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断想:聖霊降臨後第4主日(T6)の福音書

2016-06-11 06:40:38 | 説教
断想:聖霊降臨後第4主日(T6)の福音書
「感謝の心、愛の行為」  ルカ7:36~50
     
1. イエスに香油を注いだ女性の伝承
一人の女性がイエスに高価な香油を注いだという記事は4つの福音書すべてに見られる。
      マルコ14:3~9 非常に高価なナルドの香油
      マタイ26:6~13 極めて高価な香油
      ルカ7:36~50 罪深い女を赦す
      ヨハネ12:2~8 ラザロの姉マリア

2.4つの福音書を比較してみると
(1)マルコ、マタイ、ヨハネはベタニアにて「葬りの準備」とする。ルカだけがガリラヤでの出来事
(2)香油を塗った女性はマルコとマタイは「一人の女」、ルカは「罪深い女」、ヨハネは「マリア」
(3)ナルドという地名を挙げているのはマルコとヨハネだけ
(4)香油が塗られた部位は、マルコ、マタイではイエスの頭、ルカとヨハネでは足
(5)シモンという名前はマルコ、マタイは「重い皮膚病の人」、ルカは「ファリサイ派の人」
(6)貧しい者へという言及はマルコ、マタイ、ヨハネ
(7)女性の行為を批判するのはマルコ、マタイでは「弟子たち」、ヨハネでは「イスカリオテの・ユダ」、ルカにはその部分がない。
(8)「福音が宣べ伝えられる」に触れているのはマルコ、マタイ

以上、一人の女性がイエスに香油を塗ったという記事を比較すると、かなり複雑な伝承の過程が推測される。そのことについては専門家の議論に任せるとして、少なくともルカの手元に届いた資料はルカ特有のものであったであろう。

3. ルカの見解
先ず、ルカがこの出来事を取り上げる際に取り上げなかったポイントを確認しておく。先ず、この出来事をイエスの葬りのためのものという要素を無視している。第2の点は、貧しいものに施したらという点も取り上げていない。第3に、彼女の行為が世界中で記念とされるということにも触れない。つまり、他の福音書を取り上げている点をほとんど無視し、逆にこの物語を罪の赦しについての説話とし、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(7:47)をメッセージとしている。言い換えると、彼女の行為をイエスに対する「感謝と愛の表現」として語り、それ以外のことを語らない。
ファリサイ派の人の正しさを批判する物語でもなく、「罪深い女性」の罪を軽減したり、女性の中に潜む美しさや純粋さを抽出するエピソードでもない。ここで描かれているファリサイ派の人はイエスと弟子の一行を迎えるような寛容な人物であり、そこに紛れ込む「罪深い女性」も「見て見ぬ振りをする度量の大きさを持つ善人として描かれている。それに対して、女性の方も決して淑女ぶる戸もなく、むしろ「いかがわしい女性」丸出し、イエスの足元でイエスにサービスをする。そこには、ちょっとでも自分をよく見せようとする気配もない。従って、それを見ている人々は例外なく、不快な気分になっている。だからこそ、招待者である善良なファリサイ派の人は「「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」という。この感想は非常に正直である。皮肉とか、妬みというようなゆがんだ批判ではない。まさに、正当な批判である。

4. ファリサイ派の人シモンへの言葉
そのような状況の中でのイエスの発言が興味深い。先ず、招待者であるシモンへの発言。「シモン、あなたに言いたいことがある」。おそらくイエスの足元では女性がサービスをしたままであろう。「シモン、あなたに言いたいことがある」。真っ正面からの発言である。他の誰かへの発言ではない。シモン自身への発言である。シモンもそれを真っ正面から受け止める。「先生、おっしゃってください」。これも堂々としている。自信がある。自分の発言に何も間違ったことは言っていないという自信がある。イエスは1つの譬え話を語り始める。「ある金貸しから、2人の人が金を借りていた。1人は500デナリオン(通常の労働者2年分ほどの賃金、イメージとしては500万円程度か)、もう一人は50デナリオン(要するに50万円程度)である。2人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。2人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」。この最後の「愛するだろうか」という言葉は女性がらみだと誤解を招く。要するに「感謝するか」という意味として理解しておけば十分であろう。シモンは状況から見て、この2人というのが自分と女性とを意味しているのだろうと言うことを十分理解した上で、なお「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。この会話の中には何もひねくれた解釈が入る余地もない。そこでイエスは言葉を継いで「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。ここでイエスが「この人」と言って指さす先には例の女性がいる。このイエスの言葉にはシモンに対する批判の言葉はない。シモンの行動に何も問題はない。ただあるとしたら「愛が少ない」ということだけであろう。愛の少なさは批判されるべきことではない。重要なことは、ただ関係の問題である。そのことよりもシモンを驚かせたことはイエスがこの女性の行為を「愛」の表現として受け取り、しかもその愛は罪の赦しに基づくものだというイエスの理解である。言われてみれば、その通りで、それに反論する言葉がない。彼女の行為はこの場にふさわしいかとか、誤解を招く恐れがあるとかといういわば常識を越えていることは言え、それが彼女の愛の表現であるということは誰も否定できない。彼女の行為が「愛に基づく行為」であるとしたら、シモンの行動基準は「正義」である。正義という基準で人間関係を計れば、シモンは彼女に勝っている。しかし、愛を基準として考えると、シモンの行為は彼女に劣る。

5. 罪深き女性への言葉
次に、イエスは女性の方に語りかける。「あなたの罪は赦された」。ここで間違ってはいけないことは、この女性の罪は、この行為によって、厳密には感謝の行為によって、赦されたのではない。むしろ、この女性はこの部屋に入る前に既に罪は赦されていた。ここでいう「罪の赦し」とは「神に受け入れられている」という認識である。彼女の商売が「罪な商売」だというような意味での「罪」でもないし、日常性の中での細々とした「悪いこと」がここでいう罪ではない。神から見放されている状態、神に近づけない状況、神から離れているという生き方がトータルとして「罪」であり、罪の赦しとは「神によって受け入れられている」という関係である。人間は自分自信が神から受け入れられているということを確信したときに、自分自身を受け入れることができるし、他人を愛することができる。
彼女は今までに何らかの機会にイエスの言葉により「神によって受け入れられている」ということを経験したのであろう。従って、この場で語られる「あなたの罪は赦されている」という言葉はそれを公に宣言しただけである。彼女は密かに「赦された」という経験をイエスの前で、そして人々の前で、感謝の行為として告白しているのである。

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