ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のFB 06/10

2016-06-12 06:08:28 | ツイッター
お早うございます。主の平和。リハビリ。昼食後、ヨハネの最後のエピソードをどう考えるか。昼寝、約1時間。釣川堤防散策。夜、「警視庁捜査一課長」、「グッドパートナー」、報ステをちょっとだけ見て10時過ぎに就寝、5時半起床。血圧(142,84:72)・体調・昨夜は寝苦しくて3時ころ約1時間ほどバタバタ。チュン、チュン。

23Luke Etsuzou Nomahさん、北村 良輔さん、他21人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪先生、大丈夫ですか?眠りが中断されるとお辛いでしょうに…。お守りとお支えをお祈り致しますm(__)m

東山 富昭 おはようございます。今日も、よろしくお願いします。

藤木 冨士子 おはようございます。もう週末ですね。


文屋 善明
6月10日 5:49 ·
お目覚めの花。「久し振りの美しい朝です。朝日が輝いています」「今日は花の金曜日、一つの仕事にキリを付けよう」。
文屋 善明さんの写真

37Luke Etsuzou Nomahさん、北村 良輔さん、他35人
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糸原 由美子 すてきな色!


文屋 善明
6月10日 6:15 ·
2016 日々の聖句 06月10日(金)
あなたのように力ある業をなしうる神が、この天と地のどこにありましょうか。(deut.3:24)
わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。(mt.7:24)
私の黙想:
今日の聖句そのものは、これ以上ないほど美しいが、これが語られている場面はモーセにとって、できたら消してしまいたい場面である。エジプトからイスラエルの民を引き出し、訓練し、いよいよ最後の場面、ここから「乳と蜜の流れる約束の地」に侵入する。モーセはそこに入りたい。いや、そこに入るために今まで苦労してきたのではないか。モーセはヤハウェに必死で、「私も」そこに入らせてくださいと祈る。しかしヤハウェはモーセの祈りを「聞こうともしなかった」(26節)という。そしてヤハウェが言われることは、「もうよい。この事を二度と口にしてはならない」。何と残酷なことであろう。さらにひどいことをいう。「ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい」。まさに「見るだけよ!」
これがイスラエルの神である。まさに、これが聖書の神である。使うだけ使って、仕事が終わったら切り捨てる。まさにブラック企業そのものではないか。この事実について聖書は何とか「説明」しようとするが、説明のしようがない。まぁ、賢明なキリスト者たちは、この場面を、「我が神、我が神、なんぞ我を見棄てたまいし」と叫んだイエスの十字架の場面と重ね合わせるのであろう。

26Luke Etsuzou Nomahさん、藤木 冨士子さん、他24人
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藤木 冨士子 120まで生きてたんやしエエんと違います?まだまだ戦いは続くし。


文屋 善明
6月10日 6:26 ·
今日の名言:@F_W_N_jp
イエスがその首謀者であると思われてきた暴動、或いはそう誤解されてきたあの暴動が、ユダヤ教会に対する反乱でなかったとしたら、一体何を目指して行われた反逆であったのか、私には訳が解らない。この場合、「教会」という言葉は、今日我々が解している意味に厳密に解してのことだ。(ニーチェ、『反キリスト』)
<一言>イエスはユダヤ教徒としてユダヤ教を徹底批判したのである。もし、そういうことなら、「キリスト教会」はその生まれから反メシア(キリスト)を含んでいる。反キリスト性を持っていないキリスト教はユダヤ教の延長に過ぎない。

23Luke Etsuzou Nomahさん、藤木 冨士子さん、他21人
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コメント

Akira Suzuki · 共通の友達: 松木 傑さん、他1人
う~ん、後半の<一言>の部分、素直には頷けません。

ユダヤ教とキリスト教の分岐点は、極言すれば、「イイスス」をメシア=キリストとして認めるか?、受け入れるか?という点にあると(個人的には)考えているからです。

文屋 善明 イエスはユダヤ教徒としてユダヤ教が信じていたメシア信仰を徹底的に批判した、ということはお認めになるんですね。

Akira Suzuki · 共通の友達: 松木 傑さん、他1人
イイススが、当時の形式的・機械的な律法主義を批判したのは間違いないと思います。
ただ、メシア信仰まで批判した、と言い切れるかどうか。

政治的メシア観を批判した、と言うのならば、同意できます。

文屋 善明 ということは、イエスは世の終わりに現れるメシアを信じていた、ということですね。つまり、彼自身はメシアではないと。

Akira Suzuki · 共通の友達: 松木 傑さん、他1人
どうして、そのような結論?(意見?)になるのか、理解に苦しみます。
福音書の読み方が、お互い全く異なる、ということなのでしょうか。
イイススが自分が何者であるかの自覚無しに数多くの奇跡を行っていたのなら、彼は魔術師に過ぎないでしょう。
また、洗礼者ヨハネ(先駆授洗イオアン)は、存在する価値すら無かった、ということになります。

Akira Suzuki · 共通の友達: 松木 傑さん、他1人
洗礼者ヨハネの言葉「悔い改めよ。天の国は近づいた」
イイススの言葉「時は満ち、神の国は近づいた」
この言葉が前提になっていない状態での議論なのか、とも考えています。

文屋 善明 コメント、ありがとうございました。

Mizota Michael Satoshi キリスト教が最初から『反キリスト『教』』を含んでいる、と言うなら、まあ分かります。


文屋 善明
6月10日 6:39 ·
「昨日のFB 06/08」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

8藤木 冨士子さん、小貫 ツマさん、他6人


文屋 善明
6月10日 6:41 ·
イミタチオ・クリスチ(152):
愛する者よ、あなたが常に聖なる恐れのうちに生き、死のことにたえず注意するならば、あなたはいかに大きな危験から自分を救い得ることであろうか。23:31
<解説>これを岩波訳では「ああ、最愛のもの(私の魂)よ、もしあなたが始終死を想って懼れるならば、どれほど大きな危険を免れ、どのような恐怖を捨て去ることができよう」と訳している。岩波訳の方が分かりやすい。一応、意味していることは「死の懼れを取り除けば、現実の恐怖など怖れるに足らない」ということを意味しているのだと思うが、ともかく、中世のキリスト者たちの「敬虔な生活」とはこんなものかと、辟易する。ほとんど「死に病」に取り憑かれた病人のようである。

23加藤 道子さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他21人
コメント

宮 達雄 毎朝少しづつ読んでいます。良い時間です。


文屋 善明
6月10日 7:58 ·
NHKこころ旅。宮城県大和町吉岡から。今日の目的地は、加美郡色麻町加美広域農道。吉岡といえば私の父の出身地の最寄りも町だ。風が強い。ヘビイチゴ。なだらかな坂道が体力を消耗するようだ。苦しそうな正平さん、頑張れ。色麻町に入る。

13Luke Etsuzou Nomahさん、藤木 冨士子さん、他11人


文屋 善明
6月10日 15:44 ·
今日の「折々のことば」。映画「FAKE」の監督、森達也氏の言葉である。私はこの映画を見ていないし、森氏のことも何も知らない。FAKEは「耳の聞こえない作曲家」として有名であった佐村河内さんのことを取り扱っているらしい。その時実際に作曲したのが新垣さんで、「ゴーストライター」問題として、かなりすったもんだした。鷲田先生の「語りはいつもある場所からなされる」という言葉が光っている。このゴーストライター問題で、発信者の発信場所が問題になっている。そう言えば、アメリカの大統領にせよ、日本の首相にせよ、その演説の「書き手」は本人ではないことはほとんど明らかにされている。なぜ、彼らのことを「ゴーストライター」と呼ばないのであろう。
文屋 善明さんの写真

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19藤木 冨士子さん、望月 克仁さん、他17人

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