ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 02/24

2013-02-25 14:31:11 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。昨日はスキャナーの調子が悪くあれこれ無為に過ごした。午後から唐津街道赤間宿まつりに出かけた。この祭は酒蔵開きが中心で子供のためのプログラムに欠けている。写真の整理。夕食後、なんとなくWBCを見て10時半に就寝。5時起床。体調快調、チュン、チュン。
posted at 06:08:27

萩野 秀子 おはようございます。聖日です。恵みが与えられますように。上の子供が明日の受験の為に朝から熊本に出発します。熊本大学薬学部を受験します。主の導きが与えられますように。寒いですが体に気を付けて下さい。良き日となりますように。お祈り致します。

今日の名言:RT @Bonhoeffer_jp:
「そこにある」神は存在しない。神は、人格的関連の中に存在し、その存在は、人格における存在である。(『行為と存在』)
<一言>神は「そこにある」と信じる信仰が、神との人格的な関係を断絶する。「三位一体の神には孤独がない、何故なら神は神の中に交わりを持つから」という言辞は、絶対的に間違っている。神の三一論がそういう仕方で理解されるならば、私は三一論を否定する。神を対象化して語ることは人間には出来ないことである。
posted at 06:47:47

野間 悦三さん、望月 克仁さん、瀬尾 あゆみさん、他16人が「いいね!」と言っています。

大坂 太郎 神を対象化して語ることは出来ない。確かに一面の真理でありますが、神ご自身がそのように自己啓示されているのなら、神について語ることは許されると思うのですが。

文屋 善明 神の自己啓示は「イエスにおいて」であって、三一論ではないと思います。三一論はあくまでも人間が考えた神理解の表現であって、それ自体が神の自己啓示とは言えないと、私は思っています。

大坂 太郎 >三一論はあくまでも人間が考えた神理解の表現であって、、、
ここにくると神論プロパーというよりもむしろ啓示論、聖書観の問題ですね。わたしは神の究極の自己啓示がイエスにあるということには全く同感ですが、わりとシンプルな聖書の霊感論に立ちますので、聖書で書かれたことを神の啓示であると扱えば上記の結論になるかと思うのです。勿論聖書啓示自身に「三位一体」ということばがないのは承知ですが、三一論はやはり聖書から導き出せるものだと考えます。よってパッカーやフーストンなどの言明の可能性は排除できないと思いますし、私自身も同様の見解をとっています。

文屋 善明 ここまでの議論は非常に有益だったと思います。しかし、ここから先の議論の結末は不毛であると思いますので、ここで打ち止めとします。ただ、私自身はあなたの見解を否定するものでもないし、私自身も三一論を否定しているわけではありません。ただ、そこからさらにイマジネイションを展開することには異議があるということです。ご丁寧なレスポンス感謝いたします。

大坂 太郎 文屋先生:ありがとうございます。先生が三一論を否定してしないことは明白です。本当に有難うございました。感謝。

Akira Ueda 私がもしこの問題提起を正確に理解しているなら、かなり複雑なことを含んでいて、ちょっとFBで簡単に議論できるというものではない気がします。まず前提として、神のリアリティーをイエスにおいて見いだす場合、聖霊によって提示されたイエスにおいて神を見いだすということであり、これは通常聖霊とキリストの結びつきを意味しますので、「神のリアリティーを三一なる神(と人間との関わり)に見いだす」ということを言っていると理解出来ます。
問題はその先で、「三一<論>が自己啓示」ではないというのはよく考えたら当たり前で、「三・・・もっと見る

Akira Ueda と、朝から複雑なことを書いてしまい申し訳ありません。

大坂 太郎 uedaさま:丁寧な整理と解説を有難うございます。

文屋 善明 私の表現は「神の自己啓示は『イエスにおいて』であって」で留まっており、「イエスにおける自己啓示論」というように「論化」してはいません。歴史的にはここから多くの複雑な議論(ヘブライズムとヘレニズムとの絡み)を経て三一論が成立するわけで、これはあくまでも文化的な地盤のうえでの(非)論理的な結論だと思っています。

「昨日のツイート 02/23」をブログにアップしました。 http://t.co/q2AS92Uxt9
posted at 08:55:49

「今週のローズンゲン2013 02/17~02/23」をブログにアップしました。 http://t.co/HjNV4BG1zO
posted at 09:08:14

日々の聖句2013 02月24日(日)
主は、その民を御自分のひとみのように守られた。(申32:10)
キリストの言葉:あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結ぶように。(ヨハ15:16)
私の黙想:
神の民を「ひとみのように守られた」というが、実際には決して「猫かわいがり」ではない。むしろ、その鍛え方は尋常ではない。この「尋常ではない」というところに、民に対する神の偏愛が現れている。民の側でも、その厳しさね振るえ、反撥し、逃げ出しながらも、最終的には、そこに戻るしかないことを悟る。それがイスラエル史の実態である。この神と民との「特殊」な関係が、神と人間との本来的な関係であることを語る使命が神の民の使命となる。教会はこの使命を受け継いでいる。教会は決して「甘いところ」ではない。
今日は主日、神の民は教会に集い神との関係、使命を再確認する日である

Yasuo Hiroseさん、播 稔さん、野間 悦三さん、他21人が「いいね!」と言っています。

門叶 国泰 アーメン! が、人間関係は「甘いところ」であって欲しい、と願いつつ。

文屋 善明 同感!

文屋 知明 神学を学ばない者にとっては、「今日の名言」より、、この「日々の聖句」の方が分かりやすいね・・。

文屋 善明 知明は「神学を学ぶ」ということに何か大きな誤解があるようですね。神学を学ぶということは「常識を磨く」ということで、何か特殊な知識を身に付けることではありません。例えば、神について、神学を学ぶということは、究極的には人間は神について何も知り得ないということを学ぶのであって、それは常識でしょう。逆に言うと、人間は神についての何らかの知識を知り得るという「常識(?)」を否定することなのです。「今日の名言」の主旨はそういうことなのです。

文屋 知明 よく分かりました。取りあえず、私にとって「神は、在りてあるもの」かな~、と言う「感じ」。と言うと、若いころから、アニキ達に、知明は「・・・感じ・・。」が多いな~と言われてた、また、言われそう。「音楽は、・・そんな感じ・・に始まり、終わる。」~~「音楽は分かるのでなく感じなければ・・」と言う感じ!

文屋 知明 アニキ、「いいね!」有難う!「いいえ!」でなくて良かった。

文屋 善明 いいね、そういう感じがとても良い感じ。この「感じ」を「直感」と言い換えたら、それで哲学になります。神学で言うと「聖霊」かな。

文屋 知明 アニキは、いいこと言うね! 文屋家は奥が深い!おふくろが「文屋という奥の深いことを、明らかに知ること」ということで、「知明」と名付けられました。

文屋 善明 威張ってやがる。

文屋 善明さんがリンクをシェアしました。

「<講釈> 今の時を見分ける ルカ13:1ー9」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/ybunya/e/4281a8bb601f083ec9e8eb4607986c03

文屋 善明
百田尚樹著『海賊と呼ばれた男』(講談社)の主人公、国岡鐵造のモデルとなった出光興産の創業者出光佐三氏の生家は、唐津街道筋の赤間宿にあります。今日は赤間宿まつりということで、普段は空き家になっている家がオープンされ、二人の中学生が出光氏の略歴を紹介していました。

<補遺>
穏やかな日曜日。充実した一日でした。



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