ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

動詞と形容詞

2009-09-02 11:37:01 | ときのまにまに
今朝の天声人語に面白いことが書いてあった。13年ほど前、中曽根元首相が、当時新党さきがけの代表幹事だった鳩山由紀夫さんに「政治は、美しいとか、キラリと光るとか、形容詞でやるのでなく、動詞でやるものだ」と言ったという。この厳しい意見に対して、鳩山さんは「行動の前に哲学的な形容詞を大事にするべきではないか」と反論したという。政治の本質が動詞か形容詞かということについての議論は別として、対立する政党間のリーダー同士でこういう議論がなされたという事実が面白い。今さらそんなことを言っても仕方がないが、今度の選挙戦で最もうんざりしたことは、本来「横綱土俵」を務めるべき現政権が、自党の「無責任力」(変な言葉)や怠慢を棚に上げて、相手方の「揚げ足」ばかりを繰り返したことである。
中曽根さんと鳩山さんとのヤリトリはいろいろな見方はあるだろうが、老齢なベテラン政治家が党派を超えて、若い政治家への助言として見るとき、その場での鳩山さんの反論は「若気の至り」で微笑ましいものがあるが、鳩山さんがその後の政治生活の中で、「政治は動詞でやるもの」というアドバイスをどう理解し、身に付けたのかということが今問われている。美しい形容詞は大衆を惹き付けるかも知れないが、政治家に問われている課題は「何をどうする」という動詞的な世界である。形容詞によって表現される微妙なニュアンスが通じるのは共通の言語によって支えられている世界内部である。ところが、この形容詞を他の言語に移し替えると全く逆の意味になったり、意味不明になったりする。従って外交面では形容詞は全く無力である。例えば、鳩山さんの反論において「哲学的な形容詞」という言葉があるが、これも意味不明である。哲学は形容詞の世界ではなく名詞あるいは動詞の世界である。詩ではなく散文の世界である。

参考までに今朝の天声人語を掲載しておく。
≪ものを書くときに形容詞の扱いは難しい。うまく使えば引き立つが、下手だと言葉は浮いてしまう。文章は形容詞から腐ると言ったのは、たしか作家の開高健だった。飾り言葉は美味(おい)しいだけに朽ちるのも早い▼古い記事を読んでいたら、中曽根元首相が、当時新党さきがけの代表幹事だった鳩山由紀夫氏に注文をつけていた。「政治は、美しいとか、キラリと光るとか、形容詞でやるのでなく、動詞でやるものだ」と。13年前、旧民主党を結成する直前のことである▼辛口の意見に、鳩山氏は「行動の前に哲学的な形容詞を大事にするべきではないか」と反論していた。政治スタイルや人生観の違いだろう。氏は今も、「愛のあふれる」といった、扱いの難しい言葉を好んで語る。哲学を重んじる姿勢は変わっていないようだ▼政治に力強い動詞は欠かせない。政策を進める意志である。動詞なき形容詞は、絵に描いた餅の飾りにすぎない。とはいえ形容詞を欠く動詞もまた、やせ細った政治だろう。持ち味の形容詞を腐らせない実行力が、いよいよ試される▼16日には特別国会が召集されて首相指名を受ける。就任会見や所信表明での一言一句が吟味され、そこから先は容赦のない現実が待つ。言葉で訴えたもろもろの実(じつ)が問われる。期待のすぐ横に失望の奈落が口を開けているのは、新政権の常である▼「言行一致の美名を得る為には、まず自己弁護に長じなければならぬ」と皮肉屋の芥川龍之介は言った。せっかくの形容詞が、そのために乱れ飛ぶようでは、国民は失望する。 ≫

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