ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 02/17~02/23

2013-02-24 09:05:42 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 02/17~02/23

日々の聖句2013 02月17日(日)
わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。(ヨセフの言葉)(創39:9)
すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。(ヘブ12:1)
私の黙想:
兄弟たちから棄てられ、異国で奴隷として働かされている境遇から考えると、ヨセフは自分の人生を呪い、自棄にになっても然るべき立場である。そのようなヨセフを支えたただ一つの確信は、常に「神共にいます」という信仰である。従って生活のすべての場において、誰に対しても不誠実であるということは神への罪となる。

日々の聖句2013 02月18日(月)神よ、沈黙しないでください。静まっていないでください。御覧ください、敵が騒ぎ立っています。あなたを憎む者は頭を上げています。(詩83:2-3)
主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。(2ペト3:9)
私の黙想:
イスラエルに敵対する周辺諸国が騒げば騒ぐほど、彼らの思いは神に向かう。争えば負けるに決まっている。イスラエルの民族的特徴は「負けるに決まっている」ということである。連戦連勝の時代は遠い過去のことであり、その時の勝利も結局内部の分裂によって水泡に帰した。そのことを彼らは歴史から学んでいる。捕囚期以後の彼らが追求している道は「戦争無き自主独立の道」である。それが現実の世界史において可能なのか。イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)。日々の聖句

2013 02月19日(火)
身分の低い者から高い者に至るまで、皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、皆、欺く。 彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して平和がないのに、『平和、平和』と言う。(エレ6:13-14)
わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。(2コリ8:21)
私の黙想:
まるで現在の日本のようだ。ここに「預言者から祭司まで」という言葉が入っていることに注意。つまり社会全体の価値観が「利」に染まってしまっている。そこでは「生」は軽んじられる。利潤、利益、功利が価値であり、生命、生活、人生が無視される。人間は利用価値の有無で判断され、教育は点数化され、購買能力の大小で分けられる。人間の尊厳とか、愛とか、主体性は過去の遺物とされ、ただ単なる欲望に犯された消費者とされる。目に見える繁栄が称賛され、力による支配が平和として語られる。そのような状況の中で、「真の預言者」「神の言葉を内に秘めている預言者」は嘆き、泣く。

日々の聖句2013 02月20日(水)
神の言葉:わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。(イザ57:16)
イエスは中風の人を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(ルカ5:20)
私の黙想:
この章は、イスラエルの民が偶像礼拝に走ることを姦淫の罪に例えて、それを生々しく描いている。そこでは神は自分の民に裏切られる夫である。今日の聖句は、その神が自分の民に対して呼びかける「赦し」の言葉である。11節の神の「とこしえの沈黙」とが響き合っている。神の沈黙は永遠ではない。神の怒りも永遠ではない。神において「沈黙」も「怒り」も自己抑制のもとにあるが、「赦し」は永遠である。

日々の聖句2013 02月21日(木)
わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。(詩34:3)
イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。(ヘブ13:15)
私の黙想:
次期王として定められているダビデにとって、人生における最悪の状態。気が狂った振りをして敵地に亡命して危機を乗り越えなければならない状況の中での神讃美。最悪、最弱、最低の状況において、社会の底辺で生きている「貧しき者」を発見し、出会い、心の交流をする。
世には「帝王学」という言葉がある。将来、国のあるいは組織(教団・教会も含めて)のトップに立つべき人は、社会の底辺で生きる経験をしなければならない。そこから見える社会が本当の社会である。その経験こそが本当の帝王学である。

日々の聖句2013 02月22日(金)
仕掛けられた網から逃れる鳥のように、わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。(詩124:7)
自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラ5:1)
私の黙想:文頭の「ルレー」は、過去の事実に反する事態を想定して神の救いを強調する修辞。「もしも(あの時)~~であったならば」、皆無ではないが珍しい表現。今、それを振り返るとゾーッとする経験。もしも、あの時、神の導きがなければ、今頃私はどうなっていたのだろうか。「よくもまぁ、無事に祖国に帰ってきたものだ」。現在のすべて、良いことも悪いことも、喜びも不満も、何もかも、あの時のあの事に基づいている。私の人生はとうてい「私のもの」と言い切れない。

日々の聖句2013 02月23日(土)
イスラエルよ、水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。(イザ43:2)
もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。(ロマ8:31)
私の黙想:
籤で引いた聖句(ローズンゲン)とはいえ、今日の聖句は昨日の聖句を受けている。私にとっては、この句の中の「大河の中を通っても」という部分が実体験と結びつく。父を除いて、私たちは北朝鮮から38度線(国境)を突破して南側に入り、米軍の救助により帰国した。38度線のところには大きな川があり、大雨の後で濁流が凄い勢いで流れていた。私たち3人の兄弟は誰も泳げない。泳げるのは母だけで、母は幼い末弟を背に負い、上の二人の息子を両腕で抱えて濁流を渡った。何度か転びそうになりながらも、母は「私にしがみつかないで、流れに逆らわないようにして、私から離れないでいなさい」と声をかけながら一歩一歩渡りきった。あの時押し流されていたら一家全滅であったであろう。まさに「大河の中を通っても、あなた(方)は押し流されない」という経験であった。これは奇跡以外の何ものでもない。

黒田 聖司 おはようございます。目が覚めました。心も全身も覚めました。

文屋 知明 文屋家は「凄いでしょう~」。

糸原 由美子 38度線ごえのお話しはよく覚えていますが、川を渡られたことは初めてのように思います。すごいお母様ですね。特に覚えているのは食前のいのりのことです。

文屋 知明 ほんと、満州(旧)からの日本への引き揚げは、避難民収容所からの脱出など、小説に書けない程です。
アニキ(善明)がこんなことを書けるようにやっとなったようです。辛くて書けなかったから・・・。

Ken Bunya おばぁちゃんの事、もっと教えてくださいね

小杉 義信 今のわたしにピッタリのみことばとおあかしでした。感謝。

文屋 知明 「凄い母親でした」。若い時、看護婦・助産婦でしたが、腰に「自転車のチェーン」を巻いて、喧嘩の助っ人に行く女番長だったと聞いてます。それから、路傍伝道でキリスト教に接し、クリスチャンになったのです。

黒田 聖司 再来年くらいの大河ドラマになりませんかな~。

文屋 知明 ほんと、満州(旧)からの日本への引き揚げは、避難民収容所からの脱出など、小説に書けない程です。
アニキ(善明)がこんなことを書けるようにやっとなったようです。辛くて書けなかったから・・・。

黒田 聖司 能天気なことを書きまして失礼しました。

文屋 知明 黒田さん、そんなことないですよ、関心を持っていただいて感謝です。

松村  景子 おはようございます。ご苦労なされたのですね。今になってしか言えないことがあります。やっと心の整理が出来たのではないでしょうか。それだけ、色々な出来事が重かったのでしょうね。神様の祝福がありますように♥

村田 多鶴子 親しい友人が、「母は高松空襲の話となると口をつぐんで・・・」と話しておられたことを思い出します。 彼女のお母さんは、娘さんに、辛かった空襲の話をされないまま、昨夏、帰天されました。 辛い体験を「恵み」として語れるようになるには、長い歳月がかかることを思い知らされました。感謝です。東日本大震災の被害者の方々に想いを致しつつm(__)m♥

堀 俊子 文屋家は、三本の矢ですね。ご兄弟、仲良く、私は、幸せだとおもいます。

Nobuko Endo お読みしていて、鳥肌が立ちました。引揚者である母や祖父母と重なりました。

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