ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/06/05~06/11

2016-06-11 16:08:20 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/06/05~06/11

2016 日々の聖句 06月05日(日)
モーセは主に言った。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。」(ex.33:15)

真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。(jh.16:13)

私の黙想:
これがモーセという指導者の基本姿勢。出エジプトというイスラエル民族にとっての最大の出来事を前にして、真の指導者は誰か。ある意味で、モーセは自分自身の意志で出エジプトという民族存亡をかけた非常に危険な事業を行っているのではない。彼自身の願いで言うなら、ミディアンの地でツイポラという娘と結婚し、子供を育て、一人の羊飼いとして平穏な生活を送ることを希望していたことであろう(ex2:16~22)。そこから「引き出し」た、責任はヤハウェにある。それから後はすべて、ヤハウェの計画に従ってイスラエルの民の指導者となった。
実際に出エジプトという事業は大変なことであった。まさに「烏合の衆」に過ぎなかった民衆を指導して民族形成することは並大抵ではなかった。出エジプト記の33章で、ヤハウェから「新しい地」への出発命令が下された。これは、おそらく今までの苦労とは比較できないほどの「闘い」が予想される。ここまでは、いわば「旅の準備」である。これからが「約束の地」へ向かっての長い旅が始まる。
そういう状況において、モーセがヤハウェに迫る交渉である。この民を導くのは誰か。私ではない。「あなた、ヤハウェだ」。モーセは責任を回避しているのではない。ここまで民族を形成してきた責任はある。しかし、根本的にこの民を導いているのは「自分」ではない。ヤハウェである。この思想が、そのままイスラエルの民の伝統となっている。ダビデの王制においてもそれは受け継がれた。
現在のあのパレスチナを支配しているシオニズム、イスラエル共和国は「この伝統」を受け継ぐ正統な民ではない。

2016 日々の聖句 06月06日(月)
災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでにこの地を独り占めにしている。(isa.5:8)

どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。(lk.12:15)

私の黙想:
人間の強欲さの表現が面白い。口語訳では「彼らは家に家を建て連ね、田畑に田畑をまし加え」と訳し、その強欲さが強調されている。人間の住まいとしたら一軒だけで十分なのに、二軒、三軒と建て増す。畑も同様。そして本来共有の土地を独占する。まさに、これぞグローバリズムの典型、新自由主義経済の姿である。そんなに儲けてどうする。結局、それは「競争相手」の出現を恐れているのであろう。農業の独占、医療の独占、軍事力の独占、そして最後は世界支配。
聖書は(神は)、そういう連中を「災いだ」という。ここからは「共に生きる」という幸せは生まれてこない。

2016 日々の聖句 06月07日(火)
あなたは命の道を教えてくださいます。(ps.16:11)

神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(rom.6:23)

私の黙想:
ここでの「命の道」は明らかに10節の「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」に対応している。「陰府に渡す」、「墓穴を見させず」。最初期のキリスト者たちは、この言葉をイエスの復活の約束として解釈した。使徒言行録2:27~28、12:35~37。詩編16編をこのように読むということに驚く。何と自由な読み方であろう。今日の聖句の「命の道」をイエスの復活および私たちの復活信仰の根拠とする。「命の道」を観念化していない。文字通り「死なないこと」としている。正直に言って、私たち、少なくとも私にはそういう読み方は出来ない。

2016 日々の聖句 06月08日(水)
主はうずくまっている人を起こされる。(ps.146:8)

イエスの叫び:渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。(jh.7:37)

私の黙想:
「うずくまる」という言葉、旧約聖書では11回用いられている(新共同訳)。口語訳では1回だけ。しかもそれはまさにライオンが獲物を狙う姿勢という姿勢である(gen.49:9)。
新共同訳の「うずくまる」という言葉の用例はいろいろである。口語訳、フランシスコ会訳、新改訳では「かがんでいる者」、面白いのは岩波訳で「うなだれている者」。
人間はどういう時に「うずくまる」のであろうか。暴力、暴行が嵐のように降り注がれるとき、なす術を失い、抵抗力もなくなり、「縮こまり」、両手で頭、顔を覆い、地面に「うずくまり」、暴力が収まるのを待つ。そのとき、いつ「起き上がるのか」。そのタイミングが難しい。その時、主は優しく肩に手を置き、もう大丈夫だよ、起きなさい、と声をかけられる。今日の聖句はそういうイメージか。

2016 日々の聖句 06月09日(木)
神は、追放された者が神からも追放されたままになることをお望みになりません。(2sam.14:14)

律法学者は、イエスの弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」(mk.2:16~17)

私の黙想:
ダビデ王家の王位継承に纏わるスキャンダル。兄アムノンの死後、次男アブサロムを王位に就けようとする運動が宮廷内で起こり、ダビデとアブサロムとの間に亀裂が起こり、やがて深刻な事態となった。
ここで「追放された者」とはアブサロムを指すが、アブサロムは追放されたというよりも自ら部下たちに唆されて出ていったのである。父と息子との対立を何とか調停しようとする「テコアの知恵ある女」(2節)とダビデとの会話である。醜い親子の闘いによって息子が死んでしまったら、もはや神でも生き返らせることは出来ません。だから「追放された者を追放されたままにしておいては、取り返しの出来ないことになりますよ」という警告である。だからそうならないように、「王は」「お取りはからいください」という。
今日の聖句の「神は」についてはフランシスコ会訳では「王」となっている。新改訳はその問題を上手く処理している。これを「神は」と解釈したために「お望みになりません」とやくし、フランシスコ会訳では「お取りはからいください」、新改訳では「ご計画をお立てください」と訳している。その点で口語訳は「しかし神は、追放された者が捨てられないように、てだてを設ける人の命を取ることはなさいません」と訳しており、意味が不鮮明になっている。
こういう場合に「訳文」に囚われることなく、事柄そのものをイメージして理解する必要がある。

2016 日々の聖句 06月10日(金)
あなたのように力ある業をなしうる神が、この天と地のどこにありましょうか。(deut.3:24)

わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。(mt.7:24)

私の黙想:
今日の聖句そのものは、これ以上ないほど美しいが、これが語られている場面はモーセにとって、できたら消してしまいたい場面である。エジプトからイスラエルの民を引き出し、訓練し、いよいよ最後の場面、ここから「乳と蜜の流れる約束の地」に侵入する。モーセはそこに入りたい。いや、そこに入るために今まで苦労してきたのではないか。モーセはヤハウェに必死で、「私も」そこに入らせてくださいと祈る。しかしヤハウェはモーセの祈りを「聞こうともしなかった」(26節)という。そしてヤハウェが言われることは、「もうよい。この事を二度と口にしてはならない」。何と残酷なことであろう。さらにひどいことをいう。「ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい」。まさに「見るだけよ!」
これがイスラエルの神である。まさに、これが聖書の神である。使うだけ使って、仕事が終わったら切り捨てる。まさにブラック企業そのものではないか。この事実について聖書は何とか「説明」しようとするが、説明のしようがない。まぁ、賢明なキリスト者たちは、この場面を、「我が神、我が神、なんぞ我を見棄てたまいし」と叫んだイエスの十字架の場面と重ね合わせるのであろう。

2016 日々の聖句 06月11日(土)
あなたの僕はそれら(主の戒め)のことを熟慮します。(ps.19:12)

どう聞くべきかに注意しなさい。(lk.8:18)

私の黙想:
聖書の言葉をここまで短く引用すると、どういうことになるのか、と実験されているみたいである。文脈や周りのことなど全てカットして、この言葉が自分にだけ向けられた感じがする。「それらのことを熟慮しているか?」「(それらのことを)正しく聞いているか」。「それらのこと」は全てのことを含んでいる。つまり、「考えているか」「聞いているか」。何をするにしても、何を判断するにしても、自分の考えもなしに、周りから聞こえてくることだけで、ことを決めていないか。時には、立ち止まって、全ての発信を遮断して、考える、聞く。
と、ここまで考えて、口語訳を読む。比較できないほど、全然違うではないか。どこを、どう切ったら、こうなるのだろう。肝心のポイントは、「あなたのしもべを引きとめて」ということがあてはまるらしい。フランシスコ会訳を読む。「まことに、あなたの僕はこれによって教えられ」。新改訳は「あなたの僕は戒めを受ける」、岩波訳では「あなたの僕もまたこれらで戒められました」。
「これらのことを熟慮すると」、どうなるのだろう。これらの翻訳を比較して、何か聞こえてくるものがあるのか。熟慮すればするほど、分からなくなる。
見事にローズンゲンの編者の実験に乗せられてしまった。

最新の画像もっと見る