ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:降誕日の旧約聖書

2016-12-23 06:59:45 | 説教
断想:降誕日の旧約聖書
「良い知らせ」 イザヤ52:7~10

<テキスト>
7 いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。
8 その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られるのを。
9 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
10 主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ。


1.「いかに美しいことか」
降誕日の旧約聖書のテキストとして選ばれたのが、イザヤ書のこの個所である。何故、このテキストなのか。まず素直にこの個所のメッセージを聞こう。この個所は旧約聖書の中でも特に美しい文章で、読んでいて気持ちが良い。「いかに美しいことか」、ここで美しいと称えられているのは「足」である。足が美しい。どこかのモデルの足がキレイというのとは次元が違う。ここでは「山々を行き巡る足」が美しいという。それは山奥の一軒家に住んでいる人にとって郵便配達の人が郵便を届けてくれたときに感じる美しさ、ご苦労さまという気持ちの表れであろう。ここでは待ちに待っていた「良い知らせ」が、こんな山奥まで伝えられたという感動である。
その「良い知らせ」とは何か。「平和」の知らせだという。ここでの平和にはいろいろなことが含まれている。一言で言って、それはバビロン捕囚からの解放の知らせである。60年(前598年~前538年)に及ぶ捕囚生活からの解放、祖国に帰れるという喜びの知らせである。どれ程長くこの日を待ち望んでいたことであろう。というより、それはほとんどあり得ない待ち望みであった。終わりのない待ち望み、これがバビロン捕囚の実態である。だから、この知らせを受けたとき、信じられないことであったに違いない。ここで述べられている「平和」とはそのような内容である。それはどれ程言葉を重ねても十分だとは言えない、喜びである。「彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる」。
「あなたの神が王となった」。この場合、「あなたの神は王となった」では弱すぎる。「あなたの神が王となった」のである。フランシスコ会訳では「あなたの神が君臨する」と訳している。文語訳では「汝の神は統べ治め給う」と訳している。今までは、この「あなたの神」が姿を隠していた。彼らの目の前に君臨してきたのはバビロンの王であり、バビロンの神々であった。しかし、もう今からは違う。「あなたの神」、つまり「わたしの神が君臨する」。

2.「彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られるのを」。
バビロンの捕囚から解放されて祖国エルサレムに帰還するのは捕囚民だけではない。ヤハウェも一緒に帰るのだ。それを「彼らは目の当たりに見る」という。これを口語訳では「彼らは目と目と相合わせて」と訳している。ただ見ているのではない。その光景を思い描いて、「彼らは目と目と相合わせる」のである。岩波訳では「彼らは目と目を見交わす」と訳している。そういう雰囲気がある。お互いに目と目を見交わして、うなずきあう。エルサレムを思い描くとき、彼らの心は一つになる。ヤハウェがシオン(エルサレム)に帰る、ここでは「シオン」という言葉が暗号のようだ。要するに、神殿を復興するという意思表示である。エルサレムに帰って、エルサレムの神殿を建て直そう。目と目と交わしてうなずき合うときの心は「一緒にやろう」ということ励まし合いであろう。

3.「エルサレムの廃墟よ」
彼らの目は祖国エルサレムに向かっている。そこはどれ程荒れているのだろうか。まさに廃墟である。わたしたちは、5年前の東北大地震と津波により、そして何よりも東電の原発により福島の地がどれ程廃墟化したかを知っている。わずか5年で、人の住まなくなった土地は廃墟となる。しかし、待ってろよ。すぐに帰るから。捕囚民たちの心は祖国復興に向けて燃え上がっている。
もう一つ面白い表現が「主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわにされた」。これを岩波訳では「ヤハウェはその聖なる腕をまくった」と訳している。このリアルさが面白い。「聖なる腕をまくった」のがすべての国々の目の前である。
それを見て、「地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ」。まるで水戸黄門の印籠である。ヤハウェの「腕まくり」を目の前に見て、全世界の全民族が平身低頭する情景をイザヤは描いている。

4.何故、これを降臨節に読むのか
イエス・キリストの誕生こそ、神の「腕まくり」である。神が本気になって人類の救いのために動き始めた。これこそが、私たちにとって最高の「良き知らせ」である。
イザヤ書のこの言葉を降誕日に読むとき、このテキスト自体が新しい光を放つ。救い主の誕生という出来事の一つの特徴は、知らせられないと分からない、ということである。現代のようなケバケバしさは救い主の誕生とは無縁である。神の子の誕生は誰にも気が付かれないように、ソッと始まる。そのことを初めて知ったのは野で羊の世話をしていた羊飼いたちで、彼らも天使から知らされなかったら、知らなかったことである。遠い東の博士たちも、星の運行を注意深く見ていなかったら見落としていたかも知れないのである。いや、ほとんど多くの天文学者も、他の多くの羊飼いたちも、神の御子の誕生は知らなかった。知らされて、そしてそれを信じて行動した者にだけが知った「秘密」の出来事である。たまたま、そのニュースを間接的に知ったヘロデ王に対しては、天使は「隠した」のである。神が全人類の救いのために動き始めたという「知らせ」は同時に「隠す」ことでもあった。この知らせることと隠すこととの緊張関係において、神の救いの業は始められた。
だからパウロはロマ書10章でこのイザヤ書の言葉を引用して、「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです」(13~15節)と語る。
福音とは知らせられないと分からないし、信じることもできない出来事である。イエスが生まれてからでも初めての宮参りの時、大勢の人たちが母親マリアと幼子イエスとを見たことであろうが、ほとんどの人たちには隠されていた。どこでもあるような日常的なこととしてしか見えなかった。しかし、そこには「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々」(ルカ2:38) がいた。それがシメオンとアンナであった。彼らはイエスを一目見た瞬間、彼らが待ち望んでいたことが始まったということを知った。イエスが成人した後でも、多くの人たちはイエスを見たし、イエスと会話あをしたし、イエスの行動を見ていたが、イエスが救い主だと言うことに気が付かず、信じることもできなかった。パウロは言う。「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」。だから、「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」。
今日はクリスマス。私たちはクリスマスの意味を知っている。世の中の人たちはクリスマスの意味を知らない。知らないどころか、トンデモナイ誤解をしている。神の御子の誕生は伝えられなければならない出来事である。赤ちゃんが生まれた。それは他人事であれば伝える必要はない。伝える必要があるのは、赤ちゃんの関係者である。この赤ちゃんの誕生は、全ての人びとに関係のある重大な出来事である。だから、知らせなくではならない。

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