ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/07/26~08/01

2015-08-02 06:35:17 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/07/26~08/01

2015日々の聖句 07月26日(日)
民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。(詩62:9)
何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。(1ヨハネ5:14)
私の黙想:
「心を注ぎ出す」。中々含蓄のある表現である。私たちの「日常用語?」でいうならば、警察で犯人を取り調べているときに警官が「ハケ」という情景を思い起こす。「全部ハケば心が軽くなるぞ」と警官は言う。要するに罪を全部告白することで、その時警官は「奴は落ちた」という。
今日の聖句の場合は、相手は犯罪を処罰する者ではなく、「わたしたちの避けどころ」である。つまり私たちを愛し、私たちを守る者である。だから安心して「吐きだせ」という。私の心に「イチモツ(隠し事)」がある限り、それが私と神との間の信頼関係を妨げ、関係が疎遠になる。
今日は主日、神のみ前に立つべき日である。一週間のいろいろなことを反省し、神の前にすっきり立ちたいと思う。「わが魂はもだしてただ神をまつ」。(今日の詩編ではこの句が2回も繰り返されている!)

2015日々の聖句 07月27日(月)
慈しみの御業を示してください。あなたを避けどころとする人に。(詩17:7)
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。(1ヨハネ3:16)
私の黙想:
7節全体はこうなっている。「慈しみの御業を示してください。あなたを避けどころとする人を、立ち向かう者から右の御手をもって救ってください」。口語訳ではこうだ。「寄り頼む者をそのあだから右の手で救われる者よ、あなたのいつくしみを驚くばかりにあらわし、」。右目で新共同訳を、左目で口語訳を睨むと、違いがだんだん明瞭になってくる。ポイントは「敵」から攻撃されている信仰者のため「慈しみの御業を示してください」ということにあり、これを口語訳では「いつくしみを驚くばかりにあらわし」と訳している。これをフランシスコ会訳では「素晴らしい慈しみを現してください」と訳し事柄を明瞭にしている。神の慈しみは信仰者にとっては「素晴らしい」が敵にとっては「驚き」である。新改訳は「奇しい恵みをお示しください」と訳している。この「奇しい」という形容詞は珍しい。広辞苑によると「人知でははかりしれない」と解説している。問題は、この恵みは信仰者だけに示されるものなのか、どうか。「示す」という言葉には限定された対象が含意されているが、むしろここでは敵にも味方のも露わになる出来事、敵も味方も共に同じ出来事を見ているが、それを信仰者は素晴らしいと思い、敵は想定外の出来事と思う。神の御業には常にそういう面がある。

2015日々の聖句 07月28日(火)
あなたに感謝をささげます。神よ、あなたに感謝をささげます。御名はわたしたちの近くにいまし、人々は驚くべき御業を物語ります。(詩75:2)
光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。(コロサイ1:12)
私の黙想:
「物語ります」、口語訳では「語ります」、フランシスコ会訳、新改訳は「語り告げます」。どう違うのだろう。岩波訳では「述べる」。ヘブライ語のサファールはむしろ珍しい単語の属するであろう。他の用例を見ると「夢を語る」(創世記37:9、士師記7:13、エレミヤ23:27)、あるいは「自分の歩んだ道を語った」(詩119:26)等かなり「ストーリー化された話」を語る場合に用いられているようである。つまり、ここでは「驚くべき御業」がかなりの程度物語化されていることを示す。現代的な表現では「歴史化された物語」「歴史そのもの」である。ここでの「人々」を70人訳では「私」と解釈している。
話は全然変わるが、関西地方での盆踊りの時の定番中の定番、河内音頭の出だしは、次のようになっている。「エーさては一座の皆様へ、ちょいと出ました私は、おみかけ通りの悪声で、<ヨホーイホイ>、まかり出ました未熟者お気に召すようにゃ、読めないけれど、七百年の昔より、唄い続けた河内音頭にのせまして、せいこんこめて唄いましょ、<ソラ ヨイトコサッサノ ヨイヤサッサ>」。この言葉が独特のリズムに乗って歌い始めると、その周りで一斉に踊りだす。
昔、若い頃、縁あって地域の盆踊り大会を企画してやったことがあるが、その時、いろいろな曲が取り上げられたが、結局、河内音頭で決まった。この曲は上の出だしの言葉で始まり、それが延々と1時間ほど続き、その間、人々はただ手足を動かして一心に踊る。そのうちだんだんエクスタシー状態になり会場全体が一つの心に結ばれたという意識になってくる。この時の私の驚きは今でも忘れられない。歌手は(その時はLPレコードでしたが)ただ、700年間の歴史を語るだけである。
実は「歴史を語る」ということは「歴史を共有する」ということなのだと思った。これが私の盆踊り体験であり、河内音頭の魅力である。
今日取り上げられた詩編75にはその雰囲気がある。

2015日々の聖句 07月29日(水)
主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方、御名には大いなる力があります。(エレミヤ10:6)
イエスは弟子たちに尋ねられた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(マタイ16:15)
私の黙想:
神を何か他のものと比較することができない、とエレミヤは言う。ここに至るまでのイスラエル史においては、エリアの時代も、エリシャの時代も、常に神(ヤハウエ)は他の神々と比較されてきた。いわゆる記述預言者の時代になって、やっとヤハウエを他の神々と比較する思想はなくなった。そうすると、今度は神の問題ではなく、政治勢力において「強大な他国依存」という問題が具体化してきた。そこで問題になることは現実世界に対する神の「力の具体化」ということであった。神にはこの現実問題を解決する力があるのか。
預言者イザヤも、預言者エレミヤも、「神には力がある」と断言する。この世界の歴史を動かしているのは神である。断じて人間ではない。さて、私たちキリスト者は果たしてそう断言できるのだろうか。それはそれ、これはこれ、と二元論の罠にハマっているのではないだろうか。

2015日々の聖句 07月30日(木)
わたしがお前と共にいて救うと、主は言われる。(エレミヤ30:11)
パウロの手紙:あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。(フィリピ1:6)
私の黙想:
今日の聖句、聖書を読めばどこにでもでできそうな言葉であるが、これが予言者エレミヤへ向けられた言葉だということに大きな意味がある。専門家はどう見るかわからないが、私にとってエレミヤという預言者は「孤独な預言者」という印象が強い。「孤軍奮闘」という訳ではなく、何を言っても誰からも聞いてもらえない預言者、結局、その一生は何をしたのかはっきりしない。民衆からも国の指導者からも見捨てられ、ただ「預言者」であるということだけで、アチラコチラに引き回され、彼が何を語っても聞いてもらえない。大方の印象は「涙の預言者」と言われているが、私にとっては「孤独な預言者」という印象である。そんな中でヤハウエは言われる。「わたしがお前と共にいて救う」と。
今日の聖句は11節の前半だけであるが、後半を続けて読むと、何がなんだかわからなくなる。ここでの「あなた」とはエレミヤ個人なのか、イスラエルの民全体なのか。後半の「あなた」は明らかにイスラエルの民であるが、前半の「あなた」はどうか。ここに預言者は自分とイスラエルの民とを分離しない姿勢を示しているのかもしれない。

2015日々の聖句 07月31日(金)
あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。(詩25:5)
目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。(コロサイ4:2)
私の黙想:
詩25には「恥を受ける」という言葉が4回も繰り返されている。詩全体の雰囲気としてはかなり高齢の信仰者の祈りという雰囲気を保っている。「若いときの罪と背きは思い起こさず」(7節)というので、若いときに恥ずかしいことをしたのであろう。そして今は「わたしは貧しく孤独です」(16節)という。
この詩は「ダビデの詩」となっているが、特にダビデと特定する必要もないであろうか。ごく一般的な高齢者の姿である。特別な野心や夢があるわけではない。過去を振り返れば「恥ずかしいこと」が沢山ある。しかし今はそういうことは全部忘れて、今、望んでいることはただ一つ、穏やかな人生の最期を過ごしたい。つまり、それが「恥ずかしくない最期」である。

2015日々の聖句 08月01日(土)
神が必ず裁きを行い、ある者を低く、ある者を高くなさるでしょう。(詩75:8)
全能者である神、主よ、あなたの裁きは真実で正しい。(黙示録16:7)
私の黙想:
今週火曜日に続く詩75からの聖句。ここでは聖書の神に関わる、神の審判についての聖句。ここで興味深い点は神の審判が「調合された酒(カクテル)」のように描かれていることである。有能なバーテンダーは一人ひとりの客の好みを知っており、客はただ「いつもの」とさえ言えば、自分好みのカクテルを出してくれるように、神はわたしたち一人ひとりの生き方をしっかり覚えて居られて、その人にピッタリの酒を出してくれる。いや、その酒はもう既に準備されているという。それが神による審判である。
イエスは神によって準備されているカクテルを一旦、断ったが、思い直して「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことを行われますように」(マルコ14:36)と祈り直している。神の審判は必ずしも「最後の審判」だけではない。毎日、毎時間、行われているのではないだろうか。

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