ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 12/03

2014-12-05 05:13:37 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。久子、新水巻病院に入院。夕方まで病院にて。『ツァラトゥストラの謎』続読。ツァラの謎がだんだん解けてきた。これは古代のメニュッペア(風刺文学)の伝統を受け継いでいるのだ。夜は見るべきものなし。10時就寝、5時起床。体調、快調。チュン、チュン。

播 稔さん、北村 良輔さん、細谷 民子さん、他14人が「いいね!」と言っています。

村田 多鶴子 おはようございます~♪(^^♪今日は病院の日なので、朝から大わらわです。
先生ご夫妻の上に、お守りとお支えをお祈り致しますm(__)m
posted at 05:22:46


文屋 善明
今日の名言:RT @wisesaw:
たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える。(ルター)
<一言>なぜ、林檎の木なのか。林檎の木でなければならない理由はない。要するに、今すぐに役に立たないが、遠い将来になって役立つに違いないものであろう。これが明日のことを思い煩わない態度である。

播 稔さん、北村 良輔さん、松井 貴志さん、他23人が「いいね!」と言っています。

嶋津 雅彦 「種子」(寺山修司 詩、信長貴富 曲)も、同じことを歌っていますね。
「たとえ世界の終わりが明日だとしても、君は種子をまくことができるか」
歌うたびに、自分の生き方を問われているような気がしています。

文屋 善明 キリスト者の論理は、神のことは神に任せ、私の責任は私の責任として終わりまで全うする。世界の終わりは「神様のこと」。信仰なしに、それをどう克服するのか、私には理解できません。

嶋津 雅彦 なるほど、そういう文脈で読む言葉なんですね。教えてくださり、ありがとうございました。

文屋 善明 いや、これは私の独断的解釈です。

嶋津 雅彦 朝の書き込みが気になって、Googleで検索してみたところ、Yahoo!知恵袋にこんな回答が載っていました。
(長文失礼します!)
===
…「リンゴの木を植える」というのは別にリンゴが好きなのではなく、「リンゴ」はそもそもキリスト教世界では「禁断の実」として知られています。
つまり「タブー」や「知恵(禁断の実を口にしたアダムとイブが知恵をつけたため)」、そういったものの暗喩です。
(教会の教義への批判はまさしく「禁断」「タブー」の領域でした)
それを「植える」ということはつまり若い世代にそれを伝えるという意味です。…
===
これもこれで一つの解釈として、興味深く読ませていただきました。
原文を読めば、また違った味わいが出てくるのかも知れません。ただ、そこまでの語学力はありませんが…。

↓全文はこちら
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/・・・/ques・・・/q1087173070

マルティン・ルターの残した名言、「たとえ明日世界が滅ぶとしても、私はリンゴの木...
DETAIL.CHIEBUKURO.YAHOO.CO.JP

文屋 善明 比喩、あるいは暗喩というものは「一点」が重要なのであって、それを多くの「暗喩」としてしまうと、その言葉自体の迫力が失われてしまうことがあります。ルターがいう「リンゴの木」は終末に向けての私の今日の生き方を述べていることがポイントで、その意味では「リンゴの木」を植えるということは「明日の終末」に向けては何の意味もないものを意味しています。いうならば終末といういわば「決定的に重大な出来事」に対してほとんど無意味と思われる「今日の私の責任」ということで、今日の私にとっては「リンゴの木」を植えるということのほうが重要なのだということを意味しているのだと思います。ただ、その一点でのみ解釈されるべきでしょう。
posted at 06:36:19


文屋 善明
NHKこころ旅、毎朝楽しみに見ていますが、私的事情のより、画面を見ながらの「実況投稿」が難しくなりましたの、暫く休憩します。

藤岡 秀興さん、北村 良輔さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他11人が「いいね!」と言っています。
posted at 08:21:22


「昨日のツイート 11/30」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/78518223839b99357303442d5af75a8…
posted at 08:55:56

「昨日のツイート 12/01 菅原文太さん死去 81歳」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/975ff68d48e5cd0b91b932e185c9640…
posted at 09:26:47


文屋 善明
お目覚めの花。「大勢の人たちが私たちの前を通り過ぎて行く」「皆さん、心ここにあらずといった、深刻な顔をして」「でも、あの車椅子のおばあさん、ジッと私たちを見てくれましたよ」「そうね、私たちも微笑まなくてはね」(病院のMRI室の受付にて)。」
お目覚めの花。「大勢の人たちが私たちの前を通り過ぎて行く」「皆さん、心ここにあらずといった、深刻な顔をして」「でも、あの車椅子のおばあさん、ジッと私たちを見てくれましたよ」「そうね、私たちも微笑まなくてはね」(病院のMRI室の受付にて)。」

Richard Bakerさん、播 稔さん、堀 俊子さん、他38人が「いいね!」と言っています。

清水 行雄 おはようございます。どこの病院か知りませんが、実に美しい花です(^_^)

Yasuo Hirose お大事に!

播 稔 病院には「希望」と「失望」(あえて絶望とは言わない)が混在する。手術でよくなる人あり、手遅れの人あり、明日(未来)のことは「神」以外わからないのだ。


文屋 善明
2014日々の聖句 12月03日(水)
主はわたしの力、わたしの盾、わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。歌をささげて感謝いたします。(詩28:7)
マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。(ルカ1:46~47)
私の黙想:
今朝はつまらないことを考える。新共同訳では「寄り頼む」「助けを得て」「喜ぶ」。口語訳では「助けを得たので」「喜ぶ」となる。文語訳では「寄り頼みたれば」「助けを得たり」「われ喜ぶ」、フランシスコ会訳、新改訳では「寄り頼み」「助けられた」「喜ぶ」。つまり何が問題かというと、文章として「寄り頼む」で一旦切れて、「助けられたので喜ぶ」という流れ(新共同訳、口語訳)と、「寄り頼んだので」「助けられた」(文語訳)。その結果として喜んだのか。あるいはこれら3つのことが、特に「因果関係」がないのか。まぁ、どうでもいいようであるが、信仰生活における日常性と特殊性との関係をうかがわせる。
「苦しい時(困った時)ときの神頼み」という言葉がある。普段は神のことなど全く意識していないが、自分では解決できないような困難に直面した時に神に祈るということを言った諺であろう。それはそれとして重要な事だし、そういう態度は決して否定されるべきではない。しかし、それよりももっと重要な事は普段から「神頼み」して生きている者にとっては、実はいかなる困難にお直面しても「おろおろ」しない。ただ、結果として「神さまがあの困難を乗り越えさせてくださった」のだということを経験した時、「私の心は喜び踊る」。その最高の模範がイエスの母マリアの姿勢であろう。実はマリアは「まだ」困難に直面していない。これから起こるであろう「耐え難き困難」を、もう既に「喜びたたえている」それがマリアの賛歌の凄さである。

播 稔さん、北村 良輔さん、丸山 順子さん、他26人が「いいね!」と言っています。

門叶 国泰 またまた!今朝も同じテーブルで同じ個所を呟いています。とは言うものの、その先はあまり黙想が広がりませんが、

植村 光郎 マリアの賛歌とはそういうことだったんですね。聖母と呼ばれるゆえんでしょうか?「スタバット・マーテル」へと繋がり、聖母の讃歌が完結するんですね。

門叶 国泰 「おろおろしない」、イザヤ28:16、ボンヘッファー帰国の聖句ですね(文屋善明・ローズンゲン解説より)。

文屋 善明 乙女マリアへの「受胎告知」は人間が考えうる最大の「苦難=悲劇」でしょう。だからこそ「善人ヨセフ」は密かに婚約を解消したのです。それが彼にとっては最大の「良き行為」だと考えたのでしょう。誰もマリアの側に立ってマリアを保護するものはいませんでした。ヨセフも天使から言われて、マリアの保護者になりました。

播 稔 塹壕の中に「無神論者」はいない。人間は非常な困難、恐怖に合うと普段は口にもしない、祈りをする。

文屋 善明 やはり門叶さんは聖職者の説教を「聴くプロ」ですね。説教者以上に深く聞き取ってくださる。こういう信徒がいると牧師も緊張することでしょうね。

播 稔 文屋先生:善人ヨセフは、婚約解消を考えたのではなく、密かに解消したのでしょうか?心の中での問題と思いますが。

文屋 善明 ヨセフは「密かに離縁しようと決意」しますが、その晩天使がヨセフに現れて事情を説明します。ヨセフはそれを聞き天使の言うとおりにマリアを受け入れます。(マタイ1:19~25)。マタイ福音書の面白い点は天使はヨセフには現れますが、マリアにはあらわれていないということです。あくまでもヨセフが主人公です。

播 稔 文屋先生に、言われてみればたしかに、ヨセフに現れても、マリアには現れていない。主人公がヨセフであること判りました。感謝。

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