ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 04/16

2015-04-18 20:01:13 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。マルコ福音書再読レポートをまとめFBにアップ。午後、家内をエスコートして病院へ。寒くはないが激しい風。夕食後、写真の整理、堺雅人主演「Dr.倫太郎」を見る。見応えがある。10時からというのが難。11時半に就寝、5時半起床。体調・快調、チュン、チュン。

Satoshi Mizotaさん、塩澤 紀子さん、岡 輝美さん、他15人が「いいね!」と言っています。

藤木 冨士子 おはようございます。マルコお気に入りです。再読しよう。

萩野 秀子 おはようございます。整形外科、チラシ配りをします。良き日となりますように。お祈りします。

村田 多鶴子 おはようございます~♪
今日も、ご夫妻共々、守られて穏やかな愉しい時間をお過ごしになられますようにm(__)m
posted at 06:01:00


文屋 善明
4月16日 6:49 ·
今日の名言:
人類は、どういう経緯でコンニャクを食い始めたんだろうな。「根っこしか食えません。普通に食うと毒です。砕いて粉にして、灰を溶いた水でかき混ぜて、煮て、固めるとプルプルした謎の物体が出来上がります」とか、ハードル高すぎだろ…
<一言>ツイッターでこんな言葉に出会いました。人間って面白いですね。

Yutaka Tanabeさん、小美濃 長堅さん、Remi Suzukiさん、他37人が「いいね!」と言っています。

藤木 冨士子 そのまま食べると毒だというのは初耳でした。

門叶 国泰 「毒」だとしたら、何人も死んだか、病気になったのでしょうね。人間の知恵は経験から得られた、筈なのです、が、その能力が劣化・・・
4月16日 7:54 · いいね!を取り消す ·

金井 由嗣 河豚を二番目に食べた人も、相当なものだと。f^_^;)

門叶 国泰 戦後の食糧難の時、「ざりがに」を頭から食べました。土地の子から、三本ある尻尾の真ん中を抜くと、腸がとれる。腸は食べてはいけない、と教えられました。今もって、本当かどうか、気になっています。

文屋 知明 コンニャクについて、「今昔物語」に書かれてないかな~!

文屋 善明 漱石の『吾輩は猫である』にも、「初めてナマコを食べた人物の胆力には敬服すべきだ」ともいわれています。

文屋 善明 でた!文屋家の先祖の末裔のギャグ。

門叶 国泰 本当に調べようとしました。

文屋 知明 ウィキペディアで調べたら、結構、古いですワ!そもそもコンニャクイモは6世紀中頃に薬用として朝鮮から伝わった後、推古天皇の時代に本格的に中国から輸入された。その目的は「砂払い(整腸)」の薬効であったが、鎌倉時代までに食品として確立し、精進料理に用いられるようになる。庶民に広まったのは、元禄年間の頃である.。~とのこと!

文屋 善明 私が西大和で幼稚園の園長をしていたころ、毎年、御杖村に一泊の夏期保育をして、その村の特産品コンニャク作りを体験しました。園児たちは大喜び、お土産に自分たちで作ったコンニャクを持って帰りました。

植村 光郎 ナマコを、最初に食べた人もえらいなと思います

糸原 由美子 フグだって多くの犠牲の結果、食べてはいけない部位が特定されたのでしょう。ご先祖さまたちに感謝です
posted at 06:48:29


文屋 善明
4月16日 7:59 ·
NHKこころ旅、愛知県の3日目、岡崎市乙川のほとりから、雨が降っている。今日の目的地は県道33号沿いの段戸湖(だんどこ)に向かって。何にもないことが・・。豊田市足助までバスで輪行。猪の皮が干してある。燕が飛んでいる。やっとバスがきた。連谷口下車。今朝はここまで。終わりなき登り道。
posted at 07:59:18


文屋 善明
4月16日 6:44 ·
お目覚めの花。「春ですね。暖かくなったり、急に寒くなったり」「これが春なんですね」「そしてだんだん夏に近づく」「季(とき)の流れは速いですね、日本でもドイツでも」。
文屋 善明さんの写真

竹本 耕造さん、松井 貴志さん、川染 三郎さん、他35人が「いいね!」と言っています。


文屋 善明
4月16日 6:35 ·
2015日々の聖句 04月16日(木)
主は正しい。わたしが主の口に背いたのだ。(哀歌1:18)
わたしはここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」と。(ルカ15:18)
私の黙想:
「主の口に背いた」、何となく分かるが、こんな訳は新共同訳だけだ。古語訳では「み言葉に背いた」、文語訳は「その命令(おおせ)」、フランシスコ会訳では「その掟」、新改訳は「主の命令に逆らった」。なぜ、「主の口に背いた」なんて、気取った訳を採用するのか、言語感覚を疑う。
哀歌は恐ろしい文書だ。冒頭の言葉がこうだ。「ああ、むかしは、民の満ちみちていたこの都、国々の民のうちで大いなる者であったこの町、今は寂しいさまで座し、やもめのようになった。もろもろの町のうちで女王であった者、今は奴隷となった」(口語訳)。この「ああ」という言葉が「哀歌」という名前の由来である。2章、4章の冒頭の言葉もこの「ああ」である。文語訳では「ああ、哀しきかな」と言葉を補っている。この語は「まぁ、何と、どうして」という感嘆、疑問を示す語である。その意味で「哀歌」という書名は相応しい。今日の聖句に続く言葉も「聞け、諸国の民よ見よ、わたしの痛みを」と単刀直入にその「痛み」を述べている。
この悲痛さの原因は「ヤハウェの言葉に逆らった」というただその一点にある。

竹本 耕造さん、川染 三郎さん、吉岡 卓さん、他15人が「いいね!」と言っています。
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