ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 05/15

2012-05-16 05:31:56 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。昨日は午前中読書。午後から松村克己の「三一論」をまとめる。キリスト教大辞典(教文館、1963)が簡潔にして要を得ている。あの頃は日本の教会にもまだ勢いがあった。「たけしのTVタックル」見て10時半に就寝、今朝は5時半に起床。体調快調。チュン、チュン
posted at 06:01:19

#losungenj 05.15(tue) わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる。(Eze37:14)
posted at 06:15:24
#losungenj 最後の敵として、死が滅ぼされます。(1cor15:26)
posted at 06:16:00
#losungenj 私の黙想:
霊が吹き込まれると「生きる」。霊とは神が私たちに吹き込む「いのち」なのだ。霊が吹き込まれることを「霊が降る」と外的出来事に置き換えたことによって、霊についての理解が変化した。「聖霊は命の与え主、父と子から出られ」、ここが聖霊論のポイントである。
posted at 06:22:35

文屋 善明 ニケア信経にギリシャ語からラテン語へ翻訳する際にローマ教会において書き加えられた「子から(フィリオクェ)」という言葉が問題。何が,どう違うのか熟考。

三宅 善信  文屋先生: 「Filioque」は、「子から」ではなくて「子(から)も」という意味じやないですか? たしか原文は「ex Patre Filioque procedit」だったと思います。文字通り訳せば、「から、父、息子も、出て」ですから、こなれた日本語に訳せば、「(聖霊は)父からも、また、息子からも出て」となりませんか?

文屋 善明 その通りです。

三宅 善信  私は、キリスト教が「世界宗教」になれたのは、この「翻訳」というプロセスを何度も繰り返す毎に、いろんな知恵という厚みが加わって行ったからだと思います。どう翻訳する(解釈する)か?というのは、まさに、神学的営みそのものですからね…。その点、「言上げせず」なんて言っている神道なんか、神学的には極めてプリミティブな宗教に過ぎません。本当は、「言上げせず」なんかじゃなくて、神職たちに「言上げするだけの能力がない」だけなんですけれどね…。

今日の名言:RT @meigennavi: するのが怖いということは、次にすべきことがハッキリしているということだ。(エマーソン)
<一言>その結果が明白な時、本当に怖い。原発を再稼働させれば、どうなるか。結果は明白だ。だから怖い。日本の何もかもが失われる。再稼働を阻止せねば。
posted at 06:41:52

「昨日のツイート 05/14」をブログにアップしました。 http://t.co/8V09Os42
posted at 07:06:08

<FBより>
「ハレ・ケ・ケガレ」の三態について、ちょうど昨日読んだところなので、参考までに紹介しておきます。
内田樹・釈徹宗『現代霊性論』で、釈徹宗さんは次のように説明している。
「ハレ・ケ・ケガレ」の三態は民俗学あるいは文化人類学等で特に日本文化の生活形態を3つの変換態で説明する概念である。
「ケ」とは日常のこと。古語では「褻」(猥褻の「せつ」)という字が用いられている。古語では普段着のことを「褻着(けぎ)」と呼ぶ。これはいわばニュートラルな状態である。それに対して「ハレ」も「ケガレ」も非日常の状態を意味する。
大雑把に言うと、「ハレ」が聖の非日常で、「ケガレ」が負の非日常を意味する。「晴れ着」とか「晴れ舞台」のハレであり、エネルギーが非常に活性化し「張れ」ている状態である。そこでは日常では許されないような規範やルールも破ることができる。
「ケガレ」は「気枯れ(気が枯れる)」というのが元々の意味だといわれている。エネルギーが枯渇している状態。「毛枯れ」とか「毛離れ」とかいわれる。この場合「毛」とはは農作物を意味する。たとえば、「二毛作」など。これは農耕民にとっては最悪の状態である。
代表的な「ケガレ」には、黒いケガレと赤いケガレがあり、「黒」とは死を意味し、「赤」とは血を意味する。これに関わった人間は「穢れ」状態にあるとされる。その間暫く自粛生活を送らねばならない。ハレもケガレも一時的状態でやがてケの状態に戻る。これが日本の宗教文化の特徴となっている。すべてが一時的な状態である。

<補遺>どうしても重要なことはフェイスブックにだけ発信するようです。そこでの重要な発信や、話し合いは出来るだけブログにもアップするようにしています。

最新の画像もっと見る