ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 10/23~10/29

2011-11-01 08:52:00 | ローズンゲン
今日のローズンゲン 10月23日(日):
主はこう言われる。太陽を置いて昼の光とし、月と星の軌道を定めて夜の光とし、海をかき立て、波を騒がせる方、その御名は万軍の主。(エレミヤ31:35)
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。(コロサイ1:16)
私の黙想:
今日のエレミヤは自然科学者のようだ。創世記の天地創造物語との整合性を付けようとしている。と同時に創造神を「万軍の主」と呼ぶ。面白い。「調停者エレミヤ」の面目躍如。「万軍の主」についてはブログ「ぶんやさんち」(8/23,25)を参照のこと。

今日のローズンゲン 10月24日(月):
お前たちの悪い道や堕落した行いによることなく、わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。(エゼキエル20:44)
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マタイ9:13)
私の黙想: 「わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき」。そうだ、神はいざという時、人間の努力や人間の意志によらずに行動される。私たちは神の働きかけを、ただ驚きを持って見、神が神であるという真実を目撃する。大牟田聖マリア教会の焼け跡に立って、日本聖公会の将来を想う。

今日のローズンゲン 10月25日(火):
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。(イザヤ65:17)
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。(ロマ8:18)
私の黙想:
全く新しい世界になったら、過去の世界のことを忘れる。その時には、それが新しい世界であるということをどういう風にして認識するのだろうか。世界史の長さと一人の人間の寿命とを比べると、過去の世界のことは「忘れる」のではなく、「知らない」のであろう。それなら、私たちは現在をイザヤの言う「新しい天と新しい地」として生きる、ということも可能だし、そのことが要請されているのではなかろうか。

今日のローズンゲン 10月26日(水):
御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。(申命記30:14)
御言葉を行う人になりなさい。(自分を欺いて、)聞くだけで終わる者になってはいけません。(ヤコブ1:22)
私の黙想:
律法は実行するためにあり、実行できるものとして命じられている。キリスト者はパウロ主義に汚染されて律法は実行不能なものという先入観を持ってしまっている。だからヤコブは「自分を欺いて」はいけないと忠告する。この句をローズンゲンは削っている。

今日のローズンゲン 10月27日(木):
ヨブと親しい三人は、見舞い慰めようと相談して、やって来た。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。(ヨブ2:11,13)
だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。(1コリント10:24)
私の黙想:
3人の友人は話しかけることができなかった。極度の苦悩の中にある人には、どうせ人間の言葉など何の役にも立たない。そうだろう。それでは黙って一緒に座っておればいい。ヨブ記の隠れたもう一つのテーマは人間の慰めの言葉の虚しさであろう。信仰深そうな顔をして無惨な言葉を平気で投げかける信仰者よ、「黙っておれ」。

今日のローズンゲン 10月28日(金):
ヨセフは兄弟たちに、「途中で、争わないでください」と言った。(創世記45:24) 日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。(エフェソ4:26)
私の黙想:
ヨセフは兄弟たちを信じていない。自分に対する兄弟たちが行った過去の出来事を思い起こせば、たとえ兄弟でも信じられない。TPP問題は結局、アメリカを信じることが出来るか出来ないかということに帰する。過去のことを思い起こせば、アメリカは信じられない。信じられないことは当然であるが、それでもなお、日米関係は重要で切ってしまうことは出来ない。この関係はこれからもズーッと続くであろう。

私の黙想に関する伊藤昭吉さんとの対話:
伊藤 昭吉 そして、最後まで黙っていれば、あとのバトルトークはなかった。人間、やっぱりしゃべらないと…
文屋 善明 そりゃ、ヨブ記は作品ですから黙っていたら文学になりません。従って、長々としたトークは人間の言葉の虚しさを強調し、最後に神が登場して語る言葉の威力を強調する。あっ、しまった。これは聖書に対する立場を無視した発言でしたね。
伊藤 昭吉 真打を努めた神の言葉は非論理的だね。かばを見ろとか、レビヤタンを釣れるのか、とか。ヨブの二倍の祝福というのも、どうも…。
文屋 善明 そうです。まさにそこです。神の言葉は人間の理解を超えた「知恵」で、その神の知恵の前で人間はただひれ伏すだけだ、というのがヨブ記のメッセージだと私は理解しています。最後の2倍の祝福は物語を完結するための「付け足し」だろうというのが、現時点での私の解釈です。

今日のローズンゲン 10月29日(土):
わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。(イザヤ44:6) 今おられ、かつておられ、やがて来られる方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。(黙示録1:4)
私の黙想:
「わたしをおいて神はない」。非常にスッキリした神信仰。こういう単純さがキリスト教には欠けている。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と告白した瞬間、通常の論理では理解不能な神学のジャングルに迷い込んでしまう。「神学のジャングル」という言葉は恩師、松村克己の人生を顧みての告白の言葉である。松村は宗教哲学の世界から神学の世界に足場を移して神学を営んだ。

最新の画像もっと見る