、信用していると応えるなら、無意識のうちに神を信じています。「私は誰も信じない、友達もいない、自分自身も信じない」となれば、神を信じていないでしょう。なぜなら神は愛だから。
文屋 善明 私が「意地」というのは、一度「信じた」と言ってしまったので、それを最後までこだわり貫くという意味での意地です。その途中で「疑うこと」があっても「疑う自分」を否定する。それが嘘だと言われても、そうなんだからしょうがないでしょう。
Satoshi Tanaka 『こだわる』と言う言葉が言い当てているようですね。意地と言う言葉を、『こだわりを持ちつづけようとする主体的な意思』ととらえれば、『信仰は意地である』も理解できるように思えます。
文屋 善明 ありがとう。その通りです。
中島 正二 · 共通の友達: Satoshi Mizotaさん
戒律を守るのは神との約束ということでしょう。一神教徒にとっては、死後の永遠がかかっていますから、意地というよりは切実な問題なのでしょうね。
角本 尚彦 わたしの秘密ですが、信仰とはつっぱりロックンロールと思ってます。
Satoshi Mizota この現世に「こだわる」自分を壊していく力を信頼するのが、信仰かもしれません。
Satoshi Tanaka "こだわり"と信仰でいろいろな思いが現れて面白いですね。
Satoshi Mizota 多分私は「しつこい」部類に入るのでしょうね。
文屋 善明さんがKivaさんの写真をシェアしました。
これはグローバリズムではない。ジョン・ウエスレーの「私のパリッシュ(牧会範囲)は世界である」という言葉に通じる。
"My country is the world, and my religion is to do good." - Thomas Paine
https://www.facebook.com/kiva/photos/a.70226438402.73898.6428288402/10152286117248403/?type=1&theater
大野 泰男さん、藤井 衞さん、磯野 爽さん、他20人が「いいね!」と言っています。
文屋 善明
写真: もうまもなく9時になります。私の一日の総仕上げ、ナイト・キャップのお時間です。私のナイトキャップは小さなサイコロ状のチーズが3個、薄い小さなビターチョコが2枚、これをお供に、ウイスキーの水割り1杯、これが定量で、時にはチーズを2個とチョコレート1枚になる時もあります。これらを1時間かけて、チビリチビリやりながらテレビを見ます。そして、その後は爆睡。これが続く限り、私は元気です。
木下 海龍さん、小池 俊樹さん、町田 勝彦さん、他51人が「いいね!」と言っています。
村田 多鶴子 どうぞ、質の良い睡眠を!!m(__)m
Hanna Bunya お酒、お好きですね♪
細谷 民子 おしやれな内訳、興味津々。食後に、飲まれるとこが、また、おしゃれですね。健康的なお酒ですね。
文屋 善明 晩酌は晩酌です。晩酌では夏でも冬でも焼酎のお湯割りを一杯。これは寝る間のナイトキャップです。
堀 俊子 おしゃれですね~般若心経のゴスペルを聞いてほしいです。般若心経そのものは、まあ楽しいですね~
細谷 民子 そう言う事ですか、わかりました。このお写真を撮ろうと思われた時の、先生の、平穏なお気持ちが、伝わりました。難しい本から離れて....