ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 01/16

2013-01-17 09:21:52 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。昨日は終日、「故郷を追われるイエス」(ルカ4:16-30)考える。結論だけは明確で衝突の原因が曖昧。ほとんどイエスの言葉だけが一方的に記録されている。咳と痰はほとんどなし。昼寝無し。夕食後、相葉雅紀・多部未華子共演の「ラストホープ」を見る。近ごろ医療問題に絡んだ連続ドラマが多い。10時半就寝、6時半起床。体調快調、チュン、チュン。
posted at 06:35:30

Yasuo Hirose 一時、臓器移植の意思表示を…のキャンペーンが張られていましたが、本当に命の問題が問われているのでしょうか?

今日の名言:RT @Iwanamishoten:
世の中のおとろふると申は、日月の光のかはるにもあらず、草木の色のあらたまるにもあらじ。人の心のあしくなり行を末世とはいへるにや。(北畠親房『神皇正統記』)
<一言>吉田兼好と同時代の闇の政治家。社会の真相(正体)を鋭く見ている。
posted at 07:20:15

清水 晴好 800年近く前ですよねぇ。

「昨日のツイート 01/15」をブログにあっぷしました。 http://t.co/BlS5IwWV
posted at 09:02:01

今日のこころ旅は、嘉例川駅から。鹿児島駅まで輪行、そこから甲突川にかかる高麗橋まで。昔の石橋は洪水の被害を受けて現在は石橋公園内に保存されている。現在の高麗橋は立派。(今朝はリズムが狂い、実況は出来ませんでした。記憶による復元です。)
posted at 09:24:49

日々の聖句2013 01月16日(水)
地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。(イザ45:22)
主人は僕に言った。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。」(ルカ14:23)
私の黙想:
捕囚からの解放という出来事を通して、イスラエルの「主(ヤハウェ)」が天地を創造した神であることを高らかに讃美する。主語はヤハウェ。ここでの「救い」とは「主を仰ぎ見ること」。
ドイツではフクシマのことがこれだけ詳しく報道されている。知らないのは日本人だけ。本当に腹が立つ。(ドイツ語、字幕つき)

ドイツメディアから見た日本の原発事故対応はナチス並み!
www.youtube.com
何度も消されるそうなので、消されてみたいと思います。 消されたら、消されたと拡散する目的(笑) 日本政府の腐り具合は尋常では無いですね! この政府を正すのは、至難の業ですが、やらなきゃ!!

奥野 卓司 ドイツはとくにですが、アメリカも含めて、欧米では日本より深く報道されています。日本は、多チャンネルの機能がほとんど生きていないようです。マスコミの営業姿勢が、怠惰なんですね。

Yasuo Hirose マスコミの矜持は何処へ行ったのでしょうか。低劣な番組作りに腐心する事で更に誤魔化そうとしているのでしょうか?残念!

玉城 豊 つらいものを見せていただきました。シェアさせてください。

<メモ>
イエスの復活から原始教会の成立、発展の歴史を考える際に、主の兄弟ヤコブが果たした役割は大きい。しかし主の兄弟ヤコブがどのようにして教会に参加するようになったのか、12使徒、とくにペトロとの関係、あるいはパウロとの関係等について集中的に取り上げている文献は少ない。というよりも、私の年代の者が学んできた聖書学においてまともに取り上げられたことがないように思う。イエスから直、パウロへである。ペトロについてはクルマンの優れた研究があるが、主の兄弟ヤコブについての研究は寡聞にしてほとんど聞いたことがない。トロクメの『キリスト教の揺籃期』においても断片的にはかなり取り上げられているが、頼りに出来るのはそれぐらいである。そもそも新約聖書の記述そのものも非常に限られている。
最初に登場するのがマタイ13:55で郷里ナザレの住民として名前が挙げられている。その後マルコ3:21と31ではイエスを取り押さえに来た親族として登場する。次に見られるのが時間的順序としては1コリント15:7に復活のイエスの目撃者としての「ヤコブ」である。その後、ペンテコステ待望の祈りのグループの中に母マリアと共に「イエスの兄弟」(使徒1:14)がリストアップされている。
そして突然パウロの手紙にエルサレムの「教会の柱」のひとりとして現れる(ガラテヤ1:19、2:9、12)。使徒言行録12:17、15:13ではエルサレム教会の単独代表者である。とくに注目すべきことは、使徒言行録21:18-19ではパウロとその仲間たち、つまりヘレニストキリスト者たちが、主の兄弟ヤコブによってエルサレムを中心とする教会から追放される。
これら一連の動向の中で、マルコは反エルサレム的な視点から福音書を執筆した。ヤコブもパウロも逝去し、エルサレムの神殿が崩壊した後に、マタイはユダヤ人キリスト者の視点から福音書を執筆し、ルカはヘレニストキリスト者の視点から福音書を著した。

塩澤 紀子 そうだったんですね。勉強になりました。

臼田 宣弘 加藤隆氏の「新約聖書の誕生」(講談社)の3章に少しく論じられています。ただ著者の推察の域を出ないなと思わなくもないのですが、一読の価値はあると思います。

文屋 善明 臼田さん、ありがとうございます。

<メモ>
「小ヤコブ」(マルコ15:40)について

教文館発行の『聖書大事典』(1989年発行)によると、ヤコブという名の人物は6人いる。
1.族長ヤコブ
2.マリアの夫であるヨセフの父ヤコブ
3.ゼベダイの子ヤコブ、彼がイエスの12弟子の一人、弟ヨハネとペアで描かれる。
4.アルパヨの子ヤコブ、彼も12弟子の一人。
5.イエスの兄弟ヤコブ、後に「主の兄弟ヤコブ」(ガラテヤ1:19)と呼ばれる。使徒会議の次代には「教会の柱」となる。ヤコブ書とユダ書の著者(?)かも。
6.使徒ユダの父ヤコブ。

さて、問題はイエスの十字架の場面で言及されている「小ヤコブ」(マルコ15:40)とは誰か。通常はゼベダイの子ヤコブに対して、アルパヨの子ヤコブを「小ヤコブ」と示すらしい。もちろん、それはその当時、そう呼ばれていたというよりも、後の次代の人々が二人のヤコブを識別するために称したものであろう。
しかしマルコ福音書において「小ヤコブ」という表現が使われたとすると、そんなに単純な話ではない。
それはともかく、十字架の場面で「小ヤコブとヨセの母マリア」として登場するヤコブとは誰だろうか。この場面で12弟子の一人の母が登場するのもいかにも場違いである。小ヤコブとペアになっているヨセという人物についてはマルコ6:3でイエスの兄弟として名があげられており、ヤコブとヨセという組み合わせはイエスの兄弟たちと見るのが普通であろう。
この点については田川建三氏がいろいろな反論を予想して詳細に論じ、「小ヤコブ」とはイエスの兄弟ヤコブであると結論づけている。その上で、ヤコブに対して「小ヤコブ」という言い方はここでだけ使われている表現で、背が低いとか、若いという一般的な特徴に基づくあだ名に類するものとは思えないとする。マルコが福音書を執筆してた頃、エルサレムのキリスト教を指導する立場にあった「主の兄弟ヤコブ」を念頭に置いていたのであろうと推測される。田川氏は「イエスの弟がエルサレムのキリスト教を非常にユダヤ主義的にごりごりの方向に強引に持っていこうとしていたことに対してマルコが反撥していたからであろうか」述べている(田川建三『訳と註』482頁)。だとすると、イエスの兄弟ヤコブは母マリアに付き添って十字架の近くにいたことになる。

黒田 聖司 ありがとうございます。勉強になります。

塩澤 紀子 なるほど、頭の中が少し整理できました。

文屋 善明 最後の「いたことになる」は言い過ぎで「いた可能性がある」というべきであろう。

石田 聖実 μαρια η ιακωβου του μικρου και ⸆ ιωσητος μητηρ
という記述から、ヤコブが母マリアに付き添って十字架の近くにいたというのは困難ではないでしょうか。
単にマグダラのマリアでない方のマリアは、小ヤコブとヨセの母であるマリアだったというだけではないかと思いますが、いかがでしょうか。

文屋 善明 私もそうだと思う。ただ、(現実的には何時の出来事か分からないが)使徒言行録1:14で「イエスの兄弟たち」もそこにいたという証言をどう考えるのか。ナザレとエルサレムとの距離関係をどう理解するのか。主の兄弟ヤコブの回心は謎のままである。というところから、私の文学的イマジネーションは展開します。

石田 聖実 おはようございます。お答えありがとうございます。
使徒言行録1:14は昇天の時のことですから、復活から40日後ということになりますね。
仮にヤコブたちがイエスは気が触れておかしな事をやっていると考えていたとしても、処刑されたと聞けば、ショックは大きいでしょう。ナザレから出てきても当然です。
エルサレムの弟子たちのところに来てみれば復活したという。そして彼らも復活した兄を目撃したとすれば…回心がありえます。
また、昇天と1:14の時間差がどれほどかわかりませんが、兄弟たちが復活・昇天を目撃しておらず、回心していなかったとしても、エルサレムに到着したらまず、弟子たちのところへ行って事情を聞くでしょうから、二階座敷の祈りの輪にいてもおかしくないと思います。
10日後にはペンテコステの目撃者になります。

文屋 善明 聖書の叙述で欠けているところがあると、私の想像力を刺激します。とても楽しいです。

文屋 善明 ミッシングリンクを捜している探検隊のきもち。

<補遺>
聖書をめぐる議論は楽しいものだ。




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