ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第21主日(特定23)(2018.10.14)

2018-10-12 08:18:27 | 説教
断想:聖霊降臨後第21主日(特定23)(2018.10.14)

金持ちの男(律法理解)  マルコ10:17~27

<テキスト、超々訳>
◆金持ちの男(10:17~22)
イエスが街に出られると、1人の男が走り寄って来て跪き、尋ねました。「良い先生、永遠の生命を得るためには何をしたらよいでしょうか」。イエスは言われました。「何故、あなたは私を良いというのだろうか。良いといわれるのに相応しい方は神だけであろう。あなたは神の国に至る戒めを知っているだろう。律法に書いてあるではないか。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。騙すな。父と母とを敬え等々』」。すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。するとイエスは彼を優しい目でじっと見つ、その真剣さに答えて、「あなたには足りないことが一つだけある。帰って、持っているものを全部売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになる。そして私に従ってきなさい」。すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。沢山の資産を持っていたからでした。
◆ 資産家と神の国(10:23~27)
それからイエスは見まわして、特に弟子たちに言われました。「財産のある人が神の国に入るのは、なんと難しいことだろう」。弟子たちはイエスのこの言葉に驚きました。イエスは弟子たちに言われました。「神の国に入るのはなんと難しいことだろう。資産家が神の国に入るよりは、駱駝が針の穴を通る方が、易しいぐらいだ」。すると彼らはますます驚いて、互に論じ合いました。「それでは、誰が救われることができるのだろう」。イエスは驚く彼らを見つめて言われました。「人間レベルで考えている限り不可能だ。しかし、神の次元ではすべてが可能になるのだ」。

<以上>

1. 資料構成
前半の部分ではイエスと金持ちの男との会話が記録されている。冒頭の部分でイエスは男の揚げ足を取るように、「良い先生」という言葉を取り上げて、つまらない応答をする。その上で「永遠の命を得る」ということについて、他人に依存する姿勢を批判する。その上で、その答えは既に知られていることであると言う。ここでの議論の焦点は律法についてどう考えているのかが議論の中心になってくる。
金持ちの男との会話に続いてイエスは弟子たちに「らくだが針の穴を通るよりも金持ちが神の国に入ることの方が難しい」と語り、その言葉に弟子たちは当惑する。しかも、ここでは「神の国に入ることは、なんと難しいことか」という言葉が2度も繰り返され(23,24)、弟子たちは2度とも同じように当惑する。
23節~27節は構造は複雑で、何かもたもたした印象を受ける。マルコ以前の伝承資料とマルコによる編集句とが入り交じっており、正確に分析することは非常に難しい。17節の「永遠の命を受け継ぐ」というお金持ちの言葉が、23、24節では「神の国に入る」という言葉に入れ替えられている。 ある解釈者は、もともと金持ちの男の物語は22節までであるという主張し、別の解釈者は24節前半までであるとする。 確かに24節の後半から27節にかけて、よく読むと言い方が微妙に変化していることに気付く。つまり23節では金持ちが神の国に入ることの難しさが語られているが、25節ではその難しさは「らくだが針の穴を通る」ことと比較され、極端に強調されている。ところが、その直前の24節の言葉では「お金持ち」に限らず、神の国に入ることは誰にとっても難しいことなのだ、というように一般化されている。
さらに26節では「神の国に入る」という言葉が「救い」という言葉に言い換えられている。つまり、この比較的短い部分で「永遠の生命を受け継ぐ」(17)から「神の国に入る」(23、24)に言い換えられ、さらにそれは「救い」というより一般的な言葉に変換されている。そして、それを受けて、27節では救いにおける人間の行為は絶対的に否定され、無効とされ、ただ神の独占的行為であると述べられる。27節の言葉にはもはや「金持ちの男」という特殊な問題は完全にかき消されている。つまり、23節の言葉と27節の言葉とは同じ言葉の繰り返しのように見えるが、事柄の内容は異なっている。

2. 金持ちの男の物語
イエスと弟子たちが、旅に出ようとあわただしく準備を整えている時、1人の金持ちの男がイエスを訪れた。弟子たちは「門前払い」をしたかったに違いない。しかし、その人物の深刻な表情を見て、弟子たちは彼をイエスのもとに連れてきた。彼は、「走り寄って、ひざまずいて尋ねた」と福音記者は記録している。つまり、この態度は彼がこれからイエスに尋ねようと思っている問題の緊急性と深刻性とを示している。一刻も早く答えをいただきたい、というイエスに対する期待と尊敬の念の大きさを思わされる。
ところが、彼が尋ねた質問は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」というものであった。この質問には、子どもの病気を癒して欲しいとか、姦淫の現場を押さえた女を処刑すべきかどうか、というような緊急性はない。またカエザルに税金を納めるべきかどうか、というような現実性もない。むしろ時間のあるときに、暇をみて、ゆっくりと相談する方がふさわしい質問である。ニコデモが夜、1人でひっそりとイエスを訪れて、同じ様な質問をしているが、その方が賢明である。と、多くの人々は考え、質問の時を先に延ばし、結局「問うこと」自体を止めてしまう。
しかし考えてみると、この質問ほど緊急で深刻な問題はない。すべての私たちの行為、生活、生き方はこの問題の上に成り立つものであり、この問題をおろそかにするとき、私たちの全生活は根拠を失う。従って、この金持ちの男にとって、この質問は緊急かつ深刻なものであったに違いない。イエスの答を聞いて、彼は自分のこれからの生き方を決めようと真剣に考えていた、と思う。しかし、これはあくまでも「考えてみると」という状況においての緊急かつ深刻な問題なのであって、彼自身の生活は豊かな財産によって守られいる。いわば「安楽椅子の上での思考」である。どれ程財産を持っていても決して満足できないし、生きる意味を見出せないし、将来への不安は消えない。どうしたら安心立命を得ることができるか。それが彼の問いである。

3. 「良い先生」
 金持ちの男はひざまずいて尋ねた。「良い先生、永遠の生命を得るためには何をしたらよいでしょうか」。ここに、この男の根本的な間違いがある。彼の深刻な問題は「良い先生」に出会い、「良い先生」に教えてもらえば解決すると考えている。彼の問題が、まだ解決しないのは「良い先生」に出会っていないからで、ヒョッとするとイエスはその「良い先生」かも知れない、と思っている。彼自身は深刻がっているが、彼は彼自身の問題をその程度ものとしか捉えていない。ここに彼の根本的問題がある。おそらく彼自身の立場からは日常のパンの問題は軽い問題と思っているのではなかろうか。明日のパンをどうしようか、今飢えている子どもの餓えをどうして満たそうか。今月の従業員の給料をどうして支払おうか、等々に切羽詰まって生きている人間の問いではない。

4. イエスの答
イエスも、この男の質問を真剣に聞いたに違いない。決して、「今は、旅に出ようとしているので、ゆっくり時間をかけて答えるわけにはいかない」とか、「旅から帰ってきたら、もう一度いらっしゃい」などと言われない。こういう人物がイエスの前に現れること自体、イエスの宣教の成果であり、イエスの人生はこのことのためにある。イエスの福音はこの質問に対する答えであり、こういう質問をする男を見て、イエスはうれしかったにちがいない。
ところがイエスの答は以外にもそっけない。というより質問に答えようとはせず、「何故、あなたは私を良いというのだろうか。良いといわれるのに相応しい方は神だけであろう」と、男の言葉の揚げ足を取るようなことを言われた。イエスは何を考えておられるのだろうか。
「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21)。この言葉を、「神の国に入る一般的条件」と考えてはいけない。お金持ちで、しかも真剣に神の国に入ることを望んでいるこの男へのメッセージである。この命令を聞いて、このお金持ちは「施し」は十分にしてきた、と答える。イエスの命令は「施しをせよ」ということにあるのではない。「施す」という言葉よりも「売り払う」ということの方がより重要なのであって、あなたの生活を支えている全財産を処分して、裸になって、私たちと同じように一生活者として生きるために四苦八苦して見なさい。神の国に入るためにどうしたらいいのか、などいう観念的な妄想に耽る時間と精力なんか飛んでいってしまうであろう。

5. 「天に富を積むことになる」(21)
ここでのイエスの言葉の流れから考えると、この「天に宝を積むことになる」という言葉には何か違和感を感じる。いかにも原始教会における倫理的教訓のような匂いである。しかし、この言葉は、その前の全財産の放棄という命令と呼応して一つの強烈はメッセージとなっている。一般的に言えることであるが、金持ちの生き方の根本問題は財産というものがどれ程彼の生き方を支配しているのかということを意識させていないということにある。財産を持っているということが当然のこと、当たり前のことになり、それによって自分の生活が支配されていることを自覚できなくなっている。その問題に対してイエスは「天に宝を積む」というメッセージを語ることによって、金持ちの男が今持っている地上の財産というものの意味を自覚させる。あなたのその深刻かつ緊急の問題に何か役だっているのか。

6. 金持ちが神の国に入るのは難しい(23)
イエスは「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(23)という。一応これが金持ちとの会話の結論である。なぜ、金持ちが神の国にはいるのは難しいのだろうか。その逆に、なぜ貧乏人なら神の国にはいるのは容易いのだろうか。まるで謎々のようであるが、この言葉の中にイエスが考えている「神の国に入る」という意味が隠されているように思われる。そもそも神の国とは何か。金持ちと貧乏人とを区別するものは財産である。金持ちが神の国に入るためには全財産を放棄しなければならない。つまり無産者にならねばならない。その意味では貧乏人はそのままで無産者である。神の国に入るためには無産者になって、無産者であるイエスに従う。イエスと同じように生きる。その場合に神の国とは少なくともお金持ちが安楽椅子に座って夢見るようなものではない。むしろ神の国とは汗と涙にまみれた人間と人間との真実の交わり、苦労を分かち合い、共に涙を流し、共に喜ぶ現実の中にある。

7. 「針の穴」(23~27の問題)
全財産を放棄してイエスに従う。これがペトロをはじめすべてのイエスの弟子たちの姿であった(10:28)。この生き方は原始教団においても受け継がれた。時には、この生き方に疑問が生じたり、誤魔化したりする人も現れたが、教団はこの点についてかなり厳しかったものと思われる。バルナバに対する賞賛とアナニアとサフィラとの出来事に示されているエピソードはそのような原始教団の姿を描き出している(使徒4:32~5:11)。金持ちが神の国に入ることの難しさを語る物語は当時に教会の状況を反映している。確かに金持ちが教団に加わることは難しかったに違いない。まさに「らくだが針の穴を通る」よりも難しかった、と思われる。
さて、まさにこの点に原始教団における問題点があった。全財産を放棄するということが、一種の倫理規定となり、教団に加わる必要条件となり、やがて絶対的条件となる。教団の一員になることが「救い」ということの目に見える形となると、逆に、全財産を放棄することが神による救いの保証となる。
マルコの問題意識はここにある。全財産を放棄することによって救われるのか。それなら、それは人間の行為による救いではないか。つまり律法を行うことによる救いと何も違わない。救いは完全に神のよる出来事であり、そこには人間の行為が入り込む余地は全くない。この意味では、マルコはパウロの主張する信仰による救いという思想を共有している。金持ちの男の物語に23節あるいは24節以下の言葉を書き加えることによって、実はマルコは原始教団の「全財産を放棄さえすれば救われる」という雰囲気を批判しているのである。むしろ、そこに原始教団の持つ危険性を感じ取ったのかも知れない。

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