ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

料理はわたしの趣味である(「絆」1977.6)

1977-06-01 10:20:10 | 雑文
料理はわたしの趣味である
なにせわたしは小麦粉をねるのが大好きである。あの美白なきめこまかい、さわるとヒヤリとする、その肌ざわりが何とも言えない。粉の真中に適量の水(またはお湯)を入れて、こねはじめる時の何とも言えない不安、はじめの間はベタベタして気持が悪いが、やがてモロモロがなくなり、手についたボロポロやポールの底にへばりついたモロモロを引き取り、一つの大きなカタマリが出来てくる。このプロセスが感激である。安心感とともに手に力が入って来る。たたいたり、のばしたり、ひねったり、時には足でふんだり、そのものズバリ、気分は「サイコー」である。その肌ざわりは、うすから取り出した、つきたての「もち」のようにブヨブヨしていない。こしがある。さわりがいがある。さわっているだけで満足である。
しかし、ここで終ってはいけない。
ていねいに、ビニールに包み、二、三時間「ネカス」。これが大切である。シロートはこれを省く。「ネカサナイ」と「ナジマナイ」。「ネカス」前は、一体であるように見えるが、実は一体ではない。「ネカシテ」後が一体なのである。こうなると、もう水を加えても、粉を加えても、はっきりと別ものである。こうゆう状態がまさに「水入らず」である。それははじめから一体であったかのように一体である。こうなって、はじめて、ピザにもなり、ウドンにもなる。もっともピザの場合はイーストを使うが、その場合は、「ネカシテイル」間に「フクレル」。これがまた気になる。さわったり、突っついたりして、ちょっかいを出したくなるが、ジーとガマンをしなければならない。
わたしは小麦粉をねるために、ただそのために、ウドンを作り、ギョーザを作り、ピザを作る。
先日、ラーメンに挑戦した。小麦粉を卵に少々の塩だけでねり始めた。どこにもレシピー(材料の分量や作り方を書いた紙)はなかった。何かの本で、ラーメンを作るのにカン水(何かよく知らない)の代りに卵を使うと、体にいい。と書いてあったのを読んで以来、いつか挑戦しようと、心にあたためていたのであった。こうゆう時は楽しいものである。寝付きにくい夜など、あれこれ作り方や分量を考える。そうすれば日中あったいやなことも、いっぺんにふっとんでしまう。ついに先日、夜十時頃から粉をねりだした。家族のものたちは「また始まったか」とヒヤカス。しかし始めてしまうと、もう何を言われても気にならなくなる。
だいたいわたしが料理に挑戦するのは土曜日の夜である。日曜日には教会の帰りに、市場に寄り色々材料をしこむ。(「しこむ」、とは専門用語で「買う」というイミ) この日にはトリのガラとブタの骨とを買い、トーメイのビニール袋に入れてもらって、聖書と一緒にぶらさげて帰って来た。妻と娘はその姿を見て、「もう団地の中を歩けない」などとブツブツ文句を言っていたが、わたしは気にしない。さっそく、なたでブタの骨をたたき、トリのガラと一緒に、最近購入した煮こみ用電気なべにほり込む。ラーメンのだし汁が出来るまでの間、昨晩準備した小麦粉を練ったかたまりをうすくのばして、細く切りはじめたが、これが予想以上にむつかしい。
あれこれして、ともかく、夕食には、五目ラーメンが出来上った。わたしは「うまい」と思った。息子も「おいしい」と言う。彼は正直だ。娘はだまって半分残した。妻は「材料にあれだけお金をかければ、おいしいはずだわ」と言う。料理はわたしの趣味であるから、材料代はすべてわたしのポケット・マネーでまかなわれる。
料理はわたしの趣味であると言っても、最も好きなのは小麦粉をねることであるから、わたしのレパートリーはだいたい、小麦粉を使うものが多い。以前に食パンに挑戦したこともあるが、これはうまくいかなかった。将来の課題である。今度のラーメンも、わたしの心の中では「失敗」であると思っているが、これは家族には秘密である。家内は言う。このだしと具でスーパーの「生ラーメン」を使えば、もっとおいしいでしようと。しかしそれは邪道であるとわたしは思いこんでいる。ラーメン料理の中心は、小麦粉をねることである、とわたしは確信しているからである。
ところでわたしの料理に関する喜びは四つある。第一に料理の本を読み、レシピーを切りぬき、分析し、比較し、色々と想像すること。第二に、材料をスーパーに買いに行くこと、第三に、料理のプロセスではっきされる創意工夫(だいたいこれがくせものである)、第四に、他人に食べさせて「おいしい」と言わせること、である。
家族のものたちは、つねに「おいしい」ということになっている。しかし、ときどき黙まっているときもある。その時はわたしはまず何か気嫌の悪いことがあるのか、と心配して、やさしく「今日の料理はどうか」と聞く。そしてそのとき「おいしい」と言えば、「ああ、この子は正直だ」と思う。もしそれでも黙まっていると、「本当はおいしいのだけれども、何か心配事があって、しゃべりたくないのだな」と思う。もし「おいしくない」などと言えば、わたしは「こいつは正直でない」と思う。これでいいのだ。料理はわたしの趣味なのだから。
わたしの趣味が料理だということで妻は近所の奥さん方から「いいわね、助かるね」と言われるらしい。その時の妻の顔は、困り切ったという様でニヤニヤしている。妻が忙しくて、今日は料理をして欲しいなどと思う時には、わたしは何もしない。意地悪なのではない。ただその気にならないだけである。しかし、妻が夕食の準備を済せている場合でも、その気になれば「今日の夕食は、お父さんの料理だ」と宣言して、ハッスルする。
これでいいのだ。料理はわたしの趣味なのだから、そしてわたしのストレス解消法なのだから。(西陣市民センターだより「絆」1977.6)

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