ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:大斎節第1主日(2018.2.18)

2018-02-16 06:35:10 | 説教
断想:大斎節第1主日(2018.2.18)

イエスの準備 マルコ1:9~13

<テキスト、私訳>
◆イエスの洗礼と試み(1:9~13)
ちょうどその頃、イエスというガリラヤのナザレ出身の男がやって来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を授けられました。イエスは水から上がると、天が裂けて霊が鳩のように自分の上に降って来るのを見ました。そしてまさにその時、天から「あなたは私の愛する子、私の心に適う者だ」という声が聞こえてきました。
それから直ちに、霊がイエスを荒れ野に連れ出しました。それから40日間イエスは荒れ野に留まり、サタンから誘惑を受けられたのです。その間、野獣と一緒にいましたが、天使たちも仕えていました。

<以上>

1.イエスの準備
マルコ福音書ではイエスが公に活動する前にその準備として2つのことだけが述べられている。それが洗礼と荒野での試みである。この2つについてはマタイもルカもヨハネまでも述べている。その述べ方はそれぞれの福音書によって異なるが、どちらかというと、マルコはお義理的に述べているだけで、いずれも非常に短い。イエスの受洗については、顕現後第1主日で既に取り上げられているので、大斎節第1主日では、「荒野の試み」だけを取り上げる。

2,荒野での試み
これは毎年繰り返されることであり、「荒野での試み」と言えば、すぐにその情景が頭に浮かぶほどである。今年は少し視点を変えて、先ず頭に浮かぶ情景を取り払って欲しい。なぜなら、マルコによる福音書にはその様な情景は述べられていないからである。ただマルコではイエスは洗礼を受けられた後、霊によって荒野に送り出され、40日間そこに留まり、サタンから誘惑を受けたということだけが述べられている。誘惑の内容については何も述べられていない。いったいイエスはそこでどんな誘惑を受けたのだろうか。マタイ福音書とルカ福音書とはマルコが設定した枠内において、何処かで拾ってきたエピソードを盛り込んでいる。そして、私たちはその影響を受けて荒れ野での試みをそんなものとして理解している。繰り返すが、荒れ野の誘惑について最初に取り上げたのはマルコであって、私たちはマルコを読む場合に、マルコが語っていることだけを考えなければならない。
そしてマルコが語り、他の福音書が述べていないことは、「その間、野獣と一緒にいましたが、天使たちも仕えていました」という点である。従って、ここからマルコが「試み」ということについて何を考えているのか、推測しなければならない。

3.「野獣と一緒におられたが」の意味
福音書では「野獣」という単語はここにしか用いられていない。野獣というと、何かマイナスのイメージが伴い、マタイとルカの影響を受けて「サタン」であるかのように思ってしまう。野獣は必ずしも人間にとって「悪い奴」ではない。むしろ、荒れ野には野獣が住んでいるということは当然のことで何も珍しいことではない。むしろ野獣が居るということが通常で、ここでは「一緒に居た」ということで、仲良くしていたというイメージである。
考えて見ると、イエスは何処かで洗礼者ヨハネのことを聞き、洗礼を受けたいと思ってヨハネの元に来たのである。そしてそこは「荒れ野」である。むしろ、「荒れ野のヨハネの言葉を聞き」、ヨハネの元に来たのである。そして、彼らか洗礼を受け、その時、神の言葉を聞いたのである。つまり、そこから荒れ野に行ったのではなく、むしろそこが荒れ野であり、そこに来たことが「霊」に導かれてと自覚し、ヨハネと一緒に生活をしたのではないだろうか。人里から離れて、聖書と祈り三昧の生活、そして時々、師ヨハネと共に町に出かけて説教をする。そのような生活は若きイエスにとって今まで経験したことのないような楽しい生活であったに違いない。それはまさに、「天使に仕えられる」ような生活だったと表現したのであろう。
イエスにおける「荒れ野の生活」をそのように想像するのは「妄想」であろうか。イエスが母と兄弟姉妹との生活を捨てて、ナザレから出て来た理由については私たちは何も判らない。むしろ、マルコ福音書6章に描かれている郷里の人たちのイエスに対する冷たい視点を考えると、その一種の「家出・出家」はかなり批判されていたのではなかろうか。
荒れ野におけるイエスの一種の修道生活は何らかの点で、エッセネ派と関係があったのか、なかったのかは、判らない。洗礼者ヨハネの元での生活についても、何も判らない。すべては、私の妄想かも知れない。

4.サタンによる誘惑
さて、肝腎の「サタンの誘惑」とは何か。マルコはその誘惑の内容について一言も述べていない。ただ、「サタンから誘惑を受けられたのです」とだけ述べられている。新共同訳では「誘惑」という言葉が用いられているが、口語訳、文語訳では「試み」であり、塚本訳でも「試み」である。文脈の流れから見ると、試みる者、ないしは誘惑者が明瞭に述べられているのにその内容が具体的に述べられていない以上、やはり「誘惑」と訳すのが妥当だと思われる。ここではサタンは試験管ではなく誘惑者である。これを「試みる」と訳すのはやはらマタイやルカに影響されているからであろう。誘惑という場合、誘惑者の存在もある場合もあるだろうがむしろ誘惑される者の内面の問題でもある。そのうえで、ここでの誘惑の内容について結論的なことを述べると、要するに、居心地の良さは自分に与えられた使命を忘れさせるということである。
イエスにとって荒れ野での生活は快適ではないにせよ、居心地のいいものであったにちがいない。このまま、ここで一生をすごしてもいいぐらいに思っていたのかも知れない。つまり、ここでの生活自体が誘惑であった。それはイエスが家族を捨ててナザレから出て来たイエスの使命感を忘れさせる誘惑であった。また、洗礼者ヨハネとの別れを惜しむ気持ちでもあったと思われる。イエスの中にはヨハネの生き方に共鳴するものが少なくなかった。しかし、いつまでもヨハネと共に荒れ野での生活を続けるわけにはいかない、という声も心の内面から聞こえてくる。
ちょうどその頃、ヨハネが捕らえられた。この時を期にイエスは荒れ野での生活を捨てて、ガリラヤの町に出て、彼独自の生き方を始める。それが福音を語るということであった。

最新の画像もっと見る