ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 03/30 「純と愛」をめぐって

2013-04-01 06:36:41 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。『国家論』続読。商品論、価値形態論。資本主義経済の調整機関としての国家の登場。社会の現象を見る立場の問題。反証主義と旅人の神学。真理は暫定的なもの。「日本資本主義論争」、講座派と労農派。黙想の家の十字架の道行きを歩く。とと市場で昼食。10時半に就寝。5時起床。体調快調、チュン、チュン。
posted at 05:20:31

今日の名言:RT @Jewish_proverb:
本のない家は,魂を欠いた体のようなものだ。(ユダヤの格言)
<一言>この格言も徐々に過去のものとなりつつある。1台のパソコンが数万冊の本に取って代わる。
posted at 06:21:59

「昨日のツイート 03/29 ピラトの手紙(ローマ帝国ティベリウス皇帝へ)」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/caddee03242a19deb6e40749f8df192…
posted at 07:11:39

日々の聖句2013 03月30日(土)
わたしは、高く、聖なる所に住み打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にありへりくだる霊の人に命を得させ打ち砕かれた心の人に命を得させる。(イザ57:15)
神はイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせてくださいました。(使10:36)
私の黙想:
「高い場所に存在する神」と「へりくだる人間と共に存在する神」。 神の居場所。「天に居ます」と「内在(信仰者の心の中)する」。イザヤにおける内在の神の発見。現在、復活したイエスは「神の右に座す」と共に、「私たちの中に住む」。人間の思考を超えている神。シュライエルマッハーからバルトへ。

野間 悦三さん、文屋 知明さん、濱 和弘さん、他21人が「いいね!」と言っています。

朝食後、散髪に行き、息子が迎えに来てくれて、孫と私たち4人で「いじ☆かるstudio」に出かけ、昼食は福岡中央市場の魚辰で、ただ今帰宅。

林 巌雄
純と愛、最終回。
愛は、こもごもながるる、純の恵みと悲しみ。
恵みと悲しみはひとつに溶けあう。茨は冠となる。
脚本家の前半の自由と後半の自制に深みを感じました。
未完成さは時代の課題を背負う故と思いました。
来週からは、Kyon2の笑顔と宮本信子の円熟演技(^^)

文屋 知明さん、安部 勉さん、望月 克仁さん、他10人が「いいね!」と言っています。

Remi Suzuki 植物状態から帰還するのでしょうか?

杉山信義 今見ています

林 巌雄 どうなのでしょうね。オープンエンドなのでは。続編のスペシャルがあるのかな。たぶん、ないと思いますね。

杉山信義 続編はないかもと思いますが。あと5分で復活する・目覚めるのではと、期待しています。

文屋 善明 純の浜辺での大独白。つまらない説教を聞いているようだ。ドラマのメッセージを説教で終わるのなら初めから説教をすればいい。だラマのメッセージはドラマで表現しなければドラマにならない。初めに予感したとおり見る者を翻弄させるだけのつまらないドタバタ劇だった。私は林さんの評価とは違って脚本家の軽薄さを感じました。

林 巌雄 最後の大独白は駄目でしたね。あれは脚本家の意図なのでしょうか。局に言われての妥協ではないでしょうか。愛を目覚めさせたり、認知症が快方に向かったり、ホテルがうまく開業したりしていたら、わたしは脚本家の軽薄さを笑うでしょう。でもそうさせないところに、脚本家の深みを感じました。また、わたしは翻弄させられたというより、これだけ、違和感を感じるさせるドラマをあえて書く意図はどこか、そちらに関心が向かいました。そして、難しいテーマによく挑んでいると思いました。
プロは作品の良しあしが問われると思いますが、ぼくなどは、良い作品のひとつも書けません。書かなくてはならないことがあるけれども、書けない、そういう痛みを感じました。挑めば失敗するテーマにあえて挑んで失敗する姿を、ぼくは、軽薄とは思いません。作品として稚拙であっても、そこに何かがあるということもあると思います。

文屋 善明 あなたの意見、感想について、一言も反論できません。恐らく、あなたの言うとおりでしょう。軽薄か、軽薄でないかは、これからのこの作家の今後の作品を見なければ判定は出来ないでしょう。ということは、視聴者を宙ぶらりんにしたまま、時間切れで終わってしまったという感じです。あなたの言うとおり「続編があるのか」という感じです。その意味では、この作品の一つのテーマである「キス」に関する取り扱いも、凄い深さを感じると共に、なーんだと裏切られた感じ、要するにすべてが中途半端です。その中途半端さが「現代性」というなら、その通りでしょうが、これはもう受取手の年代の問題でもあるでしょうね。

林 巌雄 文屋先生は「中途半端」と受け取られたのですね。ぼくは、「答えのない状況に耐える」ことを描いているように思いました。オウム信者になった優等生たちは明確な「答え」を求めて、あの結果を生みました。日本基督教団も明確な答えによって人々をぶったぎっています。律法学者的解ではなく、解なき状況、そういう意味では「中途半端」「宙ぶらりん」の状況を生き抜く力がイエスだと思います。

文屋 善明 確かに、イエスは明白な答えのないまま、つまり弟子たちの生き方が不明瞭なままに、彼らを信じて十字架にかかりました。福音書を読む限りイエスは答えのない「宙ぶらりん」の状態で生き、逝きました。しかし、それが「私たちのメッセージ」である限り、メッセージは明白です。その点で言うならば、この作者のメッセージが「宙ぶらりん」というのと、「宙ぶらりん」の状況を描くというのとでは次元が違うのではないでしょうか。オウム真理教の問題や教団(聖公会も同じ)の問題は、「宙ぶらりん」の状況認識がない、あるいはその状況の中で「自分たちの解答」を絶対化してしまった結果ではないでしょうか。

文屋 善明 林さんとの対論はいつも多くの刺激を受け、私自身の曖昧な理解が明瞭にされ嬉しく思います。これからもよろしく。

<補遺>特になし。

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