ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

2月14日(水)のFB

2018-02-15 08:27:35 | ツイッター
お早うございます。主の平和。2月14日、水曜日。気温:-2度、最高気温:14度。今日は日差しが届いて、穏やかな陽気。朝と昼との温度差が大きい。11時半就寝、トイレは3回、熟睡、5時半起床。体温:--.-度、血圧(127:84、83)。血液粘度:0.41、血液酸素:96%。体調:快調。チュンチュン

31Minae Moriwakiさん、瀧本 直子さん、他29人
コメント
望月 克仁 お早うございます。

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

小貫 ツマ お早うございます。主の平和!
今日は灰の水曜日、夜7時から下町の教会合同の礼拝が神田であるので行ってきます。

藤木 冨士子 おはようございます。

村田 多鶴子 おはようございます~♪
浜松は晴れ、最高気温は11度、強風・波浪・乾燥の各注意報が出ています。
先生ご夫妻がお守りの内に穏やかな一日をお過ごしになられます様にm(__)m

文屋 善明
昨日の日誌:
朝食前に採血。午前中に点滴。採血の結果は、芽球葉細胞も5.0まで下がり「非常に良い」。木曜日にもう一度輸血の予定。
午後から、久子が来てシャワーを浴びる。昼食の他にお握りを3つペロリ。その後、昼寝。
よる、「林修の今でしょう」で高齢者の健康問題。9時から2時間半「007/ダイヤモンドは永遠に」を見て11時半に就寝。

23Minae Moriwakiさん、磯野 眞紀子さん、他21人

文屋 善明
お目覚めの花。今日は大斎始日、いわゆる「灰の水曜日」で、「大斎懺悔式」がもたれる。現行の祈祷書にはなくなったが古い祈祷書ではその式文も準備されていた。世間では聖バレンタインのことも知らずに、「バレンタインデー」として騒がれている。
西暦3世紀のローマで、皇帝クラウディウス2世(在位268-270)は、若者たちがなかなか戦争に出たがらないので、手を焼いていた。その理由は彼らが自分の家族や愛する者たちを去りたくないからであった。それで皇帝クラウディウスは、戦役拒否をする若者たちの結婚を禁止する法令を発した。バレンタイン司祭は、この法令に逆らって密かに婚礼を挙げつづけ、若者たちはバレンタイン司祭の元に集まるようになったという。やがてそのことが皇帝にばれてしまい、バレンタイン司祭は投獄、改宗を命じられ、命令に応じなかったバレンタインはついに死刑を宣告された。つまり聖バレンタインは現代的にいうと「反戦の司祭」だっということである。
画像に含まれている可能性があるもの:花、植物、自然、屋外

37瀧本 直子さん、磯野 眞紀子さん、他35人
コメント
若月 新一 おはようございます。

Minae Moriwaki こんばんは!
春のおとずれとともに咲く、希望の水仙ですね。
今晩、先生と久子さんによい休息の時がありますように。

文屋 善明
2018 日々の聖句 2月14日(水)
(わたしの声に聞き従え。そうすれば、)わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。(わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。)(エレミア7:23)
イエスの言葉:わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(ヨハネ8:31~32)
私の黙想:
ローズンゲンが選んだ聖句はエレミア7:23の括弧をはずした部分だけである。この部分は、私の大好きな聖句の一つである。それは既に何度もいろいろなところで取り上げているので、今日は23節全体を今日の聖句として取り上げる。そうすると、面白いことに、今日の新約聖書の聖句とぴったりする。
いや、というよりも使徒ヨハネはエレミヤ7:23の「わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」という言葉をイエスの口から発せさせると、つまりイエスの時代に読み替える「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」という言葉に変換される。
それを、さらに私たちの時代に変換させると、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」という言葉になる。ここには一貫した聖書のメッセージが低音として響いている。
もうそれ以上の解説は不要であろう。

23Minae Moriwakiさん、瀧本 直子さん、他21人

文屋 善明
今日の名言:@gandhi_tamashii
都市による搾取がなくなったとき、初めて村は生き返る。都市の象徴は言うまでもなく大規模な工業化であり、これらのものは間違いなく、市場での競争原理を生み出す。この原理が村に住む人々を搾取してきたのだ。(『ガンディー 魂の言葉』)
<一言>東京による搾取がなくなったら東北は生き返る、と言い換えることができる。フクシマの復興がままならないのは、東京電力がフクシマにあるからである。

20Minae Moriwakiさん、瀧本 直子さん、他18人

文屋 善明
今日は大斎始日だ。ということで、次の文章を再掲しておきます。
大斎懺悔式における「 警 告 」
1.大斎懺悔式の勧告
兄弟姉妹よ、むかし教会においては明らかに大罪を犯した者を大斎の初めに当たり、会衆の前にて懲らしめる慣習がありました。これは、この世において罰せられたとしても、主の日に救わるためであり、また他人に対しても警告となり、罪を犯すことの恐ろしさを教えるためでもありました。また、罪に対する神の大いなる怒りと、悔い改ためない者への来るべき審きとを思い、罪と怠惰とを嘆き、生活を改めることを決心させ、神のあわれみを祈るためのものであります。
今や、木の根本に斧は置かれています。すべて良き実を結ばない木は切られて火に投げ入れられます。盗賊が夜、誰もが寝静まっている時に来るように、主の日はまさかと思っているときに近づいて来ます。人々が平和だ、無事だと思っているときに、滅びが突然やって来ます。主は言われる。「その時、彼らはわたしを呼ぶ。しかし、わたしは答えない。必死になってわたしを求めるであろう。しかし、わたしは決して会わない。彼らは自ら反省することもなく、わたしの言葉を無視し、わたしの警告を真剣に考えず、わたしの怒りを軽視したからである」と。門が閉まってからいくら叩いても遅すぎます。審判が始まってから、反省してももう間に合いません。その時、彼らの罪を公正に裁く主は、恐ろしい声で厳かに宣言されるでありましょう。「呪われた者よ、わたしを離れて悪魔とその手下どものために用意されている地獄の火の中に入れ」と。
だから、兄弟姉妹よ、救いの日が終わらない内に、生活を整えなさい。夜が来たら、誰も何もできなくなってしまいます。光のある内に、光を信じ、光の子どものように歩きなさい。神の恵をおろそかにしてはなりません。神は大いなるあわれみをもって、わたしたちを悔い改めに導き、また真心をもって反省する者を赦すと約束してくださいました。わたしたちは確かに罪を犯しましが、わたしたちのために取りなしをしてくださるイエス・キリストが父なる神の前に立っておられます。主は、わたしたちの罪のための宥めの供え物となってくださいました。主は、わたしたちの咎のために自ら傷つかれ、わたしたちの不正のために身代わりになって罰を受けてくださいました。
だから、憐れみ深い主に帰ろうではありませんか。主は必ずわたしたちを受け入れ、わたしたちの罪をお赦しくださいます。このことを疑ってはなりません。常に、主に見習ってへりくだり、耐え忍び、愛する心を持ち、聖霊の導きに従って、主の栄光を現し、感謝して主に仕えることを努めましょう。
願わくは大いなるあわれみによって、わたしたちを御国に至らせてください。アーメン
2.罪に対する警告について
以上の言葉は文語祈祷書の大斎懺悔式の後ろに付加されている「勧告」を現代風にアレンジしたものであります。残念ながら、新しい祈祷書ではこれが省かれてしまっています。確かに、この文章をそのままで読んだり聞いたりいたしますと、時代のズレを感じさせるところもありますが、罪を犯すという点では現代人も中世の人も違いはないわけですから、ここで語られ、警告されていることが不用になった訳ではありません。
この勧告の元になっておりますものは、1549年の第1祈祷書にあります。長さはおおよそこれの約3倍ほどありますが、主旨は大体同じものです。英語では「コミネイション」(commination)と呼ばれております。意味は、勧告というような甘いものではなく、「威喝」「脅し」ということで、かなり厳しいものです。わたしはこのコミネイションは「警告」と訳すのが適当であろうと思っています。つまり、高速道路などを走っていると、時々「スピード出し過ぎ警告」というマークがでます。その他にも、警察が出す「警告」は色々あります。つまり「警告」とは、犯罪または罪を犯している人に対して、今すぐそれを止めないと「罰せられる」ということを「警告」するのです。警察の警告が意味があるのは、警察には「罰を与える」権力があるからです。「罰すること」のできないものがいくら警告しても、効果はありません。
現在の「共同懺悔」は「大斎始日、その他の日に」なされるように、勧められておりますが、元来は「年に4回、つまり降臨節の主日、大斎節の第1主日、三位一体主日、聖母マリア被昇天日(8月15日)後の最初の主日」になされていたようです。考えてみますと、中世の教会は社会と人々に対して年に4回も「警告」をしていたのです。現在の祈祷書でこの「警告」というものを省いてしまった理由は、それが余りにも「ペニンシャル」であるという。意味は、「悔い改めすぎる」というか、懺悔的すぎるというか、要するに暗く、重いということであろおう。しかし、それは本当だろうか。わたしたちの信仰生活において、そういう面が軽視され、まさに文字どおり「軽く見られる」時に、信仰生活それ自体が「軽く」なるのではないか。むしろ、「罪」というものを重視し、重く考えるほど、恵は深く、大きく、なるのではないか。塩気を失った塩が無意味なように、「苦味を失ったコーヒー」が飲めないように、「警告」を失った宗教は、遊びの世界、無邪気な子どもの世界と同じである。
古い祈祷書の「勧告」
古い祈祷書では「大斎懺悔式」の式文があった。「この式は大斎始日その他主教の定める日に用いる」と定められていた。この式文で重要なことは、「説教のないときに司式者が行う「勧告」があったことである。現行祈祷書において、この勧告文がなくなったことは非常に残念なことである。ここに貴重な歴史的文書として勧告文を掲載しておく。
兄弟よ、むかし公会には明らかに大罪を犯したる者を大斎の初めに当たり、会衆の前にて懲らしむるならいあり。これ、この世にて罰せらるとも、主の日に救われんため、また他人にも戒めとなりて罪を犯すことを恐れしめんためにして、罪に対する神の大いなる怒りと、悔い改めざる者にきたるベきさばきとを思い、罪と怠りとを嘆き、行いを改むることを決心し、神のあわれみを願うためなり。
今や木の根におのは置かる、ゆえにすベて良き実を結ばざる木は切られ火に投げ入れらる。主の日のきたるはぬすびとの夜きたるがごとし、人びと平和無事なりと思うとき滅びたちまちきたらん、主言い給う、「その時かれら我を呼ばん、されど我こたえじ。ひたすら我を求めん、されど我に会わじ。彼ら知識を憎み、主をおそるる事を喜ばず、わか勧めに従わず、すべてわが懲らしめを卑しめたるによりてなり」と 。門を閉じて後たたくは遅れたり、さばきのときあわれみを願うはおそし。その時かれらの罪を正しく定めたもう主は、いと畏るべき声にて言いたまわん。「のろわれたる者よ、我を離れて悪魔とその使いらのために備えられたる消えざる火に入れ」と。
ゆえに兄弟よ、救いの日の過ぎざるうちに慎むべし、夜きたらば、たれも、わざをなすことあたわず。されば光あるうちに光を信じ、光の子のごとく歩むベし。神の恵みをなみするなかれ。神は大いなるあわれみをもって我らを悔い改めに導き、また真心をもって帰る者の罪を赦すことを約したまえり。我ら罪を犯したれども、我らをとりなす義なるるイエス・キリスト父のまえにあり、彼は我らの罪のために、なだめの供え物なり。彼は我らのとがのために傷つけられ、我らの不義のために打たれたまえり。
ゆえにあわれみ深き主に帰るベし。必ず我らを受け、我らの罪を赦したもうことを疑うなかれ。常に主にならいてへりくだり、耐え忍び、愛する心をいだき、聖霊の導きに従い、主の栄光をあらわし、感謝して主に仕うることを努むべし。
願わくは大いなるあわれみによりて、我らを御国に至らせたまわんことを アーメン(旧祈祷書515~516頁)

26Minae Moriwakiさん、磯野 眞紀子さん、他24人
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岩城 真紀子 開いてもう一度読みます。

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