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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/11/4~11/10

2018-11-10 10:08:32 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/11/4~11/10

2018 日々の聖句 11月4日㈰
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:5)

パウロの手紙:御父が信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。(エフェソ3:17)

私の黙想:
旧約聖書、新約聖書と貫くThe Biggest Text である。古今東西、このテキストに批判的な目を向けた神学者や、聖書学者はいない、と思う。
でも、あえて問う。「愛する」ということと「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」という言葉とは矛盾しないだろうか。愛するべき者を愛するのには何の「努力」も不要であろう。愛してはいけない者を愛さないということのためには、それなりに苦行が伴う。まして愛してはならない者を愛するためには、「身を削るような努力」が必要であろう。
神は私たちは愛すべき存在だろうか。むしろ、私たちにとって神は「敬して遠ざける」存在である。逆に、神にとって私たちは愛すべき存在だろうか。「十字架の愛」という言葉がある。神は「愛してはならない私たち」を愛するために、「身を削って」愛されたのである。だからこそ、私たちは「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」、神を愛する。

2018 日々の聖句 11月5日㈪
主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ、恵み深いあなたの御名に感謝します。(詩54:8)

わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。(2コリント1:3)

私の黙想:
詩人は最も頼りにしている仲間たちから誤解され、追われ、逃亡者となる。逃げた先でも騙され通告される。あるいは「はめられた」のかも知れない。原因にはいろいろ想定できる。セクハラの冤罪で仲間から追放されることもある。追放する者は執拗に追跡し、もはや、どこに逃げ、誰を信じたらいいのか分からない状況にある。ここまでは映画「逃亡者」にも見られる、誰にでも起こる可能性のある出来事。
詩人はその中で苦難の中のダビデを思い起こし、この詩を書いている。ここで神を呪うか、神を信じるか。神を信じると言っても、もはや今までの通り神殿に出かけて犠牲を献げることもできない。詩人は「自分自身で犠牲を献げる」。そのとき、神を信じ、神に礼拝を捧げることは、どこででもできるのだということを悟る。

2018 日々の聖句 11月6日㈫
主よ、あなたは御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います。(詩92:5)

イエスは中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。(ルカ5:24~25)

私の黙想:
「御業を喜び祝わせてくださいます」という表現、何か違和感がある。「喜び祝う」ことは「させて頂いて」するものなのか。口語訳では「みわざをもって私を楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います」であった。岩波訳は面白い。「まことに、ヤハウェよ、あなたはあなたの仕業で私を喜ばせた。あなたの手の業を私は歓呼しよう」。「仕業」とか「歓呼」という単語がいかにも余所余所しい。こういう場合は文語訳が有力である。「そはエホバよ、汝その作為(みわざ)をもて我を楽しませ給えり、我なんじの御手のわざを喜びほこらん」。古い「エホバ」が気になるが、それ以外はスッキリしている。とくに「聖手のわざ」という漢字の使い方が、「さすが」と思う。
ここには父親と子供との楽しそうな関係が歌われいる。
こんな「つまらないこと」にこだわるのは、信仰者にとって神と人間との最も根源的な関係は、神は人間を喜ばせるために何を為さり、人間は単純にそれを喜び感謝することにあると、わたしは思うからである。
何故なら(キー)、神は「いつも」「わたしたちを楽しませるために」「何かをしてくださっている」からである。その全体が「お祝いごと」なのである。

2018 日々の聖句 11月7日㈬
わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み、あなたの教えを胸に刻みます。(詩40:9)

神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。(1ヨハネ5:3)

私の黙想:
この詩は信仰における優等生の作であろう。今日の聖句は私人がわざわざ神の前にやって来て、述べる言葉の一部である。この詩全体が神に対する発言であるが、その中でもとくに8~9節は神の前に進み出て、神に直言するセリフである。その意味で新共同訳の9節の終わり方は適切ではない。
「御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは巻物に記されております。わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望みあなたの教えを胸に刻みます」。この部分、私の私訳を書く。「ご覧なさい、私は御前に参りました。私のことについては巻物に記されています。私の主よ、私は御心に従うことを喜びとし、あなたの教えは私の肝に銘じ込められています」。
「私の肝の銘じ込められ」と訳した部分は、原文では「私の腸の中に」。へブル文化では「神の戒めが腸の中に蓄えられているようだ。この文化的差異を翻訳においてどう克服するかが「肝」である。

2018 日々の聖句 11月8日㈭
(ヨシャパテはまたイスラエルの王に言った、)「まず主の言葉を求めなさい」。(口語訳、歴代誌下18:4)

あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。(2テモテ3:14)

私の黙想:
今日の聖句では、括弧の中が省かれている。この括弧の中が重要だ。
北王国の7代目アハブ王と南王国4代目ヨシャフォト王と会話。その頃、両国はほとんど同盟関係にあった。ヨシャフォト王の息子ヨラムとアハブ王の娘アタルヤとは婚姻関係であった(歴代下18:1、列王上8:18)。その結果、両国は平和で繁栄していた。この場面はヨシャフォト王がアハブ王の居城を訪れた場面で、恐らくアハブ王の方が招待したのであろうと思われる。アハブ王は一行を大歓迎してもてなした。
こんな平和な場面で、実は恐ろしいことが話し合われていた。アハブ王は、居城に招いただけではなく、実はラモト・ギレアドを一緒に攻めようと誘ったのである。現実政治とはこんなものである。ヨシャフォト王はそんなアハブ王の策略には簡単に乗らない。その時やんわり断ったのが今日の聖句である。「先ず、ヤハウェのご意向を伺おうではないか」。
南にとっても、北にとっても、ヤハウェ信仰は共通である。ここで、両国間での決定的な違いは、エルサレムの神殿は南の側にあるということで、要するに話し合いの舞台を北ではなく南に持っていこうととしているのだと思われる。しかし、アハブはヨシャフォトを帰国させず、北の預言者たちにヤハウェにお伺いを立てさせる。彼らはアハブ王に手懐けられて、攻めよという「ヤハウェの言葉」を語らせ、結局、そのままラモト・ギレアドに攻め入ることになるが、その戦いでアハブ王は戦死する。何とか無事に自国に戻ったヨシャフォト王は南の預言者イエフからこっぴどく叱られる。政治とはこんなものである。どこかの国の近い将来のようである。

2018 日々の聖句 11月9日㈮
われわれの神が(われわれの)先祖と共におられたように、われわれと共におられるように。(口語訳、列王記上8:52)

(あなたがたが怠け者とならず、)信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。(ヘブル6:12)

私の黙想:
神殿の献堂式におけるソロモン王の祈りの1節である。神殿の建築ということは先王ダビデからの宿願であり、ダビデは建築材料を整えその建築事業を全て後継者ソロモンに委ねた。従ってソロモン王にとって神殿の建築は最初の大事業であり、それが完成した喜びも一入であったことであろう。ソロモン王にとって神殿はダビデ王の遺志の継承であり、同時に自分の権力の誇示である。
同時に神殿の存在そのものは神が「共にいてくださる」という保証である。神が共にいてくださるということは大きな祝福であり恵みであるが、時には「鬱陶しい」ことでもある。これだけの権力を継承したのだから少しは自由に振る舞いたいという気持ちが働く。そこからソロモンの堕落が始まる。

2018 日々の聖句 11月10日㈯
恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに。(詩106:1)

すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。(テトス2:11)

私の黙想:
私はこの聖句は口語訳がいい。その理由などない。ただいいからいいのである。強いて理由を挙げるなら、新共同訳は何かしら落ち着かない。「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」。
この「その慈しみはとこしえに絶えることがない」という文章は一種のリズムが言い。因みに、文語訳では「その恵みは深く、その憐憫(あわれみ)は限りなし」で、口語訳では最小限度の変更をしただけだった。こういう文章は出来る限り、変更しない方がいい。意味の云々は次の次(じのつぎ)で文章としての慣れが重要だと思う。
この有名なフレーズは詩136では各節の後ろがこの言葉になっている。これを会衆全体で唱えるとき、一種独特のリズムがエクスタシー状態を醸し出す。その手法は、日本では多くの民謡に見られる。

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