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ぶんやさんの記録

断想:大斎節第1主日の旧約聖書(2017.3.5)

2017-03-03 16:49:08 | 説教
断想:大斎節第1主日の旧約聖書(2017.3.5)

人間とは  創世記 2:4b~9,15~17,25~3:7

<テキスト>
4b 主なる神が地と天を造られたとき、
5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。
人はこうして生きる者となった。
8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。

15 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。
1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。
蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。


1.大斎節第1主日
大斎節第1主日の福音書は、A年もB年もC年も、すべてイエスが荒野で悪魔から誘惑された記事を取り上げている。これに呼応して、旧約聖書ではアダムとエヴァとが悪魔から誘惑された記事が読まれる。福音書では、人間という存在の弱点を突く3つの誘惑が取り上げられ、それらの誘惑に負けなかった人間としてイエスが語られ、創世記ではたった一つの誘惑にすら勝てなかった人間が描かれている。本日は、できるだけ福音書におけるイエスの物語とは無関係な視点で、創世記の物語を考えることとする。

2.裸でいることに耐えられない存在
本日の旧約聖書のテキストは、素朴なストーリーの中に人間の本質が見事に描かれている。これこそ、聖書というもののすごさである。いかなる哲学よりも、いかなる神話よりもより根本的に人間の本質を抉り出す。この物語の前で、私はこれに当てはまらないと言える人間はどこにもいない。その人間の本質とは「裸でいることに耐えられない」という事実である。「裸でいるということに耐えられない」というのは現実である。考えてみると、犬が裸でいるということに耐えられないということを聞いたことはない。しかし、例えば、人間に最も近いと言われるオランウータンが裸でいるのを動物園などで見ると、あの哲学的な目と風貌とのアンバランスに思わず目をそむけることもある。チンパンジーやオランウータンなどと比べると、人間が裸でおられない、いうことの異常さに気づくであろう。なぜ、人間は裸でおられないのか。しかし、家庭の中で人間を観察していると、5歳くらいまでの子どもは裸でおるということにあまり抵抗を感じていないようである。ということは、裸でおられないということはかなり高度は価値観というか、意識という面があるようである。裸でいるということを恥ずかしいという意識、つまり「羞恥心」の問題である。人間の羞恥心とは一体何なのか。
「裸」でいることを恥ずかしいと思う心は、言い換えると「ありのままの自分」を受け入れられない意識であり、それは「本当の自分」あるいは「そうありたいと願う自分」と現実の自分との落差(ギャップ)の意識である。これはまさに人間の状況である。その意味では羞恥心とは人間であることの印であるとも言える。

2. 罪意識と羞恥心
本日のテキストを単純に読むと、人間は犯した罪の結果として羞恥心が生まれたというように述べられている。果たして、この物語はそういう風に語っているのだろうか。羞恥心そのものが罪の結果であろうか。羞恥心とは悪いことなのか、という問題である。私は羞恥心とは悪であるとは思わない。むしろ、人間は羞恥心によって人間であり、羞恥心を持つことによって人間性を保っているのであり、言いかえると救われているのである。もし、羞恥心のない人間がいたとすると、そこにはもはや救いはない。人間は羞恥心があるからこそ、人間としての道を外れてもそこから回復することができるのである。

3. 羞恥心は神の恵み
この物語を読むならば、確かに人間が罪を犯した時に羞恥心が発生している。その意味では「罪の結果」のように見える。しかし、それは必ずしも「罪の結果」ではなく、罪を犯し神から離れた人間に対する神の「仕掛け」である。神は人間が罪を犯したとき、それを恥ずかしいこととして感じる感覚をお与えになったのではないか。そう考えるといろいろなことが辻褄が合う。罪を犯していない幼子には羞恥心がない。自分の裸を見せることを恥ずかしいと感じる人間は、人の裸を見て「欲望」を感じる人間である。その欲望こそ罪の原因である。欲望に支配されている自分が恥ずかしいのであり、惨めなのである。

4. 隠す、飾る
人間は自分の恥ずかしい部分を隠そうとする。それも本能である。ところが、隠そうとすればするほど現れてくるというのが現実である。これは身体的なことだけではない。心の有り様の問題でもある。私たちはすべてをさらけ出すことに恥ずかしさを感じる。だから、隠そうとするし、逆に飾ろうともする。しかし、「いちじくの葉」が示すように、その努力は十分には果たせない。
さて、ここで話を終わってしまうと、創世記の神話をただ解釈したというだけの話である。問題は、この話は他人事ではなく私たち自身の問題を語っているという点である。私たちの経験の中で、裸でいて恥ずかしく思わなかった経験はないのか。この恥ずかしさを乗り越えた経験はないのかということである。
一つの乗り越え方は、恥ずかしい者同志の連帯という乗り越え方である。「同病相憐れむ」というか、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というか、そういう形での恥ずかしさの克服ということもある。これは、あまりいい例ではないが、言わんとすることは、裸同志なら恥ずかしくないという心理ということができるだろう。これも、確かに裸でいることの恥ずかしさの乗り越え方であろう。
もう一つの、乗り越え方もある。それは、愛し愛されるという乗り越え方である。愛し合うもの同士ならば、裸でも恥ずかしくないという事実を私たちは経験する。この乗り越え方は、言葉を換えると、ありのままの私を受け入れてくれるという愛と信頼との関係ということになる。
創世記の物語においては、人間の創意工夫に基づく「いちじくの葉」の、代わりに「皮の衣」を与えてくださった。この物語において、「いちじくの葉」とは人間の不完全な努力を象徴している。それに対して、神から与えられた「皮の衣」とは人間の裸の恥ずかしさを完全に隠す神の恵みを象徴している。結局、人間の恥ずかしさは神によって被われるしかない。恥ずかしさとは、他人との関係の中で生じるように思われるが、そして確かに他人との関係の中で恥ずかしさを乗り越える面もあるが、本質的な問題は自分自身との関係である。他人の目は誤魔化せても、自分自身を誤魔化すことはできない。従って、恥ずかしさの克服は、自分自身との戦いである。神を信じ、神の愛に包まれるとき、ありのままの自分を受け入れ、罪の囚われから解放される。

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