ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 05/16

2012-05-17 05:55:55 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。昨日は午前中読書。一貫した霊のイメージを聖書から抽出することは困難。「フィリオケ」を挿入することによって聖霊論だけではなく神論にもキリスト論にも決定的な影響を及ぼす。「リーガル・ハイ」を見て10時に就寝、今朝は4時半に起床。体調快調。チュン、チュン
posted at 04:53:25

#losungenj 05.16(wed)
主よ、御もとに立ち帰らせてくださいわたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして昔のようにしてください。(Lam5:21)
posted at 05:05:41
#losungenj イエスの言葉:ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。(Mat18:12)
posted at 05:06:17
#losungenj 私の黙想:
実に素直な悔い改めのことばだ。細々として「罪」を羅列しない。ただ、あなたの元を離れたという事実だけを「悔い」、「昔のような」関係の戻りたいという。その意味では、これに「放蕩息子の悔い改め物語」を対応させていないのは非常に良い。
posted at 05:11:58

今日の名言:RT @kotoba_bot:
「電車が混んでて遅れます」。
<一言>たまにはこういう「名言(迷言)」もお許し下さい。これを読んだ時、思わず吹き出し、誰かのことを思い浮かべました。それが誰かということは秘密です。でも、私もこれと同じような言い訳をよくします。ははは。
posted at 05:29:33

お早うございます。良いじゃない。今日も元気で。RT @rucat501: 12時間くらい寝た。おはようございます。
posted at 05:33:55

「昨日のツイート 05/15」をブログにアップしました。 http://t.co/BTo4AiNv
posted at 05:43:21

@Facata_Romance 腓返りの特効薬(漢方薬)がありますよ。私は殆ど毎晩飲んで寝ます。それ以後ならなくなりました。医者が処方してくれます。
posted at 06:38:47
@
Facata_Romance 私も今医者から帰ってきたところで、薬に整理が一仕事です。
posted at 11:44:50

今、クリニックで診察して貰い帰宅。山ほど薬を処方して貰ってきました。まぁ、大体は異常なし。
posted at 11:55:09

欲しいものが手に入りましたか。RT @rucat501: 久々のヨドバシ、梅田は楽しいね!
posted at 17:02:07

今日は午後からふるさと正助村とグローバルアリーナにウオーキングに出かけました。ちょうど春の花から夏の花への植え替えのため、花は少なく残念でした。それでもウオーキングだけはしっかり出来ました。
posted at 17:24:10

<FBより>
今朝の朝日新聞(西部本社版)で、小さくない見出しで「玄海停止 損失34億円(年間)」という地元商工会の試算が堂々と掲載されている。つまり唐津市と玄海町で本来ならば儲けるべきはずの金が儲からなかったという計算である。朝日はなぜ、こんなつまらない記事を掲載するのだろう。こんな記事を掲げるぐらいならば、東北地方で使用できなくなった土地代、その地域で失われたが資産、これからの何年間かにわたる経済活動の損失分を計算して欲しい。あるいは、東北地方の試算を参考にして、玄海原発で事故が起こった場合の「損失資産」も併せて出して欲しい。それと比較して、初めてこの記事の意味が出てくる。

文屋 敬 いやいや「地方版」の意味を考えましょう。地方版として意味があると判断されたから掲載されたんです。ご指摘の試算はすでにいくつくかの機関が計算していろいろな媒体で発表されていると思います。もちろんその中には朝日新聞も含まれます。それは「地方版」にも「全国版」にも。
朝日新聞は以前(20年以上前)に比べると愚かな記者や編集者が増えていますが、「意味のないこと」はやっていません。残念ながら。

文屋 善明 そうです。マスコミは意味のないことはしないでしょう。問題はその意味の内容です。彼らはこの記事を通して、他のデーターを示さずに、ただ34億円という数字を前面に出すことによって大きな損失を印象付け、原発再稼働の方向に世論を誘導しているものと思われます。
<補遺>三一論を考えていると、どんどん可笑しくなる。松村先生の『アウグスチヌスにおける三一論』は神学の方法論としては非常に面白い。ここに根源的論理としてのアナロギア・イマギニスの出発点がある。しかし、それはあくまでも「神学の方法論」であって、神学の本論ではない。キリスト教会は本格的な意味で神論を論じてこなかったのではなかろうか。神学の出発点はイエスは「神か人か」ということであって、その場合に神論は前提に過ぎない。そして、そこで露呈されたキリスト教の神論の矛盾点は解消されずにそのまま呑み込んでしまった。そして、それが再び聖霊論において爆発してしまった。それが三一論が神学の本論になり得ない原因であろう。バルともティリッヒも三一論を神学の枠、方法論として受け入れている。松村も同じ。


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