ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

国語教育に期待すること(修学院小学校育友会誌 1972.11.15)

1972-11-15 10:21:57 | 雑文
国語教育に期待すること
石川達三は彼の自叙伝の中で、中学入試の時の経験を語っている。
彼はある意味で自信をもつて国語の試験を受けたのであるが、与えられた答案用紙を見て、「愕然となった」と述べている。「おびただしいとは何か、いちじるしいとは何か。私は知っている。その意味はチャンと解っている。しかし「おびただしい」は「おびただしい」であり、それ以外の言葉で正確にこれを説明することなど、出来はしない。(中略)しかし多分、ほかの優秀な受験生たちは、学校で先生に教えられた通りに、(たくさん有ること、非常に多いこと…‥)というまことに無神経で形式的な答案を書いていたことであろう。そして彼らは合格したであろう。(石川達三著「私ひとりの私」講談社文庫、百四十六・七頁)そして彼は結局試験には白紙で答えて、作家になったのである。
私は国語教育の大切さをつくづく考えさせられる。結局私たちは日本語の枠内でしか何かを知ったり、ものを考えたり、自己を表現するしか仕方がないのである。また、日本人が弱い弱いと言われている外国語にしても日本語の言語感覚の上にしか築くことは出来ないのである。
私自身の小学校時代、中学校時代を考えて見ると、国語は最もきらいな学課であり、少しも興味を感じなかつたように記憶する。今でも理解出来ないことは、国語の時間に私たちは何を教えられようとしていたのかということである。
機械的な漢字の記憶、石川達三も述べているような「ことばの置き換え」、もはや私たちにとつては外国語に等しい古代語の文法、など私には砂をかむような思い出しかないように思う。
むしろ、私が私の子供たちに期待する言語生活はそれぞれの年令に応じて、人の言うことを理解し、それに主体的に応答出来るようになることである。音声言語においても、表記言語においても、あるいは外国語においても。
私の家庭で特に注意を払っている点は「あいさつ」ということである。人間は結局他者と共に生きるしかないし、そこに喜びも悲しみもある。ことばは共に生きる土台であるし、従って人間の本質をあらわしている。人と人とが出会った瞬間に適確なあいさつが出来るかどうかということで、その人間関係は決定してしまうと私は考えている。その意味ではひとりとひとりの朝のあいさつも、一国の首相が相手国の大臣たちを前にしてなされるあいさつも差はないと思う。願わくは、私の子供たちが、誰れに対しても、どのような場所でも、言葉でも、文章でもあいさつが出来るようになってもらいたいと思う。
(修学院小学校育友会誌 1972.11.15)

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