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読書記録:伊藤亞砂『目の見えない人は世界をどういているのか』

2016-02-02 15:29:15 | 雑文
読書記録:伊藤亞砂『目の見えない人は世界をどういているのか』(光文社新書)

序章 見えない世界を見る方法

見えないことと目をつぶること

見えない体に変身したいなどと言うと、何を不謹慎な、と叱られるかもしれません。もちろん見えない人の苦労や苦しみを軽んじるつもりはありません。
でも見える人と見えない人が、お互いにきちんと好奇心の目を向け合うことは、自分の盲目さを発見することにもつながります。美学的な関心から視覚障害者について研究するとは、まさにそのような「好奇の目」を向けることです。後に述ベるように、そうした視点は障害者福祉のあり方にも一石を投じるものであると信じています。
ではいったい、どのようにして、見えない体に変身すればよいのか。そんなの簡単だよ視覚を遮ればいい、目をつぷったり、アイマスクをつければいいじゃないか、と思われるかもしれません。
いいえ、視覚を遮れば見えない人の体を体験できる、というのは大きな誤解です。それは単なる引き算ではありません。見えないことと目をつぶることとは全く違うのです。
見える人が目をつぶることと、そもそも見えないことはどう違うのか。見える人が目をつぶるのは、単なる視覚情報の遮断です。つまり引き算。そこで感じられるのは欠如です。しかし私がとらえたいのは、「見えている状態を基準として、そこから視覚情報を引いた状態しではありません。視覚抜きで成立している体そのものに変身したいのです。そのような条件が生み山す体の特徴、見えてくる世界のあり方、その意味を実感したいのです。
それはいわば、四本脚の椅子と三本脚の椅子の違いのようなものです。もともと脚が四本ある椅子から一本取ってしまったら、その椅子は傾いてしまいます。壊れた不完全な椅子です。でも、そもそも三本の脚で立っている椅子もある。脚の配置を変えれば、三本でも立てるのです。
脚の配置によって生まれる、四本のバランスと三本のバランス。見えない人は、耳の働かせ方、足腰の能力、はたまた言葉の定義などが、見える人とはちょっとずつ違います。一寸ずつ使い方を変えることで、視覚なしでも、立てるバランスを見つけているのです。
変身するとは、そうした視覚抜きのバランスで世界を感じてみるということです。脚が一本ないという「欠如」ではなく、三本が作る「全体」を感じるということです。
異なるバランスで感じると、世界は全く違って見えてきます。つまり、同じ世界でも見え方、即ち「意味」が違ってくるのです。
この「意味」というものをめぐって、本書は最初から最後まで書かれているといっても過言ではありません。意味にはおのずと生まれるものと、意識的に与えるものがありますが、本書ではその両方を扱っていきます。31頁

ユクスキュルにとって、それぞれの生きものは、意味を構成する「主体」です。個々の「主体」は、周りの事物に意味を与えてそれによって自分にとっての世界を構成している。
この「自分にとっての世界」が「環世界」と呼ばれるものです。生きものは、無味乾燥な客観的な世界に生きているのではありません。自分にとって、またそのときどきの状況にとって必要なものから作り上げた一種のイリュージョンの中に生きているのです。34頁

そうした中でよく聞かれるのが、アクセシビリテイという言葉です。もともとは施設やサービスへのアクセスのしやすさ、その度合いを指す言葉でしたが、近年は、情報に対するアクセスのしやすさ度合いを指す言葉として使われることが多いように感じます。
さらに、この「アクセシビリテイ」とセットでよく用いられるのが「情報格差」という言葉。そこにあるのは、ハンディキャップのある人とそうでない人の情報量の差、すなわち情報格差をなくすことが社会的包摂には必要だ、という考えです。こうした考えのもと、アクセシビリティを高めるためのさまざまな福祉的活動がなされています。
もちろん、こうした「情報のための福祉」は障害者にとって不可欠で、これまでたくさんの試みがなされてきました。しかし、まだまだ不足している部分が残っていることは否めず、これについては社会をあげて補っていかなくてはなりません。
福祉制度そのものの意義を否定するつもりは全くありません。私が危惧するのは、福祉そのものではなくて、日々の生活の中で、障害のある人とそうでない人の関係が、こうした「福祉的な視点」にしばられてしまうことです。
つまり、健常者が、障害のある人と接するときに、何かしてあげなければいけない、とくにいろいろは情報を教えてあげなければいけない、と構えてしまうことです。そういう「福祉的な態度」にしばられてしまうのは、もしかするとふだん障害のある人と接する機会のない、すなわち福祉の現場から遠い人なのかもしれません。37頁

もちろんサポートの関係は必要ですが、福祉的な態度だけでは、「与える側」と「受けとる側」という固定された上下関係から出ることができない。それではあまりにももったいないです。お互いの失敗を笑い合うような普通の人間関係があっていいはずだし、そのためには話そうと思えばお互いの体について、障害について、恋愛事情を打ち明け合うようなノリで話し合えるような関係があっていいはずです。39頁

「うちはうち、よそはよそ」という距離感
意味のレベルでの付き合い。意味に関して、見える人と見えない人の間に差異はあっても優劣はありません。39頁

序章のまとめ
情報ベースのアプローチは福祉政策が担っていますが、意味ベースのアプローチはまだほとんど前例がありません。両者はおそらく対立するものではなく、補完し合うものでしょう。本書で展開する意味ベースののアプローチが、たとえば新しい点字ブロックの考え方やより創意に富んだ支援サービスを生み出したらいいな、私は望んでいます。
以下の章でお示しするのは、見えない人と実際に対話する中で得た「変身するためのコツ」のようなものです。見えない人の世界について網羅的に説明するものではありませんが、そのうちのいくつかは変身の手がかりを与えてくれるはずです。80頁

第1章 空間

序章では、見えない人の世界を「見る」ための方法として「情報」ではなく「意味」に注目することが大切だ、ということをお話ししました。視覚を使わないと得られる情報の量はどうしても限られてしまいますが、だからこそ生まれる意味がある。見えないからこその、世界のとらえ方、体の使い方がある。
以下の章では章ごとにテーマを設け、その特有の「意味」についてインタビューや観察結果をもとにご紹介していきたいと思います。
まずとりあげたいテーマは「空間」です。町を歩くとき、家にいるとき、レストランにいるとき、私たちの体は常に空間に取り囲まれています。空間から必要な情報を得て、その中で快適に過ごそうとします。そんな生きていくことの基本である「空間」について、見えない人はどのように理解しているのか。エピソードを交えてお話ししていきましよう。
どれも私が聞いた範囲での経験を中心に構成したもので、一般諭ではありません。人によっては「私の経験とは違う」と感じられることもあるでしょう。 以下の文章を「正解」ととらえるのではなく、むしろそういった個々人の体の違いについて語り合う素材として活用していただけたらと思います。46頁

見えない人の色彩感覚

見えない人は「色」を定義通りに理解している。全盲の人でも「色」の概念を理解している人がいる。概念としての「色」は「混色」が理解出来ない。68頁

見える人には必ず死角がある。
見える人は三次元の世界を二次元化している。空間を理解しているのは、見えない人だけなのかも知れない。69頁
見えない人には視点がない。厳密の意味で見えない人は見えている人が見えているような二次元イメージを持っていない。だから、空間を空間として理解することができるのではないか。69頁

問題は「視点」。目が見えているものしか見えていない。複数の視点から見ることは出来ない。視点がある限り、見ているのは二次元世界。目の見えない人は肉眼で見ることのできない視点に立つことが出来る。視覚がないから死角がない。72頁

第1章まとめ
この章では、大岡山、月、富士山、太陽の塔などのとらえ方を手がかりに、見えない人がどのように空間や空間内にある立休物を瑚解しているのか、その「見方」をさぐってきました。
決定的なのは、やはり「視点がないこと」です。視点に縛られないからこそ自分の立っている位置を離れて土地を俯瞰することができたり、月を実際にそうであるとおりに球形の天体として思い浮かべたり、表/裏の区別なく太陽の塔の三つの顔をすべて等価に「見る」ことができたわけです。
すベての面、すべての点を等価に感じるというのは、視点にとらわれてしまう見える人にとってはなかなか難しいことで、見えない人との比較を通じて、いかに視覚を通して理解された空間や立体物が平面化されたものであるかも分かってきました。もちろん、情報量という点では見えない人は限られているわけですが、だからこそ、踊らされない生き方を体現できることをメリツトと考えることもできます。
物理的には同じ空間、同じ物でも、見える人と見えない人では全く異なる意味を見いだしている。この「意味」の面白さを、少しでも実感していただけたでしようか。
さぁ、つづく第2章では、見えない人の感覚の使い方にフォーカスを当てていきまうしょう。本章では、空間や物といった「知覚対象」がもたらす意味の違いを解明しようとしてきたわけですが、次章では「知覚する主体」の方に注目していきます。
先ほど、見えない人の空間認識を知ろうとすること、まるで太腸の塔を溶かすような作業である、と述べました。同じように、見えない人の感覚の使い方を知ることは、私たちが当たり前だと思っているこの体のあり方を、ぐにゃぐにやに溶かすような体験になるはずです。なぜなら、まずは「当たり前」を溶かすことこそ、スリリングな「変身」の第一歩になるからです。80頁

第2章 感覚

この章では、見えない人の「感覚」にフォーカスを当てます。見えない人と見える人では、感覚の使い方がどのように違うのでしょうか。
見えない人は視覚を使って知覚することはできません。では、見える人の感覚全体から視覚を差し引くと見えない人になるのか? もちろんそんなことはありません。そこには「三本脚の椅子だからこその立ち方の論理」があります。つまり、聴覚など視覚以外の感覚の使い方が、見える人と見えない人では違っているのです。
単純に言ってしまえば、見えない人の場合は、視覚以外の感覚をフルに使って、視覚の欠如を補っている、ということになります。でも、そう言ってしまうのもちょっと違う気がする。見えない人の感覚の使い方を体感していくと、どうも「見る」ということについての私たちの理解の方が、ずいぶんと狭く、柔軟件に欠けたものだったのだ、ということに気づかされます。
視覚とは、そもそももっと多様で流動的なものなのではないか。見るために、本当に目は必要なのか。見えない人の「見方」に迫ることで、本章では、視覚についての考え方、身体についての考え方をぐっと拡張してみたいと思います。82頁

「耳で見て目で聞き鼻でものくうて、口で嗅がねば神は判らず」(出口王仁三郎、大本教)110頁

第2章まとめ
本章では、見えない人の感覚の使い方にフォーカスを当てました。点字を理解することは実は純粋な触覚の働きではない。むしろ働きとしては、見える人が目を使って行っている「読む」に近いのではないか。こうした気づきから、本章では、器官と能力を切り離して考える身体観を提案しました。
私たちはつい、ある器官に対して「この器官はこういう働きをするものだ」とイメージを固定しがちです。見るのは目、聞くのは耳、と決めつけて考えがち。でも、進化というフエィズにおいては、私たちが予想もしなかったような働きが、ある器官から取り出されていきます。進化における動物の見た目の変形は、ある器官が私たちの固定されたイメージを裏切ってその底力を見せつけた、その結巣に他なりません。つまり器官とは、そして器官の集まりである体とは、 まだ見ぬさまざまな働きを秘めた多様で柔軟な可能性の塊なのです。
進化の過程を観察することはできないけれど、進化することを意識して体を扱うことは可能です。進化しうるものとして自分の体をまなざすこと。これこそ、当たり前の体を雑れて見えない人の体に「変身」することに他なりません。そしてそれこそが、本章の冒頭で述ベたような「特別視」を越えた関係を生み出すのではないでしょうか。

第3章 運動

本章では、見えない人の「体の使い方」にフォーカスを当てます。第2章のテーマは、「感覚」という外界の情報をキャッチする動きでした。本章では「外界に向かって手や足を動かすような「全身の能動的な動き」に注目します。
ただし「感覚」と「運動」は相反するものではなく、密接に関係しあっています。たとえば「歩く」という運動をするにしても、足元がどうなっているのか「感覚」しなければ歩けませんし、$逆に壁の向こうががどうなっているのか知りたいという「感覚」面の要求から、「歩く」という運動を行う場合もあります。したがって両者の関係を意識しながら諭を進めていきたいと思います。
「見えない」ことがその他の感覚の使い方を変えたように、「見えない」ことで体の使い方も変わります。同じ「歩く」でも、見える人と見えない人では歩き方が違います。見えないからこその体の使い方があるのです。
運動というと、まずスポーツのことを思い浮かべるかもしれません。もちろん本章では、サッカーなど「ザ・スポーツ」という感じの運動についても扱います。でもそれだけではなく、広義のスポーツとしての武道、それからスポーツのベースにある日常生活の中での体の動かし方にも注目していきます。

「自立とは依存先を増やすことである」(脳性麻痺の小児科医、熊谷晋一郎)。障害者は「依存のスペシャリスト」。135頁

(見えない人の運動ということで、)スポーツとは違いますが、合気道は、見えない人のあいだでも人気のある武道です。広瀬浩二郎さん(1967年生まれ、13歳で失明し現在は全盲、国立民族学博物館准教授)は、京都大学の学生時代から居合道、太極拳、テコンドー、とさまざまな武道に挑戦されています。なんでも子どもの頃から大のちゃんばら好きで、日本史学科に進んだのもちゃんばらがきっかけだったそう。そんな広瀬さんが一番長く続けている武道が合気道です。 始めてもう20年近くになるそうです。

さまざまな武道にかかわるものとして「気」があります。あります、と偉そうに言いましたが、残念ながら私自身は実感できているわけではなくて、人にたずねてもさまざまな答えが返ってきます。実際に武道をやっている人でさえも、そう簡単につかめるものではないそうです。広瀬さんも、居合道、太極拳と幅を広げてきましたが、なかなか理解できなくて苦労していました。
ところが合気道を始めたとき、気とはなんぞやというのが少しつかめたらしいのです。それはなぜか。合気道と他の武道との違いは、相手がいて、基本的に二人で接した状態から動くことです。つまり触覚が関わっている。広瀬さんによれば、その接したところ、手なら手を通して、相手の動きたい方向を読む。 そして 「じゃあこっちに来てください」と、 相手が行こうとしている方向に導く。そして導いていた力をふっとはずすと、相手がガクッとくずれるんだそうです。
この触覚を通じて伝わる「どっちに行きたいかいという気持ち、意思が「気」に通じるのだそうです。
合気道の原型は宗教団体大本の活動のひとつとして、大正期に植芝盛平によって始められました。太平洋戦争中は兵隊の訓練に取り入れられ、戦後、文部省の認可を受けてから、「合気道」の名前が用いられるようになります。始祖の植芝盛平は、何も見えない漆黒の闇で弟子に真剣でかかってこさせ、それをよけるという稽古すらしていたそうですが、 そのレベルまで行かなくとも、接したところから相手の「気」を感じる、というのは経験的に納得できなくはないように思います。139頁

第3章のまとめ
本章では、見えない人の体の使い方にフォーカスしました。運動器官でありかつ感覚器官でもあるという足の特性を生かした、すぐれたサーチ能力と平衡感覚。イメージに強く没入する集中力。見えないという部分的特徴が、その体全体の使い方を全く別のものに変えます。
障害と無関係な人はいません。誰しも必ず年をとります。年をとれば、視力が落ちる、耳が遠くなる、膝が痛む・・・・・等々、多かれ少なかれ障害を抱えた身体になるからです。
日本はこれから、どの国も経験したことのないような超高齢化社会に突入します。社会に高齢者が増えるということは、障害者が増えるということでもあります。さまざまな障害を持った人が、さまざまな体を駆使してひとつの社会をつくりあげていく時代。つまり高齢化社会になるとは、身体多様化の時代を迎えるということでもあります。医療技術や工学技術の発展も、この多様化を加速する要因でしょう。
そうなると、人と人が理解しあうために、相手の体のあり方を知ることが不可欠になってくるでしょう。
異なる民族の人がコミュニケーションをとるのに、その背景にある文化や歴史を知る必要があるように、これからは、相手がどのような体を持っているのか想像できることが必要になってくるのです。多様な身体を記述し、そこに生じる問題に寄り添う。そうした視点が求められているように思います。

第4章 言葉

見えないことで変わるのは、感覚の使い方や体の動かし方ばかりではありません。人と人のコミュニケーションのあり方もまた変わってきます。本章では、感覚や体の問題を離れて、「言葉を使ったコミュニケーション」と「見ること」の関係について考えていきます。
触覚や聴覚や全身を使って「見る」ことができるように、自分以外の人と言葉を交わすことによって「見る」こともできます。「ねえ、 わたしの顔、何かついてる?」。鏡がなかったら、そばにいる人に聞くでしょう。それはいわば「他人の目を使って自分の顔を見る」経験です。
右の例で明らかなように、「他人の目で見る」のは、必ずしも「見えない人が見える人の目を使って見る」というパターンだけではありません。見える人も他人の目で見ますし、場合によっては、見える人が見えない人の目で見ることさえある。
本章ではこうしたことも射程に含みながら考えていきたいと思います。つまり「見えない人が見えない人の言葉をどう活用しているか」ではなくて、「見えない人がいることでその場のコミュニケーションがどう変わるか」です。154頁

第4章のまとめ
本章では、私が「ソーシャル~ビュー」と呼ぶ美術鑑賞を例にとりあげながら、言葉を道具として「他人の目で見る」ことについて、お話ししてきました。
見える人と見えない人がいっしょになって、頭の中で作品を作り直していく過程は、「見るとは何か?」
を問い直す作業でもありました。見える人が実は見えていないかもしれないこと、見えない人の方が実は柔軟に見ているかもしれないこと、そうしたことをお互いに感じることによって、関係が揺れ動きます。
ソーシヤル~ビュー以外にも、最近では障害を触媒とみなすような動きが生まれています。
たとえば「インクルーシブデザイン」というデザインの手法は、障害者をものづくりのプロセスに積極的に巻き込んでいきます。健常者を「平均的なユーザ-」とすれば障害者は「極端なユーザー」 であり、極端だからこそ新しい視点を持っている可能性がある。それを創造につなげようとするのです。
健常者が障害者をサポートするという福祉的な視点も重要ですが、それと同時に、「障害の使い道」をもっともっと開いていく必要があるのではないでしょうか。

第5章 ユーモア

本書の根底には、「情報」対「意味」という対比がずっと流れています。
客観的で抽象的な「情報」に対して、具体的な文脈に埋め込まれ、その人ならではの視点を含んだ「意味」。 意味には、見えないことでおのずと生まれてくる意味と、見えない人が意図的に作り出す意味があります。最終章となる本章では、見えない人が意図的に作り出す意味の究極形態としての「ユーモア」について考えたいと思います。
ユーモアとは、笑いを誘う発言や行為のことです。本章では、障害そのものが笑いの対象となるケースを見ていきます。
さて、障害というと一般的には「深刻なもの」というイメージでとらえられる場合が圧倒的です。病気や人の死と並び、「笑ってはいけないもの~」の代表選手にリストアップされがちです。私も小学校の同級生に障害のある子がいましたが、「○ちゃんをからかってはいけない」と顔を真っ赤にして怒る担任の先生の顔をいまでも鮮明に覚えています。
しかし、実降に見えない人と接していると、しばしば周りを笑わせて盛り上げるような明るさを持っている人に出会います。もちろんそれは、計り知れない苦労と背中合わせになった明るさでしょう。そのことを忘れてはなりませんが~、そうした見えない人のユーモアに、私は自分の先入観を吹き飛ばされるような痛快さを何度も味わいました。
「障害はこんなふうにも扱える」「私にとって、障害とはこういうものだ」。 そこには、障害者から健常者に向けられたラディカルな提案が隠されているのではないでしょうか。ここでは、その提案に耳を傾けてみたいと考えています。
本書の冒頑で、私は見えない人と「友達」や「近所の人」のようにつきあいたいと書きました。社会は障害とどうつきあい、どう接したらいいのか。本書全体のまとめという意味もこめて。障害と笑い、そして障害と社会の関係について考えていきたいと思います。191頁

2011年に公布・施行された我が国の改正障害者基本法では、障害者はこう定義されています。「障害及び社会的障害により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」。つまり、社会の側にある壁によって日常生括や社会生活上の不自由さを強いられることが、障害者の定義に盛り込まれるようになったのです。
従来の考え方では、障害は個人に属していました。ところが、新しい考えでは、障害の原因は社会の側にあるとされた。見えないことが障害なのではなく、見えないから何かができなくなる、そのことが障害だと言うわけです。障害学の言葉でいえば、「個人モデル」から「社会モデル」の転換が起こったのです。
「足が不自由である」ことが障害なのではなく、「足が不自由だからひとりで旅行にいけない」ことや「足が不自由なために望んだ職を得られず、経済的に余裕がない」ことが障害なのです。
先に「しょうがいしゃ」の表記は、旧来どおりの「障害者」であるべきだ、と述べました。私がそう考える理由はもうお分かりでしょう。「障がい者」や「障碍者」と表記をずらすことは、問題の先送りにすぎません。 そうした 「配慮」の背後にあるのは、「個人モデル」でとらえられた障害であるように見えるからです。 むしろ 「障害」と表記してそのネガティブさを社会が自覚するほうが大切ではないか、というのが私の考えです。211頁

本書全体のまとめ
さて. 本書では、「空間」「感覚」「運動」「言葉」「ユーモア」と章ごとにテーマを決めて、見えない人がどのように世界を「見て」いるのかを解明してきました。みなさんの「変身」の具合はいかがでしょうか。想像の中だけかもしれないけれど、見えない体になったつもりで、世界を知覚したり手足を動かしみることができたでししょうか。「当たり前」を離れたその体から、障害を触媒として生かすアイディアが生まれることを願っています。
そして見えない人・見えにくい人ヘ。本書を執筆するにあたって、ほんの限られた人にしかインタビューすることができませんでした。ひとくちに「見えない人」といっても、障害の種類 (どのように見えないのか、見えにくいのか」や年齢、あるいは性別によって、世界を見る見方はさまざまでしょう。本書は見えない人についての一般論として書いたつもりはありません。むしろ「ここは違うな」「ここはよく分かる」など、皆さんの見え方についての会話に、本書をまぜていただければ幸いです。

私が学んだこと
現在の「障害者基本法」では、たとえば見えない人の場合、見えないことが障害なのではなく、見えないから何かができなくなる、それが障害だという。つまり障害の原因は社会の側にある。

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