ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:顕現後第2主日( 2019.1.20)

2019-01-18 10:26:06 | 説教
断想:顕現後第2主日( 2019.1.20)

水を汲んだ召使いたちは知っていた ヨハネ2:1~11

<テキスト。超超訳>
第7日目 カナの結婚式 <2:1~12>
語り手:そんなことがあって中2日おいた3日後、ガリラヤのカナという村で結婚式がもたれ、その祝宴が開かれました。その祝宴にはイエスの母も手伝っていました。またイエスも、イエスの仲間たちも招かれました。
祝宴には予想以上に大勢の人たちが集まり盛大でした。ところが、祝宴のたけなわ、ワインが足りなくなってきました。祝宴の裏方では大騒ぎになっていました。その様子を見て、イエスの母親はイエスにそっと耳打ちいたしました。
イエスの母:大変なの、ワインが足らなそうなの。
イエス:(多少冷ややかに)そんなこと私には関係ないでしょう。マリアさん、私の時はまだ来ていないのですよ。
語り手:イエスの母は、また出しゃばってしまったと反省しつつも、その家の使用人たちに、そっと耳打ちしました。
イエスの母:もし、この人があなた方に何かを言ったら、言う通りにして下さいね。
語り手:その家の入口にはユダヤ人の清めの習慣に従って、100リッターほど入る石の水甕が6つ置いてありました。イエスは使用人たちにそれらの水甕を指さし、そっと命じました。
イエス:あの水甕に水を一杯入れて下さい。
語り手:使用人たちは、イエスの母から予め言われていたので、言われる通り水甕に水をなみなみと運び入れました。
使用人たち:イエス様、あなたに言われた通りにしました。
イエス:ではその水を今度は祝宴の世話役の所に持って行って下さい。
語り手:使用人たちは水甕に入れた水を瓶に詰め替えて、世話役の所に持っていきました。ワインのことで心配していた世話役は運ばれてきた水を試飲して驚きました。
世話役:何とまぁ、こんな上等なワインがどこにあったのだろう。
使用人たち:(彼らはその秘密を知っていたが、ただニヤニヤするだけでした)
語り手:驚いた世話役はさっそく花婿を呼び、言いました。
世話役:あなたは何と奥ゆかしい人だろう。普通は、まず良いワインを客に振るまい、客が酔ってきた頃に、安物のワインを出すものなのに、あなたは上等のワインを今まで取っておいたのですね。
語り手:イエスは最初の徴(しるし)をガリラヤのカナで行い、神に栄光を帰しました。これを見てイエスについてきた仲間たちもイエスを信じました。

<以上> 註:「超超訳」とは、文屋自身による個人訳で、ヨハネ福音書の書風から考えて「シナリオ風」に訳してみました。

1.カナの結婚式での出来事
本日の福音書の物語そのものは、それほど複雑なものではない。この物語がこの主日に選ばれたのは、これがイエスの最初期の出来事だからであろう。弟子たちもまだ確定していない雰囲気である。
カナという所で行われた結婚式にイエスと弟子たちも出席した。ところが結婚式の途中でぶどう酒がなくなり、主催者は大恥をかくところだったが、たまたまその結婚式に出席していたイエスの母マリアがイエスにそのことを告げると、イエスは僕たちに空っぽの水瓶に水をいっぱいに満たすようにお命じになり、僕たちがその様にすると、次にその水を宴会場に運ぶようにお命じになられた。僕たちが命じられたように、それを宴会場に持って行くと、その水は上等のぶどう酒に変わっていた、という話である。水が酒に変わるという話そのものは世界各地のいろいろな民族の民話にもみられるものです。日本でも孝行息子の話として有名である。

2.石をパンに変える出来事
ところで、話は全然変わるが、イエスが荒野で断食して祈っておられるとき、悪魔が登場しイエスに石をパンに変えて食べるように誘惑する話がある。そこではイエスは、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」と述べられて、石をパンに変えることを拒否しておられる。石をパンに変えることも、水を酒に変えることも奇跡としては同じことである。問題は水を酒に変えることが出来たから、私たちはイエスをキリスト・神の子と信じているのではないし、福音書はそのことを私たちに語っているのではないであろう。悪魔でさえ、イエスが石をパンにお変えにならなかったからといって、イエスが神の子であることを認めなかったわけではない。むしろ石をパンに変えることを拒否されたことによって、神の子の神の子たることが明らかになったということが重要なのである。

3.顕現節の中で
顕現節の中でこの物語を読む時、私たちは3つのことを読み取ることが出来る。
先ず第1、この物語では神の働きは、誰にでも分かるようには働いていない、ということである。神は歴史の中で隠れて働いておられる。自分自身でも気が付かないような危機に直面している時、あるいは私たちが得意の絶頂にあると思っている時にも、また私たちが八方塞がりでどうしようもないと思って自棄になっている時にも、神は常に私たちを見守り、必ず解決の道を備えてくださる。パウロは自分が出会った様々な困難を思い出しながら、次のように回想している。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気を付けるがよい。あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えて下さるのである」(1コリント10:12~13) 。

4.全ての人のための恵み
第2に注意すべき点は、この隠れた神の働きは全ての人に恵みをもたらす、ということである。神を信じている人にだけ与えられるのではない。全ての人が恵みを受けるのである。カナの婚姻では秘密のぶどう酒を飲んで楽しむことのできた人は、そこにいた全ての人々である。結婚した当事者は勿論のこと、祝会の責任者も、そのぶどう酒がどこからきたのか知らない人も、さらにはぶどう酒がなくなって祝会がめちゃくちゃになりそうになったことを知らない人々でさえ、それを飲んで喜んだ。神の働きは神を信じない人にも、神を否定する人にさえも、恵みをもたらす。ここが重要な点である。だから人々は神の存在を信じようとしないのである。だからこそ、この世界では神の働きは「当然のこと」になっているのである。あまりにも当り前過ぎて、神の奇跡的な働きと思わなくなってしまっている。しかし、あなた自身の身の回りの生活をよく見てご覧なさい。自分の努力でどれだけのことが出来ますか。むしろ自分の努力の成果というものは、どうでもよいことで、決定的に重要なことは、「運」とか、「偶然」とか、訳の分からないこととして片付けているのではないでしょうか。幼な子のような素直な心で見るならば、神の恵みの働きがはっきりと見えてくるはずである。
そこで、第3のこと。カナの婚姻の出来事から、私たちが読み取らなければならない最も重要なことが浮かび上がってくる。この物語では、神の働きを知っている者と、知らない者とが区別されているということである。誰が神の業を知ったのか。ほとんど全ての人は知らなかった。祝会の責任者でさえ知らなかった。ただそれを知っていたのは、水を汲んだ僕たちだけであった、ということがこの物語の重要なポイントである。
この「水を汲みし僕どもは知れり」という注釈には、この物語を語り伝えた人々、つまり初代教会の信徒たちの「その僕たちとは私たちなのだ」という思いが込められている。水をぶどう酒に変えるというような神の恵みは、全ての人に与えられている。ここがキリスト教のメッセージの重要な点である。それを神の恵みとして受け取るか、偶然の出来事と考えるか、それが信仰の分かれ目である。たとえ信仰がなくても恵みは与えられる。信仰ということさえ神の恵みの条件ではない。従って、誤解されることをおそれずはっきり言うと、神の恵みを得るための信仰というものは無意味である。キリスト教の信仰においては、常に「信仰なき我を憐れみたまえ」という祈りの言葉が伴う。従ってキリスト教においては、キリスト者とは「信じる人」というよりも、「イエスと共に働くもの」「神の僕」ということなのである。そして、僕は神の働きを知り、神の心を知るのである。神と共に働くことによって、神の働きを知るのである。

5.神と共に働く者
教会の中にも、ただ恵みだけを受けることで満足している人がいないわけではない。教会の中にも、共に働く人というより評論家のような人もいる。評論家たちはぶどう酒が足りないとか、後から上等のぶどう酒が出てくると、「人は先ず上等のぶどう酒を出して、お客たちが酔い始めたら安物のぶどう酒を出すべきだ」などと批評する。水を汲んだ僕たちは、彼らが汗を流しながら水を運んでいるとき、まさかその水が上等のぶどう酒に変わるなどとは想像も期待もしていなかったにちがいない。ただイエス・キリストから命じられたから、その様にしただけで、そこには自己を誇るものなど少しもない。あるのはイエス・キリストに対する信仰だけである。僕には自分自身のことでは何も誇るものはない。ただ神の業を身近に見ることが出来たということだけが喜びなのである。

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