ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

西大和の風(「大和伝道区だより」 1989.5.20)

1989-05-20 10:29:44 | 雑文
西大和の風(「大和伝道区だより」 1989.5.20)

今までに、大阪市内、兵庫県尼崎の園田、京都市北部の(修学院と岩倉)、その後三重県の四日市、再び京都御所の近く、そして今西大和に住んでいる。それぞれに自然環境、特に風の吹き方が違う。風の吹き方の違いを強烈に感じたのは、京都から四日市に移ったときである。四日市のいわゆる「鈴鹿降ろし」は、京都の穏やかな無風状態と比べると、まるで毎日台風のように感じた。牧師観の窓も玄関も切れ目なくガタビシ鳴っていた。洗濯物も三分の一の時間で乾くので大変助かったものである。
京都の雨はおおむね上から下に垂直に糸のように静かに降る。だから、京都では雨の日でも、雪の日でも、障子を開けて庭を眺め、池に静かに生じる美しい波紋を見て詩を詠むというような優雅な文化が生まれたのだと、納得する。しかし、四日市では雨は斜めに降るものとされる。ある時は、北の御在所山から冷たい風が吹きおろし、そうでないときは広い太平洋を渡り、狭い伊勢湾でしぼめられ、強められた浜風が四日市を直撃する。
西大和の風は、四日市のそれよりも強い。幼稚園の園庭に幹の円周が五尺、高さは四、五階建てのビルを越えそうな大きなポプラの木がある。この大木が今にも倒れそうに揺らぐ。見ていると、恐ろしくなる。風に吹かれて鳴る葉の音は、ここに来て初めの頃は本当に台風かと思って夜中に何回も目を覚ました。雨は斜めというよりも、横降りと思う方が実感に近い。
ただ、ここの風は四日市と違って、いつも吹いているわけではない。ときどき吹き荒れるという感じで、普段は全く無風状態である。園庭のポプラの木が大きなキャンバスに描いた絵のように、その先端の小さな葉までも微動だにしない。これに比べると、京都の無風というのは「穏やかなそよ風」というべきであろう。
この完全な無風状態と激しく吹き荒れる風とのバランスが何とも言えない心のリズムを作り出す。暴風のような風のと時も、それを常のこととして慌てず、怯えない。また、時間が止まってしまったのではないかと思われるような無風状態の中で永遠を思う。
わたしはここでもまた多くのことを学べることに、今喜びを感じている。

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