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エドガー・スノー『極東戦線』より、「満州というところ」

2016-07-01 15:39:57 | 雑文
エドガー・スノー『極東戦線』(筑摩書房、1987)を読んでいる。これは再版版で、初版は1973年であるが、内容は1931年から34年にかけての満州国の成立に関わる現地報告である。著者のエドガー・スノー氏は優秀のジャーナリストと思われる。ただ、読み過ごすのにはもったいなすぎるので、重要な部分を書き取ることにした。アメリカ人ジャーナリストから見た日中関係、満州問題が見事に抉り出されている。
まず、「満州というとこと」についての歴史的考察から、本書11頁から15頁まで

満州というところ

征服者の出生地

大連、そこは中国第二の大きな港がある。ここがこうなるまでには日本政府がかなり手を入れている。堂々たる船着き場、立派な波止揚、赤い煉瓦と白い石を積み上げた高い建物、舗装された広い大通り、路面電車、バス、忙しく行きかう自動車、郵便物をはこぶ飛行機、英語と日本語と中国語のネオンサインをつけた商店、ボンドストリート風に仕立てた上衣とズボンを着こんだ商人たち、こういったものはすベて日本の満州進出のやり方と関係があるものだ。ここでは、日本は昔からもっていた表情をすっかりかなぐり去り、物質面で新しい東洋の先駆者になり切っていた。

満州と大連の関係は、ちようど華中の豊かな地域に対ナする上海の関係と同じである。そこからは、起伏に富んだ平野と緑の森におおわれた北西方の山々から流れ出る大河の流域が産出する農産物、鉱産物、森林資源がどんどん運び出されていた。それが生まれてまだ25年しかたっていない若々しい都市である。そのぐるりに1300平方マィルの租借地関東州がひろがっている。それと鉄道沿線の108マイルを加えたものが、1931年9月18日現在、満州の38万2千平方マイルのうちで日本が支配していた広さだった。だが大連は満州のかなめ石である。大連港は全中国の貿易総額の23%、満州貿易の70%近くを扱っていた。大連が建般されて以米、満州貿易の量は16倍にも増加した。

その背後地の複雑な通信交通網とその意味するものを考えると、大連の獲得は満州にとって新しい征服を表わしているといえよう。だが征服の体験は、この地にとって一向に新しいものではない。日本人はこのアジアの最北端にあらわれた最近の勝利者にすぎない。彼らは最初の勝利者でもなければ、またおそらく最後の勝利者でもあるまい。何世紀にもわたって満州は征服者の出生の地だった。これまで文明の中心部ヘのりこみ、すべての民衆を支配下においた若々しいアジアの冒険者たちは、ほんどすベてこの満州から出現したのであった。

満州は私たち西洋人がともすれば思いがちな「新しい国」ではない。私たちと満州との接触が新しいだけである。この地の歴史は中国の歴史と同じように古い。その歴史を眺めるならば、それは一片の伝奇小説であり、自由な精神をもつ剣士と戦士の誇り高い年代記であり、挑戦と競争への熱情にあふれている。
満州の過去にとって、万里の長城ほど大きな意味をもつものはない。大連から西へ遼東湾を横切る一日航程のところに山海関がある。長城ははるかトルキスタンの端から発して、2千マイル以上をうねうねと連なり、ここで海に達するのである。今日の「満州問題」は23世紀前に長城がつくられたとき以来、中国を悩ましてきた問題である。
天文学者の話によると、長城は火星から見えるたった一つの人工の建造物である。それはまたある意味で世界最大の失敗である。それは北からの蛮族の侵入を防ぐことができなかった。相いつぐ中国征服をある程度おくらせはしたが、結局は防げなかったのである。

万里の長城は、現在ヨーロツパ人が満州、中国人が東北省とよんでいる地域の南の境界線をなし、東の方は鴨緑江河口の安東まで黄海沿いに広がっている。そこは満州とならんでソ連領シべリアまでのびている日本の半島植民地、朝鮮の西部国境である。満州の北部国境はシベリアに接しウスリ−、アムール、アルグン川で分かれている。西の方は外モンゴルと内モンゴルの東端に接し、そこから下ると長城が中国本土との境界線になっている。
束三省とよばれる吉林、奉天、黒竜江三省をふくむ地域は面積約38万2千平方マイルで、フランスとイタリアを合わせたよりもはるかに広い。だが人口はこの二つの国を合計したものの3分の1を少し上回る程度である。1931年の満州の人口は3千万人で、その90%は中国人だった。

中国文明の境界を示す万里の長城が築かれたときからみて3千年も前に、現在の北京の位置から北方はるか北極圏にまでひろがる変化に富む広大な士地に、ツングース族として知られた未開の種族が住んでいた。彼らは家族生活の形態を発展させ、次第に部族的共同社会を営むようになった。時がたつにしたがって、各部族はそれぞれの習慣、言語をもち、食物と住居を求めてさまよううちに指導者に忠誠を誓う伝統を身につけるにいたった。
中国の歴史は周時代(BC1122~256)に、早くもツングースの部族と接触をもったことを記録している。そのころスーシェン、ツング−、ミエホ−、フユ、カオリなどの部族があった。このうち東方ではカオリ(高句麗)が優勢を保っていた。紀元前1123(カルタゴの建設より422年前)高句麗族は姫子とよばれる中国の王国に統一された。その高句麗の子孫が朝鮮民族であるといわれる。
はじめ鴨緑江の流域に住んでいた高句麗ツングースは次第に南方へひろがり、ついに今日朝鮮といわれる半島の南端にまで達した。それに伴って彼らは力強い生命の種子を運び、いたるとこるに大きな民族的影響力をもたらすことになった。大陸の南へ進んだ一族は中国北方の民族と交わり、一時は彼らを支配した。ある人類学者は高句麗ツングースは略奪の対象を求めて対島海峡を越え、当時まだはっきりと民族的特質をそなえていなかった日本の中へ溶けこんでいったという。はじめ日本北方の一つの島に定住した彼らは、大和人(山道の人)とよばれた、時がたつにつれて彼らは部族の長となり、これがのちに島の支配者になった。やがて日本民族自身が彼らの名をとって大和民族として知られるようになった。数世紀後の現代にいたって、モンゴル族と同族とみられる大和民族は、彼らの発祥の地であるアジア大陸に安住するために戻ってきた。

かって満州の西部にはツングースと人種関係をもつウーウォ、契丹その他タタールの強力な部族がいた。数世紀たつうちに各部族は、その境界線を主張するようになったが、彼らの暮し方はほとんど同じだった。彼らは一個所に定住しない。はじめのうち彼らは放浪性をもつ純粋の狩猟民族で、川で魚をとり、弓矢で空の鳥を落とし、地上を覆う大森林に群をなしていた野生の動物を追っていた。のちに部族の支配者たちは一族の王となり、さらに大きな権力をにぎると、獲物をあさる領域を自分勝手にきめるようになった。それでもなお彼らは定住するより放浪するほうを好み、ほとんど町というものをつくらなかった。彼らは忍耐強い民族だった。なぜならば、野外の生活では、最適者だけが生きのびることができたからだ。彼らはむちで打たれるような冬の寒さと、短いといっても砂漠のような夏の暑さに耐えねばならなかった。こうして彼らは次第に頑強になっていった。
自由を本能的に愛し、気高い遊牧生活を尊ぶことが、これらの古代満州人の精神を支配していた。それは暮しの考え方に密着した本能であった。放浪の民から遊牧の民となったが、彼らの考え方は変らず、ますます頑健で闘争好きな性格となった。紀元前400年に早くも満州南部で農耕を営んでいた、より高度の文明をもつ中国人に対して、彼らは戦争をしかけた。中国人の町を襲い、略奪、破壊したが、それはただそうするのが面白いからだった。その証拠に破壊しおわると、彼らはあっさりと引きあげていった。万里の長城はこれらの蛮行を食い止めることが出来なかっただけでなく、侵略者の敵意を煽ることになっていった。彼らはより大人数でやってきて、容易に立ち去らなかった。
だが侵略はまったく一方的に行われた訳ではない。強大な軍事支配者が中国で帝位につくと、軍隊を報復のために北方ヘ派遣した。こうして唐王朝の664年に中国からの遠征軍が満州の全部族を平定し、高句麗王国を倒して朝鮮を再征服した。部族の王侯たちは再び中国皇帝に朝貢の礼をとらされた。これまでも時々中国に征服された彼らの領土は、今度は属領としてはっきりと中国帝国に編入されてしまった。

長城の向う側にいる部族は、唐の官廷からやはり蛮族とみなされていた。その後300年間、中国は彼らを「華外の民」として、最小限に支配していたにすぎなかった。しかし唐時代の力強い文化的伝統は、満州南部に住んでいた個性の乏しい部族に対して同化作用をおよぼした。唐の文化的影響は、また長城をこえて満州に移住する中国人によってもたらされた。だが満州の部族たちはこの中国化の流れに抵抗して、ふたたび団結し、荒々しい放浪の戦士としての伝統を強化して、強大な部族として再発足するにいたった。10世紀には満州の中央部の大部族が契丹とよばれ、王国を建設した。それはタタールのある部族によって統治されていた。彼らはのちにその子孫がアジアの平原からヨーロッバへ攻めこんだ征服の才能を示しはじめていた。
960年ごろには契丹タタールは15万人以上の兵員を擁する軍隊を編成するに至った。その多くは騎馬の兵であった。自分たちのことを遼人、または「鉄の人」とよんだ彼らは、若いオバオチを司令官としてその年に中国に侵入した。ほとんど抵抗らしい抵抗も受けずに彼らは長城の南を席巻し、北京に首都を置いた。それからしばらくの間中国北部はすっかり満州の荒野に生まれた契丹に支配されていた。契丹帝国は長城のかなたでは今日のモンゴル、満州および朝鮮のほとんど全地域を領土におさめていた。

註:ジンギスカンが登場するのはその後である。

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