ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 11/29 村井則夫『ニーチェ━━ツァラトゥストラの謎』

2014-12-01 06:14:38 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。朝、銀行、買い物。「ツァラトゥストラからのメッセージ」を続読。「神と関わることは、限りなく人間を間化する」。練習30分。午後から電子ピアノの修理。ベスト電器に買い物。仮眠30分。夜は「刑事吉永誠一」、「幸せの黄色いハンカチ」を見て11時就寝、4時半起床。体調、快調。チュン、チュン。

安田 信夫さん、西堀 俊和さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他20人が「いいね!」と言っています。

村田 多鶴子 おはようございます~♪何時もの穏やかな朝でしょうか。
今日も、ご夫妻共々終日守られて、よい時間をお過ごしになられます様にm(__)m

萩野 秀子 おはようございます。チラシ配りをします。高倉健さんいいですね。良き日となりますように。お祈りします。

西堀 俊和 間化じゃだめですね。教会が変なことするから、そんなことになるんでしょうか。ただの人でもいいから本当の人間にならないと。

文屋 善明 「神と関わることは、限りなく人間を間化する」。この言葉はニーチェの言葉というよりも湯田豊先生が考えるニーチェ哲学の基本的思考だとされる点です(同書49頁)。確かにここにニーチェ哲学の基本的主張があると、私も思います。人間とは他の動物と同様に基本的には「大地」に属する存在であり、そのことを徹底的に考え抜く時、「神は人間存在にとって最大の異論である」(同)ともいわれています。「大地」に忠実であるべきか、「神」に忠実であるべきか。人間存在は「あれか、これか」という二律背反ではなく、「あれもこれも」という世界に置かれている。今は、この点についてこれ以上の議論は避けておきます。
posted at 05:05:30


文屋 善明
今日の名言:RT @wisesaw:
結婚は多くの苦痛を持つが、独身生活は喜びを持たない。(アレティーノ、ルネサンス期イタリアの作家、詩人。)
<一言>いろいろ異論はあるでしょう。男と女とでも受け止め方は違うでしょう。そんなん、こんなんひっくるめて、これは正論だと、私は思う。

鈴木 ゴリ 宣仁さん、Mae Nishioさん、西堀 俊和さん、他22人が「いいね!」と言っています。

播 稔 そうでなければ、人間は「絶えて」しまう。

植村 光郎 独身の聖職者は?でも、俗人の私には、結婚してよかった!

文屋 善明 私は聖職の独身性にはNOです。勿論、メリットが全くないとは言いませんが、デメリットのほうがはるかに大きい、というのは消極的な見解ですが、積極的には結婚した聖職のマイナスをはるかに超えるプラスがあると思っています。その人本人にとっては「どうぞご勝手に」という意見です。

糸原 由美子 結婚によるプラス面もマイナス面も人を成長させる大きな要素だと思います。子育ても。

播 稔 私は子供を造りませんでいた。自分に似たものが出来ては困る。   決定的なできごとは、35歳の時「甲状腺機能亢進症(バセドー病)」が薬(メルカゾール)で抑えることができず。首を切られるのはいやなので「放射線療法」を選択したのです、医師からは、これを受けると子供をつくることは不可ですと。結構ですとその治療を受けました。(日本では1600例くらいの時です)病院は伊藤病院、いまは機能低下で一勝薬を飲むからだ。

「昨日のツイート 11/27」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/c1ace03e0ef74149d0f7bddbc498204…
posted at 06:46:03


文屋 善明
お目覚めの花。「ピンクはピンクでもいろいろあるのよ。艶かしいピンクもあれば、私のように初々しいピンクもあるんですよ。私、このバラ園の王女(プリンセス)みたい」「何、一人で気取っているのよ」。
お目覚めの花。「ピンクはピンクでもいろいろあるのよ。艶かしいピンクもあれば、私のように初々しいピンクもあるんですよ。私、このバラ園の王女(プリンセス)みたい」「何、一人で気取っているのよ」。

鈴木 ゴリ 宣仁さん、涌井 幸子さん、鈴木 くるみさん、他47人が「いいね!」と言っています。

播 稔 日向のバラ。わたしには処女のピンクだなー。 少し膨らみはじめた・・・・。


文屋 善明
2014日々の聖句 11月29日(土)
ユダの家の中で難を免れ、残った者たちは再び根を下ろし、上には実を結ぶ。(列王記下19:30)
バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、……エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。(マタイ1:12~16)
私の黙想:
「ユダの家」とは南のユダ王国を意味し、ここでの「難」とはバビロン捕囚を意味する。ここで鍵となる言葉は「残った者たち」である。時代的に言うと少し複雑である。ここでの文脈はアッシリア軍は北のイスラエル王国をあっさりと滅ぼし、その勢いをかって南のユダにまで攻め入ろうとしている。南のユダ王国のヒゼキア王はそれを恐れて預言者イザヤに相談する。イザヤはヤハウエからの託宣としてアッシリアはそのうち撤退するであろうから、心配するなと言う(28節)。その関連でユダ王国の運命を預言したのが今日の聖句である。この聖句での「残った者」とはアッシリアのイエルサレム攻撃における「残った者」ではあるが、内容的には、それから約200年後のバビロンによるエルサレムの滅亡、バビロン捕囚、そこからの帰還における「残った者」を意味していると思われる。チョトと時代錯誤があるのかもしれない。
旧約聖書における「残った者」の思想は非常に重要である。「残った者」が次の時代を作る。その意味で今日の聖句は「残った者」の思想を最も端的に述べている。
初期の教会において異邦人問題が重要課題となった時、使徒会議が開催され、その時ペトロが立ち上がって、神は異邦人の中でも働いておられると演説し、それを受けた主の兄弟ヤコブが次のように宣言する。ここは非常に重要なところであるので少々長いが全文を引用する。
「兄弟たち、聞いてください。神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。『「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、元どおりにする。それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、こう言われる。』」(使徒言行録15:13~18)。
要は、こういうことである。つまり、異邦人を教会のメンバーとして受け入れるに際して、ユダヤ人における「残れる者」の思想を引き合いに出しているということである。ヤコブとしたらユダヤ人社会において私たちは「残れる者」なんだという自覚があったということである。
ユダヤ人という人種は面倒くさい人種なんだ。

奥野 卓司さん、二上 英朗さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他20人が「いいね!」と言っています。

清水 行雄 おはようございます。「ツァラトゥストラ」の影響ですか?(^_^)

播 稔 「残れる者」やはり生きていないといけないのだ、命はなんと「尊い」ものか。


文屋 善明さんが写真2枚を追加しました。

『ツァラトゥストラはこう言った』の「だれでも読めるが、だれにも読めない書物」という副題(?)、付言(?)について。
湯田豊『ツァラトゥストラからのメッセージ』(角川叢書)
序文
ニーチェの『ツァラトゥストラは、このように語った━━万人のための、そして誰のためでもない書物』と読むたびに、わたしの胸はときめく。本書は、人間の未来の書物であり、ツァラトゥストラの仕事は、未来の異人類に一つの木業を与えることである。彼の未来の哲学にとって不可欠なのは”神の死”であり、自己克服に必要なのは”力への意志”である。事物の中に価値を見出そうとする意志━━それが、力への意志に他ならない。意志の大きなる行為においてのみ、超人は創造される。力への意思の、この行為は、全く同一の事物、いや、等しい瞬間の永遠の回帰を受け入れることである。
湯田先生の序文の冒頭のこの言葉の中に、ツァラトゥストラからのメッセージが凝縮されている。この言葉は『ツァラトゥストラは、こう言った」を繰り返し、徹底的に読んだ人の言葉である。それが、「万人のための、そして誰のためでもない書物」を読み返すたびに「胸にときめき」を感じる人のことばである、のだろう。私にはこの書はただ「謎」である。私にとってこの書を読み始めるたびに「私のための書物ではない」という寂寞感を抱く。
ここにもう一冊、「ツァラトゥストラは、こう言った』についての書籍がある。
村井則夫『ニーチェ━━ツァラトゥストラの謎』(中公新書)
まさに「謎」への挑戦である。「誰のためでもあり、誰のためでもない」という書物への「謎解き」の本である。この書の「まえがき」の冒頭では村井先生は次のように述べている。
哲学や思想というものは、それが創造的であれぱあるほど、独自で個性的な語り方を要求するものであるらしい。哲学や思想は客観的な情報のように伝達されるわけではないし、またそれを語るにふさわしい文体や用語なるものがあらかじめ設定されているわけでもない。哲学はつねにそれ自身を表現する言語を模索してきたのであり、哲学史とは、同時にさまざまな「語り」のスタイルを探求する言語の実験の歴史でもある。
哲学が一つの現実として生命をもつとするなら、それはあくまでも言語の可能性の中においてのことであり、哲学が死ぬとするならぱ、それは言語の活力が失われ、惰性や慣習の中に閉じ込められることによってである。そのため、革新的な思想家は、多くの場合、たえず軒新な言語とスタイルとを創造してきた。思想を語る言葉というものは、単なる表現手段にとどまるものではなく、むしろ思想そのものの死命を決するほど本質的なのである。
19世紀の後半、 思想家ニーチエ (1844~1900)が試みたのは、ドイツ観念論という思想の巨大な山脈が途絶え、時代が精神的な混迷を迎えた中で、言葉の力によって哲学に新たな生命を吹き込むことであった。古典文献学者として出発したニーチェは、研ぎ澄まされた言語感覚を武器に、学問的言説の形該化に抵抗し、1冊ごとにスタイルの異なる特異な書物を続々と生み出していった。
1箇所足踏みし、同じ形式を繰り返すことで思想が立ち枯れになるのを怖れるかのようにニーチエの著作は高速で変親を続け、次々とその装いを新たにしていく。その著作活動は、厳密で客観的な学問という枠組みを軽々と踏み越えるばかりか、およそ「ジヤンル」という慣習から逃れ去り、哲学とも文学とも名状しがたい領域へと疾走していく。この名づけえぬ領域こそが、ニーチエの文体が躍動し、その言葉が疾駆する思想の空間であった。なかでも、「誰のためでもあり、誰のためでもない書物」という銘が掲げられた「ツアラトウストラはこう語つ
た」 は、 まさにそうした名づけようもない空間から、多くの謎とともに生まれてきた特異な著作である。
湯田先生は今年80歳を超えておられる。村井先生は50歳を過ぎたところであり、哲学世界ではまだ若手に属する。このお二人の書物を同時に手に入れたのはほとんど偶然のことで、両者を比較することは両者に対して失礼であるので、比較はしない。いや、そんなたいそれたことをする能力もない。ただ、偶然私の手に入ってきたこれらの本を手引にして「私のためではない」書物を、私のための書物」へと転換したいと願う。
文屋 善明さんの写真

播 稔さん、林 巌雄さん、藤井 衞さん、他10人が「いいね!」と言っています。
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潮 義男 はじめまして…mizota氏のシェアで来ました。ぼくも学生時代にニーチェに没頭した時期がありました。約8年読み続けました。並行してキルケゴールを…おかげでキリスト者になり、あまつさえ牧師になりました。神の不思議です。

潮 義男 僕がツアラトゥストらを読んだのは、浅井真氏訳でした。熱中したものです。高校時代3年間はドストエフスキーはじめロシア文学の世界を彷徨っていました。大学はロシア文学を専攻しました。時は全共闘の時代、大学はロックアウト。そんな時代にニーチェとキルケゴール、サルトルなどを読み続けたのです。

潮 義男 ところで、浅井訳は「万人向けで、万人向けでない」となっていたように記憶します。こちらが一番適訳のように思います。キリスト者になって思うことは、聖書も同じではないかということです。すなわち「万人向けで、しかも万人向けでない」 ニーチェらしい、孤高を保ち、群れない。矜持です。しかし、高貴な精神を分かち合う友を求めている。

潮 義男 長くなってしまいました。笑い飛ばしてください。

文屋 善明 潮先生、ご丁寧なレスポンス、感謝します。私は私のキリスト教のためにニーチェを読むべき時に読まず、やっと最近読み始めました。言わばニーチェの新人です。これからも、宜しくお願い致します。

播 稔 聖書も、その類の書物なのかもしれないなー。


文屋 善明
今日の夕食、近くのユメタウンに夕食の準備に行き、面白い「弁当」を見つけました。箱の下の方にある糸を引っ張ると、「爆発」に、5~6分で「アツアツ」の神戸牛のステーキ弁当が出来上がり、2人で食べました。美味しかったです。
今日の夕食、近くのユメタウンに夕食の準備に行き、面白い「弁当」を見つけました。箱の下の方にある糸を引っ張ると、「爆発」に、5~6分で「アツアツ」の神戸牛のステーキ弁当が出来上がり、2人で食べました。美味しかったです。

Mae Nishioさん、播 稔さん、大津 博子さん、他39人が「いいね!」と言っています。

萩野 秀子 テレビで放送されていましたね。

村田 多鶴子 私も、テレビで見ました~♪(^^♪

浜井美喜 東京駅地下の駅弁専門ショップで、これのすき焼きヴァージョンがありますね。よく買います。

糸原 由美子 新神戸駅の駅弁で見ました!

播 稔 昔は日本酒だけだったのですが。

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