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松村克己『ヨハネ福音書講釈』再話(07)<10:1~42>

2015-06-24 09:10:05 | 松村克己関係
松村克己『ヨハネ福音書講釈』再話(07)<10:1~42>

第10章

この章ではまた資料上の錯簡(乱丁)ということが問題となる。19~29節の部分は9章に続けて読むと連絡もよく、30節は18節に続けるとスムーズである。
著者はこれらの教えの語られた時点として「宮潔め」の祭りを挙げている(22節)。これはキスレゥの月(12月中旬)の25日に始まって8日間続く祭りである。エズラ書6:16に記される献堂式に起源を持つが、イエスの当時には別の理由から過ぎ越しの祭り、仮庵の祭りと共に3大祭りとして盛大に祝われていた。それは紀元前168年、当時の領主なるシリヤのセレウコス家のアンティオコス・エピファーネスが熱狂的にギリシャ化政策をすすめ、ユダヤの伝統を根こそぎに撲滅しようとして、エルサレム神殿を暴力的に汚し、至聖所にはジュピターの像が置き、祭壇の上にはユダヤ人の嫌う豚を屠るということを行った。ユダヤ人の憤激と怨恨はついに地方都市モディンの老祭司マタティアとその5人の息子たちを立ち上がらせ、彼らの先導とされるゲリラ的反抗運動となった。護国の熱情と信仰の自由のために戦う一念は遂にシリヤの守備隊を国境に押し退け、長子ユダによって165年には神殿を奪還し、これを潔めて聖別式を挙げた。それ以来、ローマの支配下に立つまで約100年あまりの間、いわゆるマカベア(ハスモン)家によるユダヤの独立が曲がりなりにも続き、この事件はキリスト待望を人々の心に再び燃やし立てたのであった。宮潔めの祭りはこれを記念して行なわれる。7章に出て来た仮庵の祭りから2~3ヵ月の時が経っていることになる。祭りの時は何時もイエスが何か大きなことをしたり、重要な発言や教えを語る機会でもあった。そしてこの後イエスは「再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在」され、そこで「そこでは、多くの人がイエスを信じた」ということが記録されている。そしてここには、11:7まで留まったことになる。

1.羊飼いの譬 (1~18)
羊飼いの譬えはヨハネ福音書では珍しい譬え話であって、15章のぶどうの木の譬えと共に他には見いだされないものであるが、注意して見ると、これらは共観福音書に多く出てくるような本来の譬え話ではなく、むしろ寓話(アレゴリー)に近いものである。そしてここには同時に解釈が含まれており、そこから主要な教えが与えられる。
この部分を詳しく見ると、1節から6節、7節から10節、11節から18節、の3つの部分から構成されている。それらはもともと個々別々の言葉であったものが、同じ主題に関係しているということで一つにまとめられたものと思われる。
第1の部分は理想的な羊飼いを描いた単なる譬えであり、第2の部分はその解釈である。第1の譬えが人々にわからなかったのでイエスは再び第2の発言をして、これを説明したという形式になっている。しかし、イエスが譬え話の説明を行なったことはないと思われる。元来譬え話というものは説明をしなくてはわからない謎や寓話ではないからである。
この第2の部分ではキリストは「羊の門である」と言われている。これらの譬え話が羊の門と呼ばれる門のほとりで説かれたのではあるまいかと想像する人もある。
第3の部分は別の解釈で、キリストは「良い羊飼い」と言われている。前者よりもより自然な解釈である。しかし、ヨハネの当時すでに2種類のキリスト観が存在していて、それがここに反映しているのだろうと考えられる。ひとつはキリストを教会にとってまた教師たちにとって門と見る考え方であり、もうひとつはキリスト者の群また一人一人の信徒にとって牧者と見る見方である。

(1) 牧羊犬の譬え(1~6)
さて神の民を羊の群とする見方は旧約聖書において最も親しみあるまた古い譬えである。エゼキエル書にはさらにキリストは「牧者の牧者」とされている(34:11,23)。「門から入る者」とは教会の正しき教師、牧者を指し、「盗人・強盗」とは偽りの教師であり、不法を行い、教会に入りこんで群の羊を奪い荒らす者を指している。このような関連においてキリストは門であると言われる。
「門番」とは、何を意味するのだろうか。恐らくこれは単に叙述を詳細にするために持ち出されたもので、これを神とかモーセとかに当てはめるのは正しくないであろう。門を開いて檻に入って羊飼いは羊の名を一つ一つ呼び、羊はその声に応じて従って行く。「連れ出す」という言葉にはキリスト教がユダヤ教より分離して独立したことが暗示されているかも知れない。癒やされた盲人がユダヤ教から追放されてイエスに呼ばれて行ったこと(9:34)もなお記憶にあるに違いない。キリストの群は当時から引き継いでなおヨハネの時代にもユダヤ教の中から引き出されつつあった。「自分の羊をすべて引き出すと」という動詞は、9:34の「追い出した」と同じ単語である。迫害は神の業であり恵みである。そしてその先頭にキリストは立って迫害された人々を導いて行く。「羊はその声を知っているので、ついて行く」。「神に属する者は神の言葉を聞く」(8:47)。羊という動物はその声を知らない者には従わない。

(2) 羊の門の譬え(7~10)
「わたしは羊の門である」。前段の譬えをさらに明らかにしようとして、キリストの牧者たちや教師たちに対する関係、さらにそれを通して羊の群への関係を示そうとする。牧者と群との関係およびその安全は門によって支えられ守られている。以下10節までの部分は、著者による解説で当時の教会の状況や問題を反映していると思われる。キリストによってのみ羊の群は守られ、また彼によってのみ牧者はその群に近づくことが出来る。この句を理解できないとして「わたしは羊飼いである」と読み替えしようとする人もいるが、どのテキストにもそのような恣意的な解釈をする根拠はない。「わたしよりも前にきた人」(8節)とは真の牧者が来る前に来る偽教師を考えているが、ここではいつの間にかキリスト自身が牧者とされている。「盗人」とは神の民を私物化し、食い物にする人のことである(エゼキエル34:1以下、エレミヤ23:1以下)。偽教師はいくら熱心に見え、親切そうに見えてもその意図は自分自身の私腹をこらすためにやって来るのであって、真の牧者は羊の群の主人を思い、羊を愛する心に貫かれている。前者に対しては「羊は彼らに聞き従わなかった」(8節)。神の子は彼らが神よりのものかどうかを考える眼、霊の賜物を与えられている(1ヨハネ4:1、1コリント12:10)。
「わたしは門である」という主題が再び繰り返される。「わたしをとおってはいる者」とは羊(信徒)であり、その世話をする牧者、教師である。信徒は牧者、教師を通して大牧者であるキリストによって救われる。そして羊は成長するための「牧草にありつく」ことが出来る。
キリストが門であるということは具体的には教会が門であるということを意味する。パウロがキリストというとき、体で直接に感じることができるものとしては教会を意味していた(1コリント12:12)。人々が出入りして救われる門が教会であり、そこで養いとして与えられる「牧草」は恐らく「真のパン」「天から下ってきてこの世に命を与えるもの」(6:34,35)、つまり聖餐式のパンとワインとを意味している。「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(10節)。

(3) キリストは良い羊飼い(11~18)
著者は自分自身の「救い」の恵みを思い起こし、その思いが「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という言葉になる。それは著者がイエスの胸に頭を埋めて、心臓の鼓動を聴きとるようにして聴きとった主の言葉であったに違いない。ヨハネ福音書には教会という言葉は一語も使われていない。しかし、それは教会という考えが彼の中になかったとか希薄であったということを意味しない。むしろ、彼は絶えずこれを念頭に置き、そこからすべてのことを語っている。だからこそ、かえって「教会」という言葉が表に出てこないのであろう。事実、教会という現実の地盤を抜きにしてヨハネ福音書を理解しようとするならば、それは宙に漂うような瞑想の産物としてしか受けとれないであろう。また謎のような多くの言葉は教会という背景を念頭に入れるとき、驚くべき具体性と生命とを得る。この個所もまたその典型である。教会はキリストが生命を捨てて、その血と裂かれた肉とによって立ちまた守られている。贖われた羊を奪い散らす者は外から侵入してくる盗人だけではなくして、自分自身の私腹をこらす「雇人」である。彼らは羊と親密な関係を持つことができず、愛によって彼とその群とが結ばれてはいないために「おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る」。困難にあって背教して行った人々を身近かに多く持った著者の苦い経験が背景にあるに違いない。このような任務をすてて逃げ去る人々によって教会が荒らされることは昔も今も変わらない(1コリント2:18-19、22)。

14節
「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている」。羊飼いと羊との間には濃密な愛情の関係が成り立っていて、著者はここに神との人格的共同への通路を見いだしていた。この譬えはイエスと弟子たちとの関係として実現されまた、充実された。この関係は、「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と教えられている。キリスト者の究極の安全は単にイエスを知っていること、イエスに知られていることだけにあるのではない。このことがさらに深い基礎によって支えられているところにある。すなわちイエスと父との関係にまで掘り下げられて、ここに根をおろしていることである。イエスは父の心を知りまた羊の必要を知っている。だから「羊のために命を捨て」たのである。

16節
「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない」。初代教会の信者たちはユダヤ人またユダヤ教からの改宗者だけで構成されていたのではない。エルサレムの初代教会は紀元70年のエルサレム陥落と共に分散したが、その前に既にアンテオケの教会を中心拠点とする非ユダヤ人への伝道の結果として、小アジア各地に教会が成立していた。それらの教会によってキリスト教は帝国の各地に拡がりつつあった。初代教会にはまだ固定した教会制度や組織はなかったが、互いにキリストの名を重んじ、その群を尊重しエルサレム教会の人々を「母なる教会」として仰いで、相互に連絡しあい、安否を問いあう関係であった。各地の教会はそれぞれ自由と独立とを保ちつつ、一体感を失うことはなかった。しかし、この一体感は絶えず異なる教えを説く偽教師たちと戦いつつ、霊において保たれる一致であった。「この囲いに入っていないほかの羊」とはユダヤ教から移ってきた信徒以外の人たちを指している。「あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである」(マタイ23:8,10)という意識を支えるものはキリストであった。「彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう」(16節)。これはミレニアムを越える教会の理想である。そしてこれはまたエゼキエル以来の希望(34:20-24)であって、初代教会で生まれた観念ではない。この点でもイエスは律法を完成する者であった。
一つの群、一人の牧者。ここに溢れる生命の現実があり、またその秘密がある。この生命を父より受けるためにイエスは自分の生命を捨てた。それは羊のため、父に捧げられたのであって、誰かがイエスから強制的に奪ったものではない。イエス自身が進んで捨てたのである。自ら進んで捨てた生命であるので、再びこれを受けることが出来る。この権利は命令として父より受けたものであり、この命令に喜んで従ったところに父の愛は彼に溢れたのであった。この愛がすべての群を一つに保つ。「わたしと父とは一つである」(30節)ように。

2.イエスとその羊 (19~29)

イエスの言葉が人々に理解されないとき、必ずと言っていいほど混乱と分争が始まり(7:43、9:16)、イエスは狂っている、悪霊にとり憑かれているなどと悪口を言う(8:48、マルコ3:21)。「どうして、あなたがたはその言うことを聞くのか」とは、彼の言うことは馬鹿馬鹿しくて聞いておれないという意味である。しかし他の人たちは話は難しいが、彼が行っていることは無視できないと思い、「これは悪霊に取りつかれた者の言葉ではない。悪霊は盲人の目をあけることができようか」と反駁する。福音書記者は何れもイエスの言葉は彼の行為によって理解されることを読者に求めている。イエス自身も彼の言葉を理解出来ない人々に「たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい」(38節)と言い、「わたしが行っているこの業が証ししている」(5:36)とも言う。
群衆がイエスについてそれぞれ勝手に意見を言い合い、論争・混乱する情勢を見て、ユダヤ人の指導者たちも頭を痛めていた。しかしそれに対する方策が決まらないままに放置されていたが、いよいよ何とかしなければということで、イエスに直接会い、イエス自身の証言を聞こうということになった。「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」(24節)。答えは簡単で「イエスかノー」しかない。しかしこの結論に至る争点は非常に微妙である。これに対してイエスは「わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない」と言う。「キリスト」という同じ言葉を使いながら、ユダヤ人たちとイエスとの間で意味されていることは全然異なる。その違いはまったく無関係と言っていいほど離れている。彼らは「はっきり言っていただきたい」と言うがイエスは「わたしはもう既に話した」と言う。この両者の溝を橋渡しするものが、実はイエスの行動である。しかしこれも決定的に黒白をはっきりさせることにならない。「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない」(6:44)、「あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである」(26節)。結局、信仰の究極的な根拠は「選び」である。それは議論して納得できるような事柄ではない。だから「恵み(恩寵)」としか言えない。その理由を求めて、答えが出るようなことは「恵み(恩寵)」ではない。あらゆる思考と論議を停止して、ただ黙って、事実そのものが語ることに耳を傾ける。そこに宗教独自の世界が開かれる。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない」(27,28節)。これはイエスを信じる者の経験と確信とを、イエスを主体として言い換えた言葉である。そしてこの後半のことについては12章から15章で詳しく説明されている。
この部分を9章の終わりに続けて読もうとする見解の一つの根拠はここにある。さらにこの確信は、イエスの背後に隠れてはいるが厳然と立っておられる父なる神が存在している。イエスと神とが二重写しのようにして私たちの前に現われる時、イエスはキリストであるという告白が生まれる。このことをイエスの側から、イエス自身の言葉として語るとき、そこには人間となった神の子の限界、父なる神を指し示すことにおける限界があり、ただひたすら父なる神に従って生き、語ることを繰り返すしかない。そのもどかしさと不自然さを取り除く方法はない。しかし福音書が語る「この舌足らずの表現」、これこそが神の呼びかけであり、ここに聖霊が働く。

3.わたしと父とは一つである(30~42)

「わたしと父とは一つである」。人間には語るに語れない真実というものがある。真実は必ずしも語るべきもの、また語りうるものであるとは限らない。しかし真実は最後まで隠しとおせるものではない。「なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない」(マルコ4:22、マタイ10:26)。イエスはついに語るべきでないこと、彼の人格・人生の秘密を語ってしまった。「そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた」(31節)。イエスと父(なる神)とが一つであるというのは、同一ということではない。愛の共同・交わりにおける「一」である。それはあくまでも異なるもの、対立するものの間に成り立つ「一」である。形而上学的同一、存在における「一」ではなく倫理的一致、行動における「呼応の一」である。従ってこの「一」はキリストとキリスト者の間にも成り立つし、それによってわたしたちもまた神と一つでありうる。キリスト・イエスにありてわたしたちまた神の子とせられ、キリスト・イエスの心を心としてすべての人々と一つになることが出来る。
この一つは行為における「一」であることを強く訴えようとして、イエスはユダヤ人たちに問う「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」(32節)と。ユダヤ人たちはこのことを考えようとはしない。彼の言葉を「自分を神とする冒言」だと解釈する。イエスは旧約聖書を示して、このような解釈が形式的で皮相な解釈であることを教える。ここでの「律法」とは律法の書、つまり旧約聖書全体である。イエスが指摘した「あなたがたは神々である」という句は詩篇82:6からの引用である。そこでは更に続けて、「いと高き者の子」だと説明されている。旧約聖書では民族の支配者は神の代表者と見られ、神の人を神または神の子と呼んでいる。イエスはこの点を指摘して、聖書において「神の言を託された人々が神々と言われておる」とすれば、「父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか、と反論する。「わたしと父とは一つである」といい得るか否か、それは彼が「わたしが父のわざを行っているか否や」にかかっている。もし行なっていないとすれば「わたしを信じなくてもよい」。しかし行なっているならば、「たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい」。つまり、イエスが行っていることが神のわざであることだけは信じなくてはならないだろう。そしてこのことを信じるならば「父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」。「知って悟る」とは、信仰における知識は体験と共に徐々に発展する者であることを示している。
議論において敗けた人々は暴力で「イエスを捕えようとしたが、イエスは彼らの手をのがれて、去って行かれた」。
律法学者やファリサイ派の人々、つまりユダヤ人たちの指導者たちがイエスの言論で躓いたのに対して、群衆は、その言葉は、理解出来なかったとしてもその行為においてイエスを信じようとした。そして、群衆はイエスの所に寄ってきて、「ヨハネはなんのしるしも行わなかったが、ヨハネがこのかたについて言ったことは、皆ほんとうであった」と言ったという。人々はイエスが行われたことを見てヨハネの証しが本当だということを知り、イエスを信じたのである。

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