ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:顕現後第4主日 (2018.1.28)

2018-01-26 09:46:55 | 説教
断想:顕現後第4主日 (2018.1.28)

新しい教え   マルコ1:21~28

<テキスト、私訳>
そうこうして、一行はカファルナウムの町に着きました。するとイエスはごく自然に会堂に入り、説教を始められました。ちょうどその日は安息日だったのです。会堂にいた人々はイエスの説教を聴いて非常に驚きました。その説教は普段聞き慣れた律法学者のようではなく、権威ある者として語られたからでした。
たまたまそのとき、この会堂に悪霊に取り憑かれた男がいましたが、彼はイエスの姿を見ていきなり大声で叫びました。「ナザレのイエス、お前は俺たちとは関係ないじゃないか。それとも、お前は俺たちを滅ぼしに来たのか。俺たちはお前が誰だか知っているんだぞ。神の聖者だろう」。イエスはその叫びに答えて、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになりますと、悪霊はその人に痙攣を起こさせ、大声をあげて出て行きました。それを見ていた人々は皆驚いて、互いに論じ合いました。「これはいったいどういうことなのだ。今までに聞いたこともない権威ある新しい教えだ。悪霊でさえ、この人の命令に従う」とは語り合いました。この噂はすぐにガリラヤ地方の隅々にまで広まりました。

<以上>

1.権威ある者
イエスは「弟子たちと共に」カファルナウムの会堂で活動を始められた。初めの頃のイエスの活動の場所はイエスの故郷近くのカファルナウムのユダヤ教の諸会堂であった。イエスの話を聞いて人々は驚いた。まず人々はイエスの語り方に驚いた。「その説教は普段聞き慣れた律法学者のようではなく、権威ある者として語られたからでした」と説明されている。この記述がイエスの初舞台である。マルコはいわばイエスの初舞台において「権威ある者」として登場させている。では、その「権威ある者」とはいったいどういう点なのか。
当時の律法学者の話し方というのは、要するにこういう形であった。「ラビAはこの事について、こうこう言った、とラビBは言っている」。このラビAとかラビBは出来るだけ古く、また引用は出来るだけ多い方がよい。これが典型的な伝統依存の権威主義というものである。律法学者の権威とはこういうものである。イエスの語り方はその様な「いわゆる権威主義的」な語り方ではなかった。しかし、まず人々が驚いたのはイエスの語り方であったという。その語り方が「権威ある者のようであった」という。いったいどういう語り方をイエスはしたのだろうか。なぜだろう。しかしマルコはそのことについて直接的な説明はない。

2.悪霊に取り憑かれた人の癒し
しかしその説明の代わりに一つの事件を報告している。イエスのもとに「悪霊に取り憑かれた男」が現れ、イエスに対して暴言を吐く。イエスは彼に取り憑いている悪霊に対して「黙れ。この人から出て行け」と命じられると、悪霊はその人に痙攣を起こさせ、大声をあげて出て行った(マルコ2:23~26)。この出来事自体についての解釈は別の機会にするとして、ここではこの出来事について、その現場にいた人々の反応に注意したい。「それを見ていた人々は皆驚いて、互いに論じ合いました。『これはいったいどういうことなのだ。今までに聞いたこともない権威ある新しい教えだ。悪霊でさえ、この人の命令に従う』とは、と語り合いました(27節)。
本日は、人々のこの反応に注意したい。マルコは人々の驚きをこれは「権威ある新しい教えだ」と言ったという。この言葉は面白い。病気を癒すのはイエスの行為である。教えではない。ところが人々は、というよりマルコは「権威ある新しい教えだ」と言う。マルコにおいては「(奇跡)行為」と教え」とが一体化している。これはマルコ福音書の一つの特徴である。ここでは、この事件に対する「驚き」とイエスの話しに対する驚きとが「権威」という言葉で結ばれている。

3.「権威」の定義
広辞苑は権威について次のように定義している。
服従者を内面的に信服させる力をもつ社会的影響力や制度、人格。社会のどの分野にもみられる社会的権威、政治権力と結びついた政治的権威、産業社会化の進展で社会的権威から出てきた専門的権威などに区分される。通常は物理的強制による抑圧ではなく、命令の正しさ(正当性)を服従者に納得させる時に生じるとされる。現実的強制力をもって服従を獲得する権力の概念と重複する場合も多い。
この定義における中心点は「内面的に信服させる力」ということである。それは「現実的強制力によって服従」させる「権力」と対比されている。マルコの表現によると、「律法学者のように」ということと「権威ある者のように」との対比であろう。
例文をあげると、「AはBである」という発言に対して、ほとんどの人が「その通りだ」と納得するときに、その発言者は権威者である。特に、その場合、この「AはBである」という発言を聞くまでは、ほとんど多くの人がそうは言っていないという状況を想定する必要があるだろう。だから、「AはBである」という発言は勇気ある発言であり、特に「権威者」という尊敬の意味が加わる。そのよき例が「裸の王様」の物語における「王さまは裸だ」という子どもの発言である。
英語の「authority(権威)」という言葉は、ラテン語では「生み出すこと」「支配力」を意味する言葉から出ている。この言葉は「authorship」というように派生すると、「著作者であること」「出所・根拠」という意味になる。私なりにこの言葉の意味をまとめると、権威とは他に出所・根源をもたない、という意味である。つまり、それ自身が他からの支えがなくても立っていること、「ありてあるもの」、人間のレベルで言うなら、「主体的であること」という意味にほかならない。 事実を事実としてハッキリというということは大変なことである。それはいわゆる「伝統的権威」とか世間体から自由になっていなければ出来ない。つまり、それが「主体的な権威」である。
イエスの権威を「主体的な権威」というように考えることもできる。しかし「主体的な権威」とは、あくまでも考えることが出来るというレベルのことであり、要するに、言われてみると、「成る程」そうだなと納得する。そのような権威である。しかし、そこには「驚き」がない。人々はイエスの権威に驚いた。

4 創造的権威
悪霊に憑かれた人を癒した出来事は、単に事実を事実として言っただけではない。その意味での言葉と現実との一致ということにとどまらない。むしろ「一つの事実」を作り出す言葉である。「黙れ。この人から出て行け」と語られたら、その言葉の通りのことが起こった。
別なところでは、イエスが弟子たちと一緒に船旅をしておられたとき、突然激しい突風が起こり舟が沈みそうになったことがある。その時、うろたえている弟子たちの見ている前で「黙れ、静まれ」と叫ばれると、風はやみ、凪になった(マルコ4:35~41)。この時はさすがの弟子たちも、「非常に恐れて、いったいこの方はどなたなのだろうか」と叫んでいる。
 イエスの権威とは、言行一致という主体的権威のレベルを超えて、「語る言葉」が「出来事」となる。「語った言葉」が現実となり、言葉の真実性が証明される。これを私は「創造的権威」と呼びたい。しかし、「権威(authority)」という言葉と「作者(author)」という言葉とは同根の関係にあることを思うとき、それ程無理な命名でもないだろう。

5 私たちの権威
イエスの権威について思いを馳せたときには、どうしても私たちの権威についても考えざるを得ない。もし、私たちのことを抜きにして、イエスの権威についてだけ論じるとしたら、それはある種の「好古趣味」みたいなものになってしまうだろう。私たちが今、教会において「権威」ということを考えてみたときに、率直に言って、イエスの権威というよりも「律法学者のような権威」に近いのではないか。特に、聖公会のように伝統を重んじる教会においては、権威と言えばそれは「主教の権威」というように、主教にだけ「依存」してしまっているのではないか。主教の権威とはあくまでも組織内における役割としての権威であり、組織に依存した権威である。それ以上でもそれ以下でもない。イエスの権威とはそれとは異なる。それ自体としての権威(an sich)である。どちらかというと、「カリスマ」に近い。
ここで、私は聖書からイエスの言葉を一つ引用させていただきたい。「はっきり言っておく。私を信じる者は、私が行なう業を行ない、また、もっと大きな業を行なうようになる」(ヨハネ14:12)。 これは、イエスが十字架を前にして弟子たちに語った、いわば遺言の様な言葉である。この言葉はイエスの権威が、私たちにも、全ての信徒たちに分け与えられていることがはっきりと宣言されている。私たちが信じ、語ったことが事実となる。
これは驚くべき宣言である。これこそがすべてのキリスト者に与えられている権威であり、恵みである。聖職者だけではない。全ての信徒が持っている、否、持っていなければならない権威と恵みである。しかし、その権威と恵みは隣人たちと共に分かち合うときに現実となる。

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