ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:大斎節第1主日、荒野の誘惑

2016-02-13 08:48:23 | 説教
断想:大斎節第1主日、荒野の誘惑
神を試みてはならない  ルカ4:1~13

1.イエスと悪魔との対決
荒野の誘惑の記事はマルコでは、ほとんどその事実だけを述べる短いものである。従って誘惑の内容についてはほとんど述べていない。マタイとルカはおそらく同じ資料のもとに誘惑の内容を3点に絞って詳細に記録している。その3点は両者ともほとんど同じであるが、第2と第3の誘惑との順序が違っているが、本日はルカを中心に取り上げる。

2.第1と第2の誘惑
第1の誘惑の課題はいわゆる「パンの誘惑」と呼ばれているものである。「パンの誘惑」とは、細かいことについては省略していうと、ただ一点だけ取り上げると、これは「生きる」ということに関わる深刻な問題だという点であろう。マタイ福音書では「人はパンだけで生きるものではない」という言葉の後に「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という言葉を付加しているが、ルカはそんな言葉を付け加えない。この相違はいかにもマタイらしいし、同様にルカらしい。山上の説教においてもマタイは「貧しい人々は幸いだ」(Mt.5:3)と言うのに、それだけではおさまらず「心の」ということばを付加している。これに対して、ルカはストレートにただ「貧しい人々」(Lk.6:20)は幸いだ、という。マタイの観念主義に対してルカの現実主義とでも言うべきか。むしろ、貧しさを誇りにしているという感じがする。貧しくて何が悪い。俺たちは貧しいからこそ幸いなんだ。そこには、「あんな汚い金なんかいらねぇ」という誇りが感じられる。
第2の誘惑は、いわゆる「高い山での誘惑」であるが、ルカは必ずしも「高い山」とは言わない。単に悪魔は「イエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた」という。明らかにルカはこの誘惑物語全体を非現実的に描いている。この種の問題は、非現実的に描くことによって現実的な物語となる。そして悪魔は悪魔の正体を明確にする。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ」(Lk.4:6)。この言葉はマタイにはない。ルカは悪魔をこの世界の「一切の権力と繁栄」支配するものとして理解している。もちろん、その悪魔も神の支配にあるということは明らかである。悪魔といえば、何かとんでもない極悪人を想像したり、地獄の長のような神話的な存在を考えたりする。しかしルカは悪魔とはこの世の「権力と繁栄」を支配する者、分配する者であるという。悪魔にはそういう権利が与えられている。従ってルカによればこの世での権力を獲得した者は実は悪魔が彼にその権力を与えたのである。この世で繁栄している者、儲けている者も同じようにその繁栄は悪魔から与えられたのである。
第2の誘惑のポイントは、人は誰に仕えて生きるのかということである。この世の支配者に屈服し、跪き、拝し、仕える生き方を選ぶのか。あるいは神に仕える人生を歩むのか。この場合神に仕えるとはこの世を旅人のように生きるということにほかならない。この世にありながらこの世のものではない生き方であり、この世の支配者に膝を屈しない生き方である。ここにはルカ特有の貧富観がある。お金持ちとはこの世の支配者に仕えるものであり、貧しい者とはこの世の権力とか繁栄から離れた生き方している者を意味する。ルカ福音書におけるイエスは「あなた方は、神と富と仕えることはできない」(Lk.16:13)。

3. 第3の誘惑
いわゆる「神殿の屋根の誘惑」である。この誘惑の課題は難しい。信仰そのものへの問いかけである。悪魔は「神の子なら」という言葉で語りかける。信仰者にならば「神を信じているなら」という言葉である。もっと具体的には「神を信じなさい」という言葉で誘惑してくる。私たちの信仰そのものが誘惑になる。実に巧みな誘惑である。その誘惑に対して信仰者は「信じない」とは言えない。ここでの信仰の内容とは「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」というものである。飛び降りたら死ぬことは間違いない。しかし神は死ぬ直前にあなたを助けるであろう。それが信仰というものだ。この誘惑は十字架上のイエスを襲った誘惑でもある。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(Lk.23:35)。共に十字架にかかっていた犯罪人の一人も「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(Lk.23:39)とイエスを罵る。そのような外からの誘惑にもまして、イエス自身の中にもひょっとすると最後の瞬間、神が救い出していくれるのではないかという思いがあったかも知れない。マタイ福音書によると十字架の周りにいた人たちでさえ、ひょっとすると「エリアが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」(Mt.27:49)と語り合っていたという。
人生の最後の最後の場面で、神の助けを求めるのか、信じるのか。もちろん信仰者ならば「信じる」という答えが正当であろう。それが正しい。しかし本当にそうなのか。おかしなことに悪魔はイエスに「信じろ」と言う。それが神の子ではないかと言う。
もうこの場面では「私のこと」も考えられないし、「あなたのこと」も口出しできない。イエスのことを思うことしか出来ない。あなたはこういう場面で「信じなさい。そうすれば神が救ってくださる」と言えるのだろうか。信仰厚いあなたならそう言うかも知れない。あるいは臨終の人のベッドの横で「神の癒しを信じましょう」などと言うのかも知れない。それならば十字架の周りにいた人たち、イエスと共に十字架にかけられている盗賊と同じ立場に立つことになる。あるいは、荒野における誘惑者と同じ言葉をかけることになる。その場面でイエスはただ一言、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(Lk.23:46)と言った。これがルカ福音書が語るイエスの最期の言葉であった。これこそが究極の神信仰である。これもルカだけが述べていることである。

最新の画像もっと見る