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断想:昇天日の旧約聖書(2017.5.25)

2017-05-24 06:53:16 | 説教
断想:昇天日の旧約聖書(2017.5.25)

「人の子」のようなもの ダニエル7:9~14

<テキスト>
9 なお見ていると、王座が据えられ「日の老いたる者」がそこに座した。その衣は雪のように白くその白髪は清らかな羊の毛のようであった。その王座は燃える炎その車輪は燃える火
10 その前から火の川が流れ出ていた。幾千人が御前に仕え幾万人が御前に立った。裁き主は席に着き巻物が繰り広げられた。
11 さて、その間にもこの角は尊大なことを語り続けていたが、ついにその獣は殺され、死体は破壊されて燃え盛る火に投げ込まれた。
12 他の獣は権力を奪われたが、それぞれの定めの時まで生かしておかれた。
13 夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
14 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え彼の支配はとこしえに続きその統治は滅びることがない。
<以上>

1.昇天日とは何か
復活節第6主日の週の木曜日(5月25日)は、「昇天日」と呼ばれる祝日である。イエスが弟子たちが「見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった」(使徒言行録1:9)という記事は、使徒言行録1:9-11とルカ24:50-53、マルコ16:19でだけ述べられている。マルコの記事はルカ福音書からのコピーである。ルカによれば、それは復活後40日目のことであったとされる(使徒言行録1:13)。なお、ヨハネ福音書では昇天の記事は見られないが、墓場の前に泣いているマグダラのマリアに向かって「私にすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへのぼっていないのだから」(ヨハネ20:11)と述べている。マタイ福音書には全く見られない。

2.イエス集団から使徒集団へ
イエスを中心とする「イエス集団」と原始キリスト教成立との間には謎が多い。謎というよりも叙述が少なすぎる。ルカの著作を除けば、ほとんどないに等しい。マタイ福音書では、空虚な墓を見た女性たちが、復活したイエスに出会う(28:9~10)が、その出会いは既に神話的である。それに続く部分ではユダヤ人たちが「イエスの死体を弟子たちが盗んだ」という噂をばらまく記事があり(11~15)、そしていきなり、イエスが弟子たちに会って、教会形成の命令を下すという記事で終わる。ここには、昇天の記事もない。マルコ福音書では、もともと、空虚な墓を見て逃げ去った婦人たちのエピソードで終わる。後に9節以下が付加されるが、それはルカ福音書とヨハネ福音書の記事の焼き直しに過ぎない。ヨハネ福音書には復活したイエスが弟子たちに顕現したという記事で終わっている。ヨハネ21章は、かなり後の独立した「復活物語」であり、それ以後のことについては何も語らない。要するに、ルカ福音書と使徒言行録を除くと、イエス生前のイエス集団と初期のキリスト教会との間は全く叙述がない。恐らく、歴史家(これも伝説に過ぎないが)としてルカはここを埋めなければ,そこで思考が停止してしまう。
使徒言行録を記述したルカにとってイエスの復活の記述と使徒言行録における教会の歴史とが時間的にどういう関係にあったのかということは無視できない重要な課題であった。従ってルカは使徒言行録の冒頭で「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠を持って示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(使徒言行録1:3)という。つまり復活後の顕現は40日間で40日目に天に昇られ、50日目に聖霊の降臨があって教会の歴史が始まったとする。これらの時間配分と順序はルカ独自の神学に基づくもので、昇天というルカ独自の記述はその歴史観に基づく一種の「神話(信仰)」である。

http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/7fc95df5464771b142e7488ea33c4912

それがルカによる創作であれ、ある程度は事実を含んだものであれ、私たちにはあまり関係ない。事実はもっと長期間にわたるものであり、もっと複雑な経過があったとは想像されるが、それも想像の域を出ない。ということにより「ということにしておきましょう」というのが、キリスト教会の基本姿勢である。何しろ、正典の一つであるルカ文書がそう言っているのであるから。

3.昇天日のメッセージ
昨年の昇天日の断想では、イエスは今どこにおられるのか、という面、つまりイエスが地上にはおられないことの意味を中心に考えた。
それで、今年はイエスの昇天とは、今、天におられるということの意味について考えたい。
結論を先取ると、私たちの親しいイエスが天におられるということは、天と地との関係が密接になったということ、イエスが天に行かれるまでは天はあるにはあるが私たちとは関係のない場所であった。まだ、ドイツに行ったことのない人にとって、あるいは、ドイツには知人が一人もいない人にとって存在しない町、頭の中だけで考えている所である。ところが、私の知人、あるいは関係している人が一人でもドイツに行くと、もはや「知らない町」ではない。イエスが昇天なさるまでは、そういう所であった。いろいろ聞いてはいるが、実感のない場所であった。しかし、今や「知らない場所」ではない。「イエスさまのおられるところ」として親しみがある。要するに天が親しみのあるところになったということである。

4.今日の旧約聖書のテキスト(ダニエル7:9~14)
しかし、ここで描かれている情景は、「日の老いたる者」と呼ばれた父なる神と、「人の子」のような者とと呼ばれた子なる神とが栄光に包まれて共にいる情景である。そして、さらによく見ていると、「人の子」のような方が雲に乗ってどこかへ出かける姿である。それがいつのことか、遠い昔のことか、今のことか、遠い将来のことか、分からない。
福音書ではイエスに13節〜14節の「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え彼の支配はとこしえに続きその統治は滅びることがない」という文章が引用されており、それがイエス再臨信仰の根拠となった(マタイ24:30、26:64)といわれている。

私が推測するに、イエスが昇天して姿が見えなくなったとき、白い衣を着た二人の天使が現れ「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒言行録1:11)と述べたという。この言葉がイエスの再臨信仰の原点にある。この言葉を受けて、旧約聖書を探して、ダニエル書のこの言葉に突き当たったのだと思われる。ダニエル書は旧約聖書の中でも非常に難解な文書であり、とくに7章以下はいわゆる「幻」で黙示文学と言われている。単語が暗号のようで、はっきりしたことが分からない。例えば、今日の個所では「日の老いたる者」が何を意味するのかはっきりしない。恐らく「神」を意味していると解釈されている。また「人の子」も何かはっきりしないが、キリスト教会では「神の子キリスト」であるとされている。ということで神の元から「雲に乗ってくる」ということで、再臨信仰、特に「空中再臨」の根拠とされる。

5.イエスが天におられるということの意味
それではイエスは天におられて何をされておられるのだろうか。それでまず、新約聖書において天に昇られたイエスのことについてのテキストを選び出してみよう。
(1) 「イエスは言われた。『しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る』」(マタイ26:64、マルコ14:62、ルカ22:69)。
これらの言葉は、最高裁判所でのイエスの証言であり、この言葉により、神を冒涜するものという判決が下された。言うならば、イエスが命をかけた証言である。これを言ったら、犯罪人にされることは明らかであった。

(2) 「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」(マルコ16:19)。
これはマルコ福音書における補足部分のイエスの最後の言葉である。

(3) 「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」(使徒言行録2:33)。
これは教会が成立した当時の教会を代表するペトロの最初の説教 である。言わば、教会が世界に向かって語る最初のせんげんである。

(4) 「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、 『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った」(使徒言行録7:55、56)。
これは教会における最初の殉教者ステファノが最後に口にした証言である。つまり、復活したイエスが「神の右に立っている」ということは、死をも怖れない信仰の証言である。ステファノの死に方を見て、キリスト教を迫害していたパウロの心に何かを与えたのかも知れない。この直後、ダマスコへの迫害旅行の途中で「復活のイエス」の声を聞く。

(5) 「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ロマ8:34)。
キリスト者への改心したパウロは、ステファノと同様に、「神に右座っている」を見続けて生きたものと思われる。パウロは、ここまでの証言からさらに一歩前に進み、イエスは神の右に座して何をしておられるのか、ということを語る。それが「執り成し」である。私たちはいかに強く、深く神を愛しイエスを信じているとは言え、誤りやすく、イエスから目を外してしまう。その時、神の右の座でイエスが取りなしてくださる、とパウロは信じていた。

(6) 「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」(コロサイ3:1)。
実はこの言葉は大変なことを語っている。つまり、私たちは既に復活している、という。この地上にあって、日々に肉体のことに苦労して生きている私たち、その私たちは神の目には既に「復活した者」として見られている。だから、神の右におられるイエスとはツーカーの関係なのだという。これはなかなか深遠な思想である。

(7) 「罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き」(ヘブル10:12)。
神の右の座とは「永遠」である。

(8)1ペト 3:22 キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。
神の右の座の権威。

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