ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 08/07 季語「コレラ船」について

2014-08-09 14:05:06 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。『キリストと時』続読。いよいよ第3部、救済史と一般の世界史との関係。ここが明瞭にならなければ、救済史は一枚の「宗教画」にすぎない。昼寝1時間。練習1時間。夜は「警視庁捜査一課9係)」、「若者たち」を途中まで見て10時半就寝、5時半起床。体調・快調、チュン、チュン。

安部 勉さん、Satoshi Mizotaさん、平野 宏さん、他24人が「いいね!」と言っています。

村田 多鶴子 おはようございます。どうぞ、今日も、よい時間をお過ごしになられますように!m(__)m

萩野 秀子 おはようございます。墓の掃除、チラシ配りをします。良き日となりますように。お祈りします。

藤木 冨士子 おはようございます。

Akira Ueda 私も一般史と救済史の関係については考えます。
posted at 05:29:22

文屋 善明
今日の名言:
RT @wisesaw:
この世は一冊の美しい書物である。 しかしそれを読めない人間にとっては何の役にも立たない。(ゴルドーニ、18世紀のヴェネチアの劇作家)
<一言>本を読むことを勧めているわけではない。現実を読む、自然を読む、世界を読むことを勧めている。

金丸 勝彦さん、平野 宏さん、森分 望さん、他23人が「いいね!」と言っています。
posted at 06:48:46

文屋 善明
お目覚めの花。「(九州北部)美しい朝ですね」「久しぶりに朝日が輝いています」「他の地域はどうなんでしょうね」「近頃の天候少し変ですね。台風11号の前に12号が来たり、九州と北海道とが大雨なのに、本州が晴れていたり」「どうなっているんでしょうね」。
写真: お目覚めの花。「(九州北部)美しい朝ですね」「久しぶりに朝日が輝いています」「他の地域はどうなんでしょうね」「近頃の天候少し変ですね。台風11号の前に12号が来たり、九州と北海道とが大雨なのに、本州が晴れていたり」「どうなっているんでしょうね」。

Yutaka Tanabeさん、大野 泰男さん、村瀬 汎昭さん、他51人が「いいね!」と言っています。

村田 多鶴子 美しいダリヤの瑞々しさがたまりません~♪(^^♪
とても蒸し暑い朝です。それに蝉の大合唱が加わって・・・。

「昨日のツイート 08/05 健康寿命ということ」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/feccdc6e79d726cd5fa1536f56986f6…
posted at 12:59:48

文屋 善明
2014日々の聖句 08月07日(木)
昼、主は命じて慈しみをわたしに送り、夜、主の歌がわたしと共にある。わたしの命の神への祈りが。(詩42:9)
イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。(ルカ6:12)

私の黙想:
詩42はその冒頭の言葉の美しさに酔いしれる。「ああ神よ、鹿の渓水(たにがわ)をしたひ喘ぐがごとく、わが霊魂もなんじをしたひあへぐなり」(文語訳)。この一句をどれだけ多くに人が感動したことだろう。それだけに、これに続く言葉にあまり関心が向かなかったようにさえ思える。改めて読み直すと、この詩の一節一節が信仰者の実体験に呼応している。
今日は9節の言葉だ。これも文語訳で読む。「しかはあれど昼はエホバその憐れみをほどこしたまふ。夜はその歌われとともにあり、此のうたわがいのちの神にささぐる祈りなり」。冒頭の「しかはあれど」が原文にあるのかどうかわからないが、この言葉は非常に強い。この言葉によって8節の苦悩が吹き飛ばされる。「昼」とは仕事の時間帯である。この仕事の中に神の「憐れみ」を感じる。「憐れみ」というより、神の「配慮」であろう。新共同訳の「命じて」の意味がよくわからない。夜は歌をうたう時なのであろう。今のようにいろいろな「娯楽」があったわけではなかろう。おそらく琴を爪弾き、歌をうたい、昼間の疲れを癒やす一時であったのだろう。詩人は、その歌こそ神への祈りであるという。祈りは決して苦行ではない。ゆったりと好きな楽器を弾き、楽しい時を過ごす。それこそが「生ける神との交わりの祈り」だという。何と素晴らしい一節ではないだろうか。

舟田 譲二さん、村瀬 汎昭さん、西川 芳昭さん、他30人が「いいね!」と言っています。

門叶 国泰 マソラには、それらしい接続詞はありません、が、文語訳は迫力がありますね。

文屋 善明 詩の翻訳とはこういうことなのだと思います。

文屋 善明
今朝(2014年8月7日)の「天声人語」に「コレラ船」という季語があると書かれていました。「コレラ船」が夏の季語、成る程と思いました。
私も昭和21年8月の末頃から10月にかけて「コレラ船」に乗っていました。11歳の時のことです。母親と兄弟3人は旧満州を敗戦の年(昭和20年8月)にソ連軍が北満国境を越えて侵入したというニュースにより生まれ故郷新京(現長春市)の自宅を棄てて北朝鮮の平壌に至り、そこで8月15日、玉音放送を聞きました。その直後にすべての日本人は強制的に日本軍の旧兵舎に収容されました。それからは鉄条網で囲まれた生活を余儀なくされました。それからいわゆる「避難民」としてソ連軍の「保護下」に置かれました。1年間のうちに収容された日本人の3分に2は餓死、病死、発狂等でなくなりました。その間、米ソ間でいろいろと駆け引きがあったようですが、その頃の私たちは外部からの情報が完全に閉ざされていましたので、分かりませんでした。
次の年の夏、このままでは次の冬は越せそうもないということで、密かに脱出計画が練られ、8月初旬に約30人の人たちと一緒に収容所を脱走しました。子どもたちは私たち兄弟3人だけだったと思います。それから約2週間、発見されるのを恐れて未知の山間地を「ともかく南へ」という掛け声で歩き続け、何とか38度線を突破することが出来ました。その頃には一行は10人足らずになっていました。
南に入ると米軍(国連軍かもしれない)の管理下で生き延び、釜山まで送られ、港で数日待った上、やっと引き揚げ船に乗ることができたのは8月の末頃でした。
船は一昼夜の航行で、深夜の対馬の島影を見たとき、やっと祖国に帰ってきたと同乗の日本人たちは大喜びをしました。朝方、長崎の佐世保港に到着、いよいよ上陸という段になって、突然、船内にコレラが発生しているということがわかり、それから40日間、佐世保港の沖で、米軍の廃船に近い引き揚げ船の中で過ごしました。「内地」(その頃私たちそう呼んでいました)を目前にしながら、真夏の太陽が鉄製の甲板を照りつける40日間、その間にも次々と命を落とす人も出てくるし、またコレラが発生すると上陸が延期されるということで、船の中は不思議な緊張と連帯感があり、私の生涯でも忘れられない40日間でした。

コメント多数、省略。

文屋 善明さんが松下 光雄さんのリンクをシェアしました。
これは一つの「歴史的事実」として忘れてはならない記録です。シェアさせて頂きます。

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