ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/11/15~11/21

2015-11-22 06:43:47 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/11/15~11/21

2015日々の聖句 11月15日(日)
いかに幸いなことでしょうあなたの家に住むことができるならまして、あなたを賛美することができるなら。(詩84:5)
イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。(ヘブル13:15)
私の黙想:
旧約聖書、特に詩編においては最高の人生、人生においてもっとも願わしい生き方は、四六時中、神殿に居て、神を讃美することだとされているようだ。しかし、高齢者ならいざ知らず、そういう生活が「最高の人生」だろうか。汗水を流して働き、家族を養い、家族と共に過ごす人生こそ「最高!」ではないだろうか。聖書は全体として、そういう風に考えているとわたしは思う。では、なぜ、詩編はそういうことを言うのだろうか。私はここに聖書における深い意味を感じる。神殿の中で住まい、神殿内での様々な奉仕をする人生。いやそういう人生を送らざるを得ない人々が、神殿の中で生き生きと、喜び、祈り、讃美して過ごす人々こそが、人々から羨ましがられる社会、これこそが理想的な社会である、ということを語っているように思う。ところが、現実の社会を見るとき、これと逆なことが起こっているのではなかろうか。

2015日々の聖句 11月16日(月)
あなたの目は人の歩みをすべて御覧になられます。(エレミヤ32:19)
我らは神の中に生き、動き、存在する。(使徒言行録17:28)
私の黙想:
今日の聖句エレミヤの言葉、そこで終わったらダメでしょう。「神の目」はただ「ご覧になられます」で終わったら、ほとんど意味がない。いや、勿論「ご覧になっている」というだけで、絶大なことではありますが、それよりも、それに続く言葉の方がはるかに大きいことである。「各人の道、行いの実りに応じて報いられます」。
この場面は一つのクライマックスである。預言者エレミヤのバビロン捕囚に関する預言の言葉があまりにも激しく、その言葉に耐えられなくなったユダの王ゼデキアはエレミヤを逮捕・拘留してしまった。しかしそれでエレミヤは沈黙するような人物ではない。エレミヤは獄中でも神の言葉を語り続ける。ここでの物語(エピソード)は面白い。ともかく獄中でのエレミヤの預言が見事に的中する。獄に居た人々はそれを見ていた。
その上で、エレミヤは神に祈る。今日の聖句はその時の祈りの言葉である。しかし、この祈りを聞いていたのは獄中に居た人だけで、ゼデキア王の耳にまでは達しなかったが、それがそのまま実現し、ユダ王国はバビロンによって滅ぼされ、彼らの祖国は荒廃する。しかしエレミアの預言を聞いた人々はヤハウェが必ずこの地を回復すると信じて、暴落した土地を買い占め、その証書を封印し、証人を立てて、どこかに埋めて置いたのであろう。いかにもユダヤ人らしい出来事である。まぁ、いわばエレミヤの預言を信じた人は大儲けをしたというお話である。

2015日々の聖句 11月17日(火)
モーセの言葉:わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、主の戒めに聞き従わず、無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。(申命記11:26~28)
イエスの言葉:わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:6)
私の黙想:
今日の聖句が申命記神学の設定。イスラエルの歴史(創世記~民数記、ヨシュア記〜列王記)はこの神学に基づいて再叙述されている。その意味では今日の聖句は「要」の言葉である。考え出すと際限がないので、一寸したことに引っかかることにする。今日の聖句の中で「無縁であった他の神々」という表現がある。この「無縁であった」という言葉はなかなか面白い。口語訳も新改訳も「あなたがたの知らなかった」であり、フランシスコ会訳は一寸助詞を変えて「あなたたちが知らなかった」、文語訳はさすがに名文「素(もと)知らざりし他の神々」で、いずれにせよ、意味するところはほぼ同じである。「知らなかった」ということと「無縁であった」とどう違うのか。「知らない」ということは「知らない」と言うことである。「無縁であった」ということには「知っていた」けど、私たちには関係がないということ、「素(もと)」という言葉が入ると、「元々知らなかったが今は知っているよ」という意味が込められてくる。その意味では私たちの神、ヤハウェは初めから知っていたし、知っていたどころか、私たち自身の存立がこの神に依存しているということを意味する。イスラエルの歴史を振り返るとき、彼らは元々砂漠を放浪する民族であり、いろいろな民族と触れ合ってきて、そこでの神々に接してきたであろう。アブラハムもそうである詩、イサクだってそうである。そこまで遡らなくても、彼らは偉大なるエジプトの奴隷であった。その時にはエジプトの神々を知っていたし、おそらくそこではそれらの神々の神殿建築にも従事していたかも知れない。つまり、彼らはそれらの神々をよく知っていたに違いない。しかし、それらの神々はすべて「あなたたちとは無縁であった」という。必ずしも無縁であったわけではないが、ヤハウェとイスラエルの民との関係を考えると無縁であった。これらの神々があなた方に何かしてくれたか。何もしてくれなかったではないか。私はあなた方をエジプトから引き出し、一つの民として育てた。そして「今」がある。こう考えてくると新共同訳の「無縁であった」という翻訳にはなかなか味がある。

2015日々の聖句 11月18日(水)
わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。(エゼキエル37:26)
神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。(2コリント1:20)
私の黙想:
「平和の契約」、魅力的な言葉である。敵対していた者が「平和の契約」を結び、しかもそれが「永遠の契約」となる。契約とは契約する者同士が相互に相手を縛ることである。基本的には相互に対等関係であることが前提であるが、ここでは神と民との契約であるから対等であるはずがない。つまり国家間でいうと「不平等条約」である。ただここでの契約の内容が、上位の者が「わたしは彼らの住居を定め、彼らを増し加える。わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く」というのであるから、下位の者にとっては「安定した生活と発展」を約束され、それに対して上位の者は「彼らの生活の真ん中に聖所を置く」ということになる。つまり、上下関係の永遠化ということになる。エゼキエル書においては、これがヤハウェとイスラエルとの関係であるから、実に「喜ばしい」ことである。まさに「福音」であろう。
しかし、これが国家間の条約となると、必ずしも「喜ばしい」ことにはならない。まさに、日米関係がそうである。「日本の安全保障」と「日本国内に米国の聖所、つまり『基地』を置くということになった」。しかも、これが「永遠の条約」であるという。この条約が敗戦直後ならある程度の理解出来ることであるが、「いつまでも」ということになると、問題は別であろう。不平等条約は廃棄されるべきである。その上で、本当の意味での「平和条約」が結ばれなければならない。なぜなら、米国は日本にとって「神」ではないのだから。

2015日々の聖句 11月19日(木)
罪人らのことに心を燃やすことはない。日ごと、主を畏れることに心を燃やすがよい。(箴言23:17)
父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(マタイ5:45)
私の黙想:
「心を燃やす」という言葉が繰り替えされ、信仰者が日々何に関心を抱き、何を考え、何に情熱を抱いているのかということを語っている。もう、現政権のことや、テロリストたちのことで「心を燃やすこと」を止めようかと思う。いや、そんなに「心を燃やしている」わけではありませんよ、と言い訳をしたくなる。
ところで、口語訳を読むと全く違う文章がそこにある。「心に罪びとをうらやんではならない、ただ、ひねもす主を恐れよ」。どうしたらこんなに違う翻訳が出てくるのだろう。フランシスコ会訳、文語訳は口語訳とほぼ同じ。新改訳は「うらやむ」というところを「ねたんではならない」と訳している。とすると何時もの通り、新共同訳だけが独自路線のようだ。原文が違うのだろうか。
ここのところ、岩波訳は面白い。「お前の心は、罪人たちのことで熱くなるな。むしろ、ひねもすヤハウェへの畏れで(熱くなれ)」と訳している。最後の言葉をカッコの中に入れている点に興味が出てくる。注釈によると、後半には動詞がないので解釈が困難という。それで「恐れ」を動詞の命令形に変更しているのが、口語訳、新改訳だということらしい。まぁ、だいたい原文の構造が分かってきた。ところで、この言葉は言いっ放しではない。ちゃんと次の節で答えを出している。「確かに未来はあるあなたの希望が断たれることはない」。これも、岩波訳は明白である。「そうすれば必ず(よい)結末がある。お前の希望が、断ち切られることはない」。何という慰めの言葉であろうか。口語訳もほぼこれと同じ路線である。「かならず後のよい報いがあって、あなたの望みは、すたらない」。

2015日々の聖句 11月20日(金)
わたしはお前たちのために、お前たちのもとへと向かう。お前たちは耕され、種を蒔かれる。(エゼキエル36:9)
主はその僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。(ルカ1:54~55)
私の黙想:
バビロン捕囚からの解放の預言(紀元前6世紀の半ば頃)、だと思うから静かに読める。ここでは民族が「土地」に象徴されている。あの時は文字通り「土地の回復」であったが。今日、この言葉は穏やかな気持ちでは読めない。今日、この言葉が「世界の泥沼状態」の原因となっている。イスラエルの民でないものたちが「イスラエル」を名のり、イスラムの民でないものが「イスラム」を名のり、争い、その争いの中にキリスト教も巻き込まれ、世界の争い、もう既に「第3次世界大戦」という言葉もチラホラ聞かれる。
いまこそ、本当に(現実的に)、神が「私たちのためにわたしたちのもとへ」向かって欲しい。わたしたちを耕し、種を蒔いて欲しい。平和の種を!
訳語としては口語訳では「あなたがたに臨み、あなたがたを顧みる」となっており、フランシスコ会訳では「お前たちに向かい、お前たちに歩み寄る」。新改訳は「おまえたちのところに行き、おまえたちのところに向かう」とある。大差ないが、私は個人的には口語訳の「臨み」と「顧みる」という言葉が好きだ。好きだ、というより、この聖書的表現に馴染みがある。

2015日々の聖句 11月21日(土)
主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。(詩96:2)
詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。(エフェソ5:19)
私の黙想:
「日から日へ」、面白い表現である。文語訳、口語訳、フランシスコ会訳では「日毎に」、新改訳と新共同訳だけが「日から日へ」、ただ新改訳は「と」を加えて「日がから日へと」としている。この「と」を加えることによって意味が変わってくる。そしてそれを次のように解釈している。「絶え間なく救済伝承を継承し布告することは、神の民の重要な使命である」。いかにも保守的な姿勢が見られ興味深い。
ところで、ここで新共同訳と新改訳だけが挿入している「良い知らせを」という言葉は、原文にはない。「御救いを知らせよ」だけである。この「良い知らせ(good news)」、まさに「福音」という言葉はどこから出てきたのだろうか。この点について、岩波訳では面白い注釈がある。この「告げよ」について70人訳ではすべて「善い知らせを告げる」と訳しているという。参照:イザヤ40:9。どうも、新共同訳、新改訳とはそれに従ったらしい。

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