ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 05/06 「木村久夫さんの手記」を読んで

2014-05-08 06:19:31 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。昨日は朝食後体調が芳しくないのでもう一度ベッドに入って寝る。昼食前に起きる。気分と体調回復。午後からは頭を休めるため本から離れてここ数年の写真の整理。俊樹は演劇の映像部分に初参加して、いい経験だったらしい。夜は小林稔侍主演の「駅弁刑事」を見て11時に就寝。5時半起床。夜中に腰痛のため起きる。体調快調、チュン、チュン。

細谷 民子さん、くわ なぎささん、佐藤 清一さん、他17人が「いいね!」と言っています。

齋藤 篤 先生もどうぞお大事に!私は現在体をリセット中です。体のコリが一遍に取れて、体調快調、チュン、チュンです!

萩野 秀子 おはようございます。チラシ配りをします。良き日とな理ますように。お祈りします。

藤木 冨士子 おはようございます。最近体調不良が多いようですが、どうぞお医者さんにも行ってみてください。

村田 多鶴子 おはようございます。
終日、体調快調、チュン、チュンでお過ごしになられますよう、お守りとお支えをお祈り致しますm(__)m

文屋 善明 なるほど、動物っていうものは、こういう風にして、だんだん死に近づいていくのだな、と思っています。
posted at 05:41:59

文屋 善明
今日の名言:RT @meigenbot:
運命は、どこかよそからやってくるものではなく、自分の心の中で成長するものである。 (Hermann Hesse)
<一言>そうなんだよ。若者たちよ、あなた達の前には既成社会なんてありはしないのだ。あなたたちが切り拓くものなんだよ。

細谷 民子さん、安田 正人さん、大野 泰男さん、他21人が「いいね!」と言っています。

藤木 冨士子 その通り!
posted at 06:37:40

文屋 善明
NHKこころ旅。小浜市の城跡から出発。今日の目的地は若狭町兼田の「田んぼの真ん中にある墓場(土葬)」、三昧(土葬の意)。野生の大根の花、兼田到着、かぶ六川。

細谷 民子さん、くわ なぎささん、岸本 望さん、他5人が「いいね!」と言っています。
posted at 07:59:09

「昨日のツイート 05/04 『ストップ・ザ・アベ!』」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/151c96825b62acb6521b227f3bf645a…
posted at 09:48:41

文屋 善明
お目覚めの花。「GWも今日まで」「思い切って、手足を伸ばし、世界の広さを感じましょう」「世界は私たちが思っているより、はるかに広いのです」。 (写真4枚)
文屋 善明さんの写真

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文屋 善明
2014日々の聖句 05月06日(火)
信じなければ、あなたがたは確かにされない。(イザヤ7:9)
イエスはペトロに言われた。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」(ルカ22:32)
私の黙想:
「確かにされない」では意味が通じない(勿論、文脈の流れから意味は判読できる)。口語訳は「立つことはできない」。これも不十分だ。新改訳は「長く」を補っている。その点でフランシスコ会訳は、ずばり「存続できない」と訳している。要するに北のイスラエルと南のユダとの対決・紛争状態、それは預言者イザヤの目からは民族分断を画策する外敵の介入である。民族の分断状況が続けば、必ず滅びる。だから「頭を冷やせ、状況をよく見ろ、このまま対立状況が続けば北のエフライム(イスラエル)は65年も持たないであろう」とイザヤは語る。今日の聖句はそれに続いて「信じなければ、存続できない」と語るのである。従って、ここでの「信じる」とはお互いに相手を信じるということを意味し、その「信じる」はただ仲良くせよということではなく、「共にヤハウェを信じ」「ヤハウェによるダビデの契約」を信じるということにほかならない。
私たちにとって重要な言葉は、この聖句の直後の14節で「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ」。これこそが有名なインマヌエル預言であり、この預言はこういう文脈で語れたということ、「インマヌエルという名の男の子」とは民族を統一する「徴」であるということである。

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清水 行雄 先生、おはようございます。詳しい解説と解釈ありがとうございます(^^)

清水 行雄 ちなみにちょっと調べましたが、Emanuelは、ヘブライ語で「God is with us」の意味らしくて、ギリシャ語のemmanonは、「in madness」の意味らしく、なかなか興味深いです(^^)

文屋 善明
「木村久夫さんの手記」を読んで
4月30日に、有田芳生氏がフェイスブックに投稿された「木村久夫さんの手記」という文章を読んで以来、私の頭の中は、この人の手記でいっぱいになり、それを吐き出さないでは他の何も読めないし、考えることもできない。
木村久夫さんは1946年5月23日、シンガポールにおいて「BC級戦犯」として処刑された。彼の遺書は既に塩尻公明氏によって「きけ、わだつものこえ」によって紹介されている。その後、いろいろの資料が発見され諸事情を経て、有田芳生氏によって、田邊元著『哲学通論』の余白に書き留められた生々しい手記が公開された。全文はかなり長いので、私の頭の中を占領している部分だけを書き出しておく。
木村さんはシンガポールの独房の中で奇跡的にこの書を手にして、喘ぐようにして読み、その余白に思いを書き残したのであろうと想像する。紙も手に入らない状況の中で、彼にはこれしかできなかった。

(32ページ右欄外)
 明日と言ふ日もなき生命抱きつも文よむ心盡くることなし
          ――田辺氏の書を再読してーー
(33ページ)
方面軍よりの感状を授与されるやも知れずと迄言われてた私の行為も一ケ月後に起った日本降伏のため更って結果は逆になった。当時の事情は福中英三氏が良く知っている 聞いてくれ。日本国に取り効となった事も、価値判断の基準の変った今日に於ては仇となるも、之は私達の力を以てしては如何とも致し方ない。
(34ページ右欄外)
 故里の母を思ひて涙しぬ唇かみてじっと眼を閉づ
(35ページ)
凡ての原因は日本降伏にある。然し此の日本降伏が
(37ページ)
全日本国民のために必須なる以上、私一個人の犠牲の如きは涙を飲んで忍ばねばならない。苦情を言うなら、敗戦を判ってい乍ら此の戦を起した軍部に持って行くより為方はない。然し又更に考えを致せば、満州事変以後の軍部の行動を許して来た全日本国民に其の遠い責任がある事を知らなければならない。日本人は凡ての面に於て、社会的、歴史的、政治的、思想的、人道的、試練と発達が足らなかったのである。凡て吾が他より勝れリと考へ、又考へせしめた我々の指導者及びそれらの指導者の存在を許して来た日本国民の頭脳に凡ての責任がある。
(57ページ)
此の兵士は戦前はジャワの中学校の先生で、我軍に俘虜となっていたのであるが、其の間、日本の兵士より撲る、焼くの虐待を受けた様子を詳しく語り、其の人には何故日本兵士には撲る蹴るなどの事があれ程平気で出来るのか全く理解出来ないと言っていた。私は日本人全般の社会教育、人道教育が低く、且 社会的試練を充分に受けていないから斯くある旨を
(59ページ)
よく説明して置いた。又彼には日本婦人の社会的地位の低いことが大変な理解出来ぬ事であるらしい つまらぬ之等の兵士からでも、全く不合理と思へる事が日本では平然と何の反省もなく行われている事を幾多指摘されるのは全く日本に取って不名誉な事である。彼等が我々より進んでいるとは決して言わないが、真赤な不合理が平然と横行するまま許してきたのは何と言っても
(61ページ)我々の赤面せざる可からざる所である。単なる撲ると言ふ事から丈でも、我々日本人の文化的水準が低いとせざる可からざる諸々の面が思ひ出され、又指摘されるのである。殊に軍人社会、及び其の行動が其の表向きの大言壮語に不拘らず、本髄は古い中世的なもの其物に他ならなかった事は反省し全国民に平身低頭謝罪せねばならぬ所である。

以上の部分は、彼が置かれていた状況と、清掃に対する彼の気持ちが率直に記されている。しかし私の心を捉えているのはその部分ではない。そういういろいろなことをすべて取っ払って、一人の人としていかに死に立ち向かったのか、その時に一冊の書が何をもたらすのか、という以下の文章である。

(71ページ)
私が此の書を死の数日前 計らずも入手するを得た。偶然に之を入手した私は、死迄にもう一度之を読んで死にたいと考へた。数年前、私が未だ若き学徒の一人として社会科学の基本原理への欲求盛なりしとき、其の一助として、此の田辺氏の名著を手にした事があった。何分有名な程 難しい本であったので、非常な苦労を排して一読せし事を憶えている。その時は洛北白川の一書斎であったが、今は遥か故郷を離れた昭南(文屋注:シンガポールのこと)
(73ページ)
の、しかも、監獄の冷いコンクリートの寝台の上である。難解乍ら生の幕を閉じる寸前、此の書を再び読み得たと言ふ事は、私に最後の楽しみと憩ひと情熱とを再び与へてくれるものであった。数ケ年の非学究的生活の後に始めて之を手にし一読するのであるが、何だか此の書の一字一字の中に昔の野心に燃えた私の姿が見出される様で、誠に懐しく感激に打ち閉ざされた。
(75ページ)
世界的名著は何時何処に於ても、亦、如何なる状態の人間にも燃ゆるが如き情熱と憩いとを与えてくれるものである。私は凡ての目的、欲求とから離れて、一息のもとに此の書を一読した。そして更にもう一読した。何とも言ひ得ない、凡ての欲求から離れての、すがすがしい気持ちであった。私に取っては死の前の読経にも比さる可き感覚を与へてくれた。曾ての如き学求への情熱に
(77ページ)
燃えた快味ではなくして、凡てあらゆる形容詞を否定した、乗り込えた言葉では表し得ない、すがすがしい感覚を与へてくれたのである。書かれたものが遺言書ならば、私は此の書の書かれざる、何となく私と言ふものを象徴してくれる最適のものとして此の書を紀念として残すのである。私が此の書に書かれている哲理を凡て理解了解したと言ふのではない。むしろ、此の書の内容からは
(79ページ)
もっと距離があるかも知れないが、私の言い度い事は、私が此の書を送る意味は、本著者田辺氏が本書を書かんと筆を取られた其の時の氏の気分が、即ち私が一生を通じて求めてきた気分であり、そして私が此の書を遺品として最も私を象徴してくれる遺品として、遺す以所である。
(81ページ)
私の死を聞いて先生や学友が多く愛惜してくれるであろう。「きっと立派な学徒になったであろうに」と愛惜してくれるであろう。若し私が生き長らへて平々凡々たる市井の人として一生を送るとするならば、今此のまま此処で死する方が私として幸福かも知れない。又世俗凡欲には未だ穢され切っていない今の若い学究への純粋を保ったままで一生を終る方が或は美しい潔いものであるかも知れない。
(83ページ)
私としては生き長らへて学究への旅路を続けて生度いのは当然の事ではあるが、神の目から見て、結果論にして、今運命の命ずるままに死する方が私には幸福なのであるかも知れない。私の学問が結極は、積読(つんどく)以上の幾歩も進んだもので無いものとして終るならば、今の潔い此の純粋な情熱が一生の中 最も価値高きものであるかも知れない。
(196ページ)
Marxの下部構造と上部構造
(207ページ)
絶対否定的自己同一、弁証法的世界
(奥付けの右ページ)
此の一書を私の遺品の一つとして送る。昭和二十一年四月十三日 シンガポール チャンギー監獄に於て読了。死刑執行の日を間近に控え乍ら、之が恐らく此の世に於ける最後の本であろう。最後に再び田辺氏の名著に接し得たと言う事は無味乾燥たりし私の一生に最後一抹の憩ひと意義とを添えてくれる物であった。母よ泣く勿れ、私も泣かぬ。
(巻末余白ページ)
 紺碧の空に消えゆく生命かな

以上の文章を読んで、私は一つの情景を思い浮かべている。死刑執行人が近づき「出ろ」と声をかける。彼は死刑執行人に一瞥もせず「ちょっと待ってくれ。あと1頁で読み終えるから」という。
私の書棚の最も貴重な書が置かれている場所に田邊元先生の『哲学通論」が置かれている。この本は岩波全書の一冊として昭和8年12月10日に発行されている。私が所有しているのは昭和12年1月30日発行の第5刷である。裏表紙には2つの古本屋のシールが貼られているが、ほとんど読まれた形跡はない。

この文章をフェイスブックに投稿して、私の今年のGWは終わる。

細谷 民子さん、涌井 幸子さん、小泉 麻子さん、他25人が「いいね!」と言っています。

水草 修治 印象深いGWとなりましたね。私は田辺元さんの、その本、実は未読なのですが、読みたいと思います。

水草 修治 田辺元は、西田幾多郎とならんで京都学派をなした人でしたが、戦前の全体主義を思想的に支えたという評価のせいで、戦後は哲学に学ぶ学生たちから無視される傾向が強かったのかもしれません。少なくとも私の場合、そうでした。

文屋 善明 その通りです。普遍と個という哲学的大問題を「種」という媒介項を設けることによって論理づけた哲学であり、ここで言う「種」が世界(観念~普遍)と個人(具体~特殊)を結ぶものとして「民族」を論理づけたと言われています。松村はこの論理に惹かれた一人でしたが、彼自身は戦後、この「種」を教会と位置付けようとしたが、「種」の煩雑さに押しつぶされてしまったのだと思います。教会を「交わり」と位置づけるところまでは良かったのですが、その「交わり」がエクレーシアとして観念的であったと思います。

水草 修治 では、『種の論理』を最初に読むと、彼の核心がつかめるということになりますか?

文屋 善明 そうですが、これがかなり厄介で、私自身も良く分かりません。

水草 修治 むかし、キルケゴールの『断片』をゼミで読んでいたとき、学生が「先生、この段、どういう意味ですか?」と質問すると、小川圭治先生がしばらく沈黙のあと、「哲学とはわからないことに堪えることです。」とおっしゃったことがありました。そういえば、浅丘るり子の唄で「愛するって、堪えることなの?」とかいうのを思い出して一人ニヤニヤしてしまいました。

文屋 善明 私の田邊理解はあくまでも松村克己経由です。その意味では松村克己先生は波多野精一先生の後継者ですが、もともとは田邊先生の弟子で、哲学としては田邊哲学に依っていると思います。小川圭治先生も確か松村先生に接しているはずです。

神本 恭子 東京新聞で木村久夫さんの記事を読みました。きけわだつみのこえ、を見て見たいと思います。

小学生の頃、担任の先生が共産党の方でした。裸足のゲンを学級文庫に置いていたのでクラスメイトはみんな読みました。全校集会で、その頃流行っていた宇宙戦艦ヤマトの劇をやろうとしたら、とても反対され、先生と生徒の間に溝ができました。いま思えば先生があそこまで向きになって言いたかった事がわかります。
あの当時、先生のことは尊敬しており好きだけど、共産党の人は考え方が偏りすぎているな、と思っていました。

父兄や他の先生方からも、あの先生は左よりだから、と敬遠されていましたが、先生が私たち生徒の心に蒔いた戦争反対の種は、時を経て芽を出していることを感謝しています。

今でも交流しているその先生とこの夏にお会いします。
大人同士として、ゆっくり話すはじめての機会です。
文屋さまの記事を拝見して、哲学通論も読んで見たいと思いました。

北村 良輔 シェアさせていただきます(^^)

播 稔 日本人は、都会のインテリの3割は、「左」(あまりにも意味が広い)の考えを持っている。BC級戦犯は、わたしは貝になりたいではないが、悔しい思いをしたものも多かったとおもいます。「日本の常識、世界の非常識、世界の常識日本の非常識」といわれるのもわかる。

石松 周 先生からのご紹介、感謝いたします。戦後を生きる者として、障害者として次の言葉。重く受け止めました。「然し又更に考えを致せば、満州事変以後の軍部の行動を許して来た全日本国民に其の遠い責任がある事を知らなければならない。日本人は凡ての面に於て、社会的、歴史的、政治的、思想的、人道的、試練と発達が足らなかったのである。凡て吾が他より勝れリと考へ、又考へせしめた我々の指導者及びそれらの指導者の存在を許して来た日本国民の頭脳に凡ての責任がある。」。「責任」重いです。真正面から見据えて、生きていきたいと思っております。感謝いたします。

文屋 善明さんが有田 芳生さんの写真をシェアしました。
有田さんの単行本『X』の出版が待たれます。

 連休も最終日の東京は肌寒いです。午後からジムで泳ぐ予定でいます。4月29日の東京新聞が報じたスクープは、いまでも心を落ち着かせません。ノートを調べると2005年から取材していた「BC級戦犯」木村久夫さんの「もうひとつの遺書」が全文公開されたからです。何度も高知に行きました。木村さんと同じ裁判で被告になった上官や同僚からも話を聞きました。そうしたこと全体を単行本『X』(
タイトルが未定なのでこうしました)に書き、そこに本当の遺書も掲載するつもりだったのです。「本当の」と書いたのは、戦後ずっと信じられてきたのは「きけ わだつみのこえ」(岩波文庫)に掲載された遺書が、本物とはそうとうに異なっているからです。

 遺書のひとつとして公開されてきたものは、田辺元『哲学通論』の余白に綴られたものです。シンガポールのチャンギー刑務所で木村さんに頼まれ『哲学通論』を渡した上官もすでに亡くなりました。民政部でいっしょに暮した大野實さんには何度もお話しを伺いました。どうしていらっしゃるかと昨日電話をしました。ところがーー。「あなたのおかけになった電話は現在使われておりません」……。流れるアナウンスにがっかりしました。病を抱えていらっしゃった大野さんの顔が思い出されます。木村さんの同級生にも電話をしました。電話は通じるのですが、誰も出ません。数日前と同じです。木村久夫さんは大正7(1918)年4月9日生まれです。処刑されず、存命なら96歳。

 多くの同世代に取材をしたまま9年が経ってしまいました。3回の選挙があったとはいえ、大切な課題をなおざりにしてきた自責の念が大きいのです。取材に応じてくれた方々は、戦後の日本を築いてきた功労者です。しかも木村久夫さんの友人であり、同僚でした。どうしても読んでいただきたい単行本『X』を書かなければならなかったのです。気の重い日々が続いています。「戦争を体験しなかった世代がそだっている。彼らに戦争体験を伝達するにはどうしたらよいか。もし戦争体験が特殊体験なら、伝達のしようがない。もし伝達を志すなら、特殊を一般化しなくてはならない。それにはどうしたらよいか」。竹内好がこう書いたのは1960年でした。戦争体験のない私が戦争体験に立ち向かう仕事。それが単行本『X』なのです。(2014/5/6)
写真:  連休も最終日の東京は肌寒いです。午後からジムで泳ぐ予定でいます。4月29日の東京新聞が報じたスクープは、いまでも心を落ち着かせません。ノートを調べると2005年から取材していた「BC級戦犯」木村久夫さんの「もうひとつの遺書」が全文公開されたからです。何度も高知に行きました。木村さんと同じ裁判で被告になった上官や同僚からも話を聞きました。そうしたこと全体を単行本『X』(
タイトルが未定なのでこうしました)に書き、そこに本当の遺書も掲載するつもりだったのです。「本当の」と書いたのは、戦後ずっと信じられてきたのは「きけ わだつみのこえ」(岩波文庫)に掲載された遺書が、本物とはそうとうに異なっているからです。

 遺書のひとつとして公開されてきたものは、田辺元『哲学通論』の余白に綴られたものです。シンガポールのチャンギー刑務所で木村さんに頼まれ『哲学通論』を渡した上官もすでに亡くなりました。民政部でいっしょに暮した大野實さんには何度もお話しを伺いました。どうしていらっしゃるかと昨日電話をしました。ところがーー。「あなたのおかけになった電話は現在使われておりません」……。流れるアナウンスにがっかりしました。病を抱えていらっしゃった大野さんの顔が思い出されます。木村さんの同級生にも電話をしました。電話は通じるのですが、誰も出ません。数日前と同じです。木村久夫さんは大正7(1918)年4月9日生まれです。処刑されず、存命なら96歳。

 多くの同世代に取材をしたまま9年が経ってしまいました。3回の選挙があったとはいえ、大切な課題をなおざりにしてきた自責の念が大きいのです。取材に応じてくれた方々は、戦後の日本を築いてきた功労者です。しかも木村久夫さんの友人であり、同僚でした。どうしても読んでいただきたい単行本『X』を書かなければならなかったのです。気の重い日々が続いています。「戦争を体験しなかった世代がそだっている。彼らに戦争体験を伝達するにはどうしたらよいか。もし戦争体験が特殊体験なら、伝達のしようがない。もし伝達を志すなら、特殊を一般化しなくてはならない。それにはどうしたらよいか」。竹内好がこう書いたのは1960年でした。戦争体験のない私が戦争体験に立ち向かう仕事。それが単行本『X』なのです。(2014/5/6)

玉城 豊さん、若月 新一さん、文屋 知明さん、他9人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明
福岡県岡垣町の岡湊神社のなんじゃもんじゃ (写真31枚)
ことしのGWの最後を飾る行事は、何じゃ?「なんじゃもんじゃ」じゃ。毎年、この季節に見に来ていますが、今年は手入れも行き届き、特別に豪華でした。日本三大蘇鉄の一つ「千光院の大蘇鉄」も新しい表札ができて一段と大きくなっていました。「なんじゃもんじゃの」正式名はアルバムなの中にあります。
文屋 善明さんの写真

播 稔さん、Richard Bakerさん、入口 紀男さん、他33人が「いいね!」と言っています。

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