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メモ:三木清がドイツに留学していた頃のドイツの思想状況

2015-11-23 16:08:59 | 三木清関係
メモ:三木清がドイツに留学していた頃のドイツの思想状況

三木清は波多野精一先生の推薦により岩波書店の岩波茂雄氏の資金援助により、大正11年(1922年)5月から大正14年(1925年)10月まで3年の少しの期間、ドイツへ留学した。
卒業を控えた大正9年(1920年)8月に波多野精一教授は京都帝国大学夏期講演会において5回の講演をし、それを西田幾太郎教授の弟子であった三木清が筆記し、原稿に起こして、同年9月に出版されたのが『宗教哲学の本質及びその根本問題』である。

三木がドイツへ留学した1922年という年は、第1次世界大戦の賠償金によりドイツ経済はインフレ-ションが酷く、ほとんど破綻状態にあった。賠償金調達のためにマルクは下落し、1922年5月返済期限の賠償金が支払い不能状態になり、延期を申し出たがその要求も認められなかった。三木がハイデルベルグに到着した1ヶ月後の7月12日にドイツ政府は返済不能を宣言するに至っていた。

しかし、そういう状況においても、いやだからこそ、ドイツの思想界は燃えていた。その5年前からの注目すべき出来事を拾うと次のようになる。
1917年、ルドルフ・オットー『聖なるもの』、1918年、シュペングラー『西欧の没落』第1巻が出版され、1918年11月にドイツが敗戦し、第1次世界大戦終了した。
神学界では1919年、カール・バルトの『ロマ書』、1920年、危機神学(弁証法)神学運動が始まり、1921年、ルドルフ・ブルトマンの『共観福音書伝承史』が出版された。

こういう状況の中、1922年6月24 日、三木はハイデルベルクに到着した。

1922年、シュペングラー『西欧の没落』第2巻が出版され、ドイツ思想界ではオットーの『聖なるもの』とシュペングラーの著作がむさぼるように読まれたという。

三木は翌1923年9月、1年と少し過ごしたハイデルベルク大学からマールブルク大学に移る。
丁度、その1年前にマールブルグ大学に移っていたハイデッガーと出会う。

その年の、11月8日にヒトラー率いるドイツ闘争連盟によるミュンヘン一揆が起こり、ヒトラーは逮捕され投獄される。

翌1924年1月1日、三木は『消息一通(マールブルグからの書簡)』を岩波書店の編集長に送る。

この年、パウロ・ティリッヒもマールブルグ大学神学部教授に就任する。この時のマールブルグ大学ではオットー、ハイデッガー、ティリッヒの3人が揃う。
その年の8月三木は1年弱を過ごしたマールブルグを後にして、フランス語を学ぶためにパリに移り、そこでパスカルの思想に出会い、『パスカルにおける人間の研究』を執筆する。

翌1925年10月、三木は帰国する。

その8年後、1933年1月30日、ヒトラーは復権し、首相に就任する。

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